触れて 融けて 流れて 消えて。

篠宮 楓

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其の壱

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「でねぇ、さくらさん。昨日の私の夕飯、ホントさいっこうの出来だったのよ!」
『それはよかったですねー』
「結婚記念日だから頑張ったのに、食費も奮発したっていうのに! あんの野郎、飲みが入ったとか言って午前様で!」
『それは悲しい』
「仕事だから仕方ないと諦めて優しい言葉返信してあげたらね? 帰ってきてびっくりよ! ただの同期の飲みとか! どっちが大切って話よね!」
『いつの時代も、男は勝手なものなのねぇ』



 わたしの木の下には、よく人が来る。
 葉が茂りまだ暑くならないこの時期は、特に。
 さっきから話している、この女の人もそう。近所に住むみやこという女性で、結婚十年目の新婚さん……は通り過ぎた夫婦の奥さんの方。
 生まれた時からここに住んでいる彼女は、幼い頃からずっと私の事を”さくらさん”と呼んでいろいろと話しかけてくる。まぁ、半分以上は心のわだかまりを言葉にすることで、ストレスの発散をしているんだろうけれど。

 私は隣に座ってその話を聞きながら相槌をうっているけれど、当たり前の様にみやこには聞こえない。だからみやこは気が済むまで話すと、すっきりとした顔で自宅へと戻っていく。
 文句の大半を占める、旦那さんの帰ってくる二人の家へと。

「さて! 今日も落ち着いたわぁ。さくらさんありがとう! またね」
 今日も同じようににこやかに笑って、みやこは自宅へと帰って行く。
『大きくなるものねぇ、こんな短い年月で』
 木の根元に座ったまま帰っていくみやこの後姿を見送って、ぽつりと呟いた。

 時間の流れの違う、私達とひと。
 私達にとっては僅かな時間としか思えない間に、人の一生を終えてしまう。ついこの間まで小さな子供だったみやこが、すでに自分の家族を持つ歳へと成長した様に。

 交わるようで、交わらない。
 私達と、ひとの世は。


 そろそろ枝の方に戻ろうかとしたその時、こちらに向って歩いてくる足音に伏せていた顔を上げた。
 視界に映るのは、みやことは違い今年からよく来るように……いや具体的に言えば春から来始めた男の姿。まだ名前を知らないこの男は、ここに来て何をするでもなくただ座って本を読む。

 他人の幸せを願った、男。
 ……それはただの男だった。
 興味を惹かれたのも束の間、あの二度目の祈り以外にあの言葉を聞かなくなってしまった。一体どうしたのだろうと思ったけれど、そのまま過ごしていれば興味も薄れていく。
 あの声を聞いた頃よりは、私の興味も収まりつつあった。

「今日も、暑いなぁ」
 そう呟くと、いつもの如く……といった風に私の隣に腰を下ろす。この男に私の姿が見えているとは思えないけれど。


 私に限らず樹木を拠りどころとしている精霊は、喜楽曰く……存在が”マイナスイオン!”なんだそうだ。
 樹木の持つ心を穏やかにする力が身についているせいで、傍にいると落ち着くらしい。
 喜楽はそれがたまに嫌になるらしく、どこかに遊びに行ってしまうけれど。
 みやこの場合は、彼女が座ってから横へと腰を下ろす。
 聞こえも見えもしない私がそこにいるだけで落ち着くというなら、たやすい事。
 しかも彼女の話はとてもくだらなくてとても優しくてとても温かい。帰る際に見せる屈託のない笑顔に少しでも私が役立っているなら、それは嬉しい。


 前に聞いたことがある。


 癒しを求める人は、自然を求めると。
 その自然の一つである私の元に来る人々の中にも、きっといると思う。
 みやこだけではなく……

 すでに本を読み始めている男の横顔を、そっと窺う。

――たぶん、この男も。

 ここに来ると、まるで見えているかのように私の側に来る。地に降りていればその横に、枝に座っていればその下に。
 二回目の時の様に、何か話しかけてくることもない。
 ただそこに来て、ただ本を読み、気が済めば帰っていく。

 沙紀さんとお兄さんはどうなったのか、それが気になっていたりもするけれど聞くすべもない。

 男の読む本を横から読んでいたけれど、数字がいっぱい出てくるその字面に私は早々に立ち上がった。いつもなら帰るまで同じ場所にいるのだけれど、さすがにみやこの話を聞いた後だから同じ体勢を続けるのは疲れる。

 幹に手を置いて片足を軽く地に叩きつけると、ぽんっ……と音がするかのように体が宙へと跳ねる。
 枝よりも少し上に浮かんだ体を枝に下す様に掌を伸ばせば、いつもの場所に体が落ち着いた。
 千年以上も生きている私の本体は、大きな枝が多い。その中でも私は、一番下の枝が気に入っていた。
 ここならば、ひとの子らの表情が見えて楽しいから。

 枝に沿わす様に体を横たえると、座っていた男が何かに気が付いたように読んでいた本から顔を上げた。
『……?』
 その仕草に首を傾げながら見ていると、きょろきょろとしていた男はふと立ち上がった。
「……あれ?」
何 か考える様にしきりに首を傾げていたけれど、諦めたのか小さく息を吐いて本を鞄にしまう。
 そうしてどこか不思議そうにわたしを見上げると、そのまま広場の出入り口へと歩き去ってしまった。
『……どうしたのかしら』
 まだ来てから少ししか経っていないのに。

 いつもなら一時間以上はここを陣取る彼の後姿を、私は首を傾げたまま見えなくなるまで見送った。
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