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第5章 巫女として
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一方、二人だけになった社の中には異様な空気が充たされていた。篝火の薪が弾ける音さえやけに大きく聞こえる気がする。
洞主は日嗣の真向かいに座し、足音が消え数分……人気がなくなったのを確認してから口を開いた。
「……何ゆえ、貴方様があのような物言いをなさるのですか」
「……あれがもっとも適任だと、判じたからだが?」
対する男神の発する声は変わらず冷たく、無機質で――自分以外のすべてを拒絶するような空気を纏っている。
洞主となってからは、巫女を守るためにこうして数々の神と向かい合ってきた。こういう場面でなければ笑って軽口を叩ける神もいるというのに……目の前の男は、互いに一音の無駄すら許さぬ有様だった。
「しかし――奥社の巫女にも誇りがございます。新参の巫女を中心に据えては、不満も出ましょうて。ましてや此度は、見目麗しく高潔な、天孫たる貴方様が執り行う儀式。舞の者はもちろん、楽も詞も……携わる巫女たちは皆、貴方様を想い常にも増して稽古に励んでいるというのに」
「お前たちは心得違いをしている。御霊祭にてお前たちが敬い従うべきは、私ではなくあの水霊だ。淡島の巫女たちは、そのようなことも忘れたか」
「っ――巫女を……私たち女を貶めたのは、貴方がた神々ではございませぬか!!」
あまりに他人事のように宣う神に、洞主は抑えきれず身を乗り出し声を荒げるがそれでも――目の前の男は冷めた視線を返すのみ。
それにどうにもならない無常を感じ、洞主は形ばかりの謝辞を述べると再び座り直した。そして男は、何の感傷もないようにまた言葉を続ける。
「……それに関して、洞主たるお前に聞きたいことがある」
「……何なりと」
「巫女の名は、どの神が下している」
「……何ゆえそれをお聞きになるのです。申し上げることは私にはできませぬ。いかな神であろうとも、決して申せませぬ。高貴な貴方様には、端々の巫女の名などどうでもいいことではありませぬか」
「あの娘も、そうして何も語らなかった……」
「……っ!?」
不意にゆらりと男の影が揺れ、その手が洞主の眼前に伸びる。それを避ける間もなく、洞主は胸ぐらを掴まれ床に押し倒されていた。
衝撃で簪が乱れ、中途半端にほどけた髪がもつれる。幾重もの衣が崩れ、情事の跡のように床に広がる。
「何を――」
見上げれば、暗闇を照らす火の色を帯びた男神の黒髪が揺れ、その下の鋭い葉のような瞳が自分の無様に乱れた姿を映した。
それはまるで夜這いにも似た――あまりに甘美な恫喝だった。
「……その態度がもはや答えを述べているに等しいことに気付かぬか」
「……」
冷艶な眼差しと唸るような声に、洞主はごくりと唾を呑む。
「神か人か、いずれが先に堕ちたのかを論ずる気はない。だが今の神々に憤りを持つお前ならば、巫女についても等しく現状を承知であろう。今はもはや淡島の巫女たちは形骸化して、永い時を生き飽いた神の一夜の娯楽……遊女となっている。そうして神性を失った巫女たちもまた、自分を抱く神々のあらゆる優劣を競い、優越感や嫉妬に興じては目に見える愚かで安易な欲望を満たすのみ――」
「それとあの子に……神依に何の関係があるのです。ゆえにこそ私は、淡島では神々と縁を結び、愛される者こそ幸いだとすでに申し伝えております」
「……たしかに巫女となった以上、いずれはあれも天降る男神と肌を重ねることになろう。だがあの名では、悪戯に神々に肉を貪らせその身を削るものになる。そしてそれは、他の女たちの浅ましい怨嗟を依り憑かせることになるだろう。……あの娘がそれに耐えられるとは思わぬ」
「それは……」
「儀式が終わるまではいい。あの名なればこそ私が依りその加護を与えよう。蛟の魂にも添うて神を成してもらう。だがその後は名を変えるよう、根底の女神に進言せよ」
「……」
頷くことも声を出すこともできない洞主に、神は手を緩めると一度衣を正し立ち上がる。
「……ひ……つぎ、様」
その背を目で追えば神は振り返ることなく、ただ深い……青い炎が醸すような、静寂に音を与えた声で応えた。
「……間違えるな。あれは……まだ間に合う」
「……」
その声の火が消えるのと同時に、それ以上何をされるわけでも言われるわけでもなく足音が遠ざかっていく。
「――玉衣様!!」
それに反するようにすぐに耳慣れた声と足音が近づき、大きな手が自分を抱き起こしてくれた。おそらくずっと近くで控えていてくれたのだろう。
「……大事ない。すまぬな、大兄」
「いえ……しかし」
「……構わぬ。あのご気性と猛々しさ、何より美しさはやはり、月日の神の血族のものよな……いや、もう一柱荒ぶる男神がおられたか。久しく忘れておった」
洞主は中途半端に残る簪を抜き、手櫛で髪を整える。その簪を、宝物を扱うように一本一本大兄が受け取り、忍ばせていた布に包んでいく。
戒めを解かれた髪は軽やかに、だがその反面心はひたすらに重いまま――。
「……大兄。私は舞巫女たちに、何を申せば赦してもらえるだろう」
「それは……」
「想うことすらあの神は許してくださらない。私はそれを自らの口で申し伝え、その憤りが穢れとなって神依に向かうのを鎮めねばならぬ。……どうすればいい?」
明確な返事を期待していたわけでもないが、大兄もまた神妙そうな顔をして口を開いた。
「……お言葉ですが、考えあぐねている時間もさほどないかと……。大弟が度々奥社の神事を覗かせておりましたが、おそらく仮世での生も含め自らが芸事に携わるのは初めてでしょう。となれば一どころか零から所作を仕込まねばなりませぬ。日があるとはいえども、余裕があるわけでもありません。何か一差し――すぐにでも舞巫女らに混ぜて稽古を始めませんと形にすらならぬかと」
「……で、あろうな」
その禊の言葉に洞主は頷き、立ち上がる。大兄もまた黙してそれに従った。
「……何かお召し上がりになりますか。甘いものでもご用意いたしましょう」
「……頼む。明日からは忙しくなりましょうて……今日一晩くらいは、ゆるりと過ごすことにしよう」
「はい」
洞主は乱された衣を整え、目を伏せる。
男神に身を重ねられたのはいつ以来だろう。
そう思えば、先程の恫喝は――恐ろしくも、歯がゆくも思えた。
洞主は日嗣の真向かいに座し、足音が消え数分……人気がなくなったのを確認してから口を開いた。
「……何ゆえ、貴方様があのような物言いをなさるのですか」
「……あれがもっとも適任だと、判じたからだが?」
対する男神の発する声は変わらず冷たく、無機質で――自分以外のすべてを拒絶するような空気を纏っている。
洞主となってからは、巫女を守るためにこうして数々の神と向かい合ってきた。こういう場面でなければ笑って軽口を叩ける神もいるというのに……目の前の男は、互いに一音の無駄すら許さぬ有様だった。
「しかし――奥社の巫女にも誇りがございます。新参の巫女を中心に据えては、不満も出ましょうて。ましてや此度は、見目麗しく高潔な、天孫たる貴方様が執り行う儀式。舞の者はもちろん、楽も詞も……携わる巫女たちは皆、貴方様を想い常にも増して稽古に励んでいるというのに」
「お前たちは心得違いをしている。御霊祭にてお前たちが敬い従うべきは、私ではなくあの水霊だ。淡島の巫女たちは、そのようなことも忘れたか」
「っ――巫女を……私たち女を貶めたのは、貴方がた神々ではございませぬか!!」
あまりに他人事のように宣う神に、洞主は抑えきれず身を乗り出し声を荒げるがそれでも――目の前の男は冷めた視線を返すのみ。
それにどうにもならない無常を感じ、洞主は形ばかりの謝辞を述べると再び座り直した。そして男は、何の感傷もないようにまた言葉を続ける。
「……それに関して、洞主たるお前に聞きたいことがある」
「……何なりと」
「巫女の名は、どの神が下している」
「……何ゆえそれをお聞きになるのです。申し上げることは私にはできませぬ。いかな神であろうとも、決して申せませぬ。高貴な貴方様には、端々の巫女の名などどうでもいいことではありませぬか」
「あの娘も、そうして何も語らなかった……」
「……っ!?」
不意にゆらりと男の影が揺れ、その手が洞主の眼前に伸びる。それを避ける間もなく、洞主は胸ぐらを掴まれ床に押し倒されていた。
衝撃で簪が乱れ、中途半端にほどけた髪がもつれる。幾重もの衣が崩れ、情事の跡のように床に広がる。
「何を――」
見上げれば、暗闇を照らす火の色を帯びた男神の黒髪が揺れ、その下の鋭い葉のような瞳が自分の無様に乱れた姿を映した。
それはまるで夜這いにも似た――あまりに甘美な恫喝だった。
「……その態度がもはや答えを述べているに等しいことに気付かぬか」
「……」
冷艶な眼差しと唸るような声に、洞主はごくりと唾を呑む。
「神か人か、いずれが先に堕ちたのかを論ずる気はない。だが今の神々に憤りを持つお前ならば、巫女についても等しく現状を承知であろう。今はもはや淡島の巫女たちは形骸化して、永い時を生き飽いた神の一夜の娯楽……遊女となっている。そうして神性を失った巫女たちもまた、自分を抱く神々のあらゆる優劣を競い、優越感や嫉妬に興じては目に見える愚かで安易な欲望を満たすのみ――」
「それとあの子に……神依に何の関係があるのです。ゆえにこそ私は、淡島では神々と縁を結び、愛される者こそ幸いだとすでに申し伝えております」
「……たしかに巫女となった以上、いずれはあれも天降る男神と肌を重ねることになろう。だがあの名では、悪戯に神々に肉を貪らせその身を削るものになる。そしてそれは、他の女たちの浅ましい怨嗟を依り憑かせることになるだろう。……あの娘がそれに耐えられるとは思わぬ」
「それは……」
「儀式が終わるまではいい。あの名なればこそ私が依りその加護を与えよう。蛟の魂にも添うて神を成してもらう。だがその後は名を変えるよう、根底の女神に進言せよ」
「……」
頷くことも声を出すこともできない洞主に、神は手を緩めると一度衣を正し立ち上がる。
「……ひ……つぎ、様」
その背を目で追えば神は振り返ることなく、ただ深い……青い炎が醸すような、静寂に音を与えた声で応えた。
「……間違えるな。あれは……まだ間に合う」
「……」
その声の火が消えるのと同時に、それ以上何をされるわけでも言われるわけでもなく足音が遠ざかっていく。
「――玉衣様!!」
それに反するようにすぐに耳慣れた声と足音が近づき、大きな手が自分を抱き起こしてくれた。おそらくずっと近くで控えていてくれたのだろう。
「……大事ない。すまぬな、大兄」
「いえ……しかし」
「……構わぬ。あのご気性と猛々しさ、何より美しさはやはり、月日の神の血族のものよな……いや、もう一柱荒ぶる男神がおられたか。久しく忘れておった」
洞主は中途半端に残る簪を抜き、手櫛で髪を整える。その簪を、宝物を扱うように一本一本大兄が受け取り、忍ばせていた布に包んでいく。
戒めを解かれた髪は軽やかに、だがその反面心はひたすらに重いまま――。
「……大兄。私は舞巫女たちに、何を申せば赦してもらえるだろう」
「それは……」
「想うことすらあの神は許してくださらない。私はそれを自らの口で申し伝え、その憤りが穢れとなって神依に向かうのを鎮めねばならぬ。……どうすればいい?」
明確な返事を期待していたわけでもないが、大兄もまた神妙そうな顔をして口を開いた。
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「……で、あろうな」
その禊の言葉に洞主は頷き、立ち上がる。大兄もまた黙してそれに従った。
「……何かお召し上がりになりますか。甘いものでもご用意いたしましょう」
「……頼む。明日からは忙しくなりましょうて……今日一晩くらいは、ゆるりと過ごすことにしよう」
「はい」
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