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夏
其の参
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『今日も暑くなりそうだねぇ』
そう言い残して、喜楽は風の精霊と遊びに朝から出かけて行った。身軽に空の向こうへと飛んでいく喜楽を羨ましいとは思いこそすれ、この場所を動きたくない気持ちの方が勝る。
幼い頃の精霊が本体からある程度離れることが出来るのは、存在自体が希薄だから。成長するにつれ、本体に縛られるように小さな範囲のみでしか離れられなくなる。
既に遠目に姿を見ることも出来ない空を見上げたまま、枝に仰向けに寝転んだ。
肩からずり落ちた袿の裾が、重力に従って枝から地に向って垂れて風をはらむ。
『暑くなりそう……ね』
最近はあまりの炎天下に、日中に人が来ることは減った。陽が翳る夕刻頃、ちらほらと散歩に来るだけ。
みやこだけは頻繁に来るけれど、それでも今までよりは短い時間で戻っていく。
『青い、なぁ……』
空が、青い。
抜けるような青空とは、こういう事を言うんだろうな。
指先をゆっくりと振れば、小さな風の精霊が遊ぶように纏わる。楽しそうに笑う姿は、きらきらとしていて。
私はその風に、自らの息吹をのせて周囲へと巡らす。
そしてその風は――
私の手の届かない、この広場全体へ
そして風の精霊たちが、広場の外の街へ
そして生きとし生けるものたちへ
それが私に与えられた、神からの仕事。
清浄な風を生み出し、この地に……この空に巡らせること。
あぁ、いつか。
いつか終わりが訪れたら。
この息吹の巡りゆく先へと、私もいってみたい……。
視界に映りこむ、桜の枝葉の隙間に見える青空に目を細めたその時。
「あつ……」
『……?』
小さく呟かれた声に、誰か来たのかと顔だけをそちらに向けると見慣れた姿。
『あ』
あの男。
あの、春から常連になった男が、ちょうど私の寝転がっている枝の下あたりの地面に腰を下ろすところだった。
『この暑いのに、酔狂な男だな』
陽は南天をとうに過ぎてはいるけれど、それでもまだ夕には遠い。
木陰とはいえ、暑かろうに。
案の定というべきか、もう一度暑いと呟いて男は着ていた上着を一枚脱いで胸元をパタパタと扇ぎだす。
その手にはいつも読んでいるような本ではなく、何か数枚の紙をはさんだうすっぺらいものが掴まれていた。
ぺらんぺらん音をさせながら扇ぐ男を横目で見ながら、阿呆な奴だねぇと独りごちる。もう少し陽が翳ってから来ればいいものを、こんな暑い最中に来なくてもいいだろうに。
けれど私=桜の元に人が来てくれるのは、とても嬉しい事には変わりなく。しばらくたってもぺらんぺらんと仰いでいる男を見て、私は小さくため息をついて体を起こした。
『今日だけだからね』
そう言い訳のように呟くと、先ほどと同じように指先を小さく揺らす。
『さくらの主さま、さくらの主さま』
私の指先に纏わるように、風の精霊が顔を出した。
『またお仕事?』
『働き過ぎ? 主さま』
それはいくつもの小さな光を纏う、風の精霊たち。心配する精霊たちに小さく頭を振って、申し訳ない気持ちを込めて頭を下げた。
『いいや、私のわがままなんだけれど聞いて貰える?』
下の男に目線を向けると、心得たとばかりに精霊たちは笑ってくるくると踊りだした。
『わがまま、いつもわがまま言わないさくらの主さまの、わがままだって!』
『涼しくしてあげよう、風を吹かせてあげよう』
『喜ぶかな、主さまも人も喜ぶかな』
その姿に、思わず笑みが零れる。
先程と同じように両掌を口元に近づけて、風に息吹をのせた。
『主さまが笑ったよ、主さまが笑った』
『頑張らなきゃ、涼しくしなきゃ』
ふわり、風が揺らぐ。
私の手のひらを離れたそれは一度宙でくるりと回った後、下に座る男の元へとゆっくりと降りていく。
「……?」
男が何かに気付いて顔を上げたその時、風の精霊たちがその体に纏わりながら吹き抜けて行った。それはそよ風よりも少し強く、風というには少し弱い。けれど男の体温を下げるには役に立ったようで、ぺらんぺらんという音が消えた。
男を窺えば、きょろきょろと辺りを見渡している。
少しは涼しくなったかしら。
再び横になろうと枝に手を伸ばした私の視界に、こちらをふり仰ぐ男の姿が入った。
『え……?』
間違いなく、目が、合ってる。
交わす事のない視線が、なぜか。
片手を枝に伸ばした不格好な状態のまま、私は思わず動きを止めて男からの視線を逸らすことなく見返した。
私に気付いた?
長くここに来ている、みやこでさえ私の存在を知らないのに?
わけがわからないまま見返していたら、男はふわりと口元を綻ばせた。
「ありがとう」
お礼を、感謝の気持ちを向けられることは多々ある。
けれどそれは、私の本体である木に対して。
本体は確かに私ではあるけれど。
初めて、だった。
私を見て、言われたのは。
例えその後、その男の態度から私が見えていないという事が分かったとしても――
そう言い残して、喜楽は風の精霊と遊びに朝から出かけて行った。身軽に空の向こうへと飛んでいく喜楽を羨ましいとは思いこそすれ、この場所を動きたくない気持ちの方が勝る。
幼い頃の精霊が本体からある程度離れることが出来るのは、存在自体が希薄だから。成長するにつれ、本体に縛られるように小さな範囲のみでしか離れられなくなる。
既に遠目に姿を見ることも出来ない空を見上げたまま、枝に仰向けに寝転んだ。
肩からずり落ちた袿の裾が、重力に従って枝から地に向って垂れて風をはらむ。
『暑くなりそう……ね』
最近はあまりの炎天下に、日中に人が来ることは減った。陽が翳る夕刻頃、ちらほらと散歩に来るだけ。
みやこだけは頻繁に来るけれど、それでも今までよりは短い時間で戻っていく。
『青い、なぁ……』
空が、青い。
抜けるような青空とは、こういう事を言うんだろうな。
指先をゆっくりと振れば、小さな風の精霊が遊ぶように纏わる。楽しそうに笑う姿は、きらきらとしていて。
私はその風に、自らの息吹をのせて周囲へと巡らす。
そしてその風は――
私の手の届かない、この広場全体へ
そして風の精霊たちが、広場の外の街へ
そして生きとし生けるものたちへ
それが私に与えられた、神からの仕事。
清浄な風を生み出し、この地に……この空に巡らせること。
あぁ、いつか。
いつか終わりが訪れたら。
この息吹の巡りゆく先へと、私もいってみたい……。
視界に映りこむ、桜の枝葉の隙間に見える青空に目を細めたその時。
「あつ……」
『……?』
小さく呟かれた声に、誰か来たのかと顔だけをそちらに向けると見慣れた姿。
『あ』
あの男。
あの、春から常連になった男が、ちょうど私の寝転がっている枝の下あたりの地面に腰を下ろすところだった。
『この暑いのに、酔狂な男だな』
陽は南天をとうに過ぎてはいるけれど、それでもまだ夕には遠い。
木陰とはいえ、暑かろうに。
案の定というべきか、もう一度暑いと呟いて男は着ていた上着を一枚脱いで胸元をパタパタと扇ぎだす。
その手にはいつも読んでいるような本ではなく、何か数枚の紙をはさんだうすっぺらいものが掴まれていた。
ぺらんぺらん音をさせながら扇ぐ男を横目で見ながら、阿呆な奴だねぇと独りごちる。もう少し陽が翳ってから来ればいいものを、こんな暑い最中に来なくてもいいだろうに。
けれど私=桜の元に人が来てくれるのは、とても嬉しい事には変わりなく。しばらくたってもぺらんぺらんと仰いでいる男を見て、私は小さくため息をついて体を起こした。
『今日だけだからね』
そう言い訳のように呟くと、先ほどと同じように指先を小さく揺らす。
『さくらの主さま、さくらの主さま』
私の指先に纏わるように、風の精霊が顔を出した。
『またお仕事?』
『働き過ぎ? 主さま』
それはいくつもの小さな光を纏う、風の精霊たち。心配する精霊たちに小さく頭を振って、申し訳ない気持ちを込めて頭を下げた。
『いいや、私のわがままなんだけれど聞いて貰える?』
下の男に目線を向けると、心得たとばかりに精霊たちは笑ってくるくると踊りだした。
『わがまま、いつもわがまま言わないさくらの主さまの、わがままだって!』
『涼しくしてあげよう、風を吹かせてあげよう』
『喜ぶかな、主さまも人も喜ぶかな』
その姿に、思わず笑みが零れる。
先程と同じように両掌を口元に近づけて、風に息吹をのせた。
『主さまが笑ったよ、主さまが笑った』
『頑張らなきゃ、涼しくしなきゃ』
ふわり、風が揺らぐ。
私の手のひらを離れたそれは一度宙でくるりと回った後、下に座る男の元へとゆっくりと降りていく。
「……?」
男が何かに気付いて顔を上げたその時、風の精霊たちがその体に纏わりながら吹き抜けて行った。それはそよ風よりも少し強く、風というには少し弱い。けれど男の体温を下げるには役に立ったようで、ぺらんぺらんという音が消えた。
男を窺えば、きょろきょろと辺りを見渡している。
少しは涼しくなったかしら。
再び横になろうと枝に手を伸ばした私の視界に、こちらをふり仰ぐ男の姿が入った。
『え……?』
間違いなく、目が、合ってる。
交わす事のない視線が、なぜか。
片手を枝に伸ばした不格好な状態のまま、私は思わず動きを止めて男からの視線を逸らすことなく見返した。
私に気付いた?
長くここに来ている、みやこでさえ私の存在を知らないのに?
わけがわからないまま見返していたら、男はふわりと口元を綻ばせた。
「ありがとう」
お礼を、感謝の気持ちを向けられることは多々ある。
けれどそれは、私の本体である木に対して。
本体は確かに私ではあるけれど。
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