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第5章 巫女として
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そうして禊に案内された家は、淡島の片隅にある小さな浮島の家だった。
やはり跳び石で繋がれており、その小島に行くにはそれを渡るしかない。
「夜ですので足元にお気をつけ下さい。今夜は豊葦原が雨のようで、雲海も雲に覆われ星明かりがありませんから」
「そうなんだ。上も下も星の海って、ちょっと楽しみにしてたのにな」
神依は緋色の海で猿彦の背を追ったことを思い出しながら禊の背を追う。
(そういえば……)
あのとき、疲れていたのか少しぼうっとしてしまって、日嗣に不審がられてしまったことがあった。別に責められたわけではないが、その目は明らかに何か物言いたげで、なのに口は真一文字に結ばれていた。
(……明日からは、もっとちゃんとしなきゃ)
自分が怒られるのは仕方ない。ただ、誠実に挑まなければ――あの水霊にも顔向けできない。
正直なところ、新たな神として転じるということが、実際にはどんな絵を伴って起きるものなのか想像もできない。でも――それでも今度は巫女として立ち会うことになるのだから。あのときとは違うのだから、しっかり向き合えるように頑張ろうと、心の奥で決意も新たに一歩を踏み出す。
そうして石を渡り終えると、目隠しのように被さる小さな竹林があり、その間の細い道を抜けた先が家屋だった。
申し訳程度の門、素朴な竹垣。棟は小さな平屋建てだったが、屋根が高く造られているような気がする。そこに葺かれた瓦や壁にも年月が感じられたが、嫌なふうに古さを感じない。縁側と隣り合う小庭には水が湧く池があり、鯉が泳いでいた。仮宿と似ている。庭木も季節ごとのもので、その足元でところどころに夏草が群れている。
家にはすでに灯が点されていて、空気が橙色に染まっていた。気後れしない、温かみのある――神依の好きな雰囲気。
「あまり華美なものはお好みにならないだろうと思って選ばせていただいたのですが」
「うん、すっごく気に入った。ねえ禊、お風呂は? 温泉!」
「家の奥手に少し下る道がありますのでそちらから。ですが――ここで何をもする前に、貴女に巫女としてお会いになっていただきたい方がいらっしゃるのです」
「え……?」
そう言って、禊は庭の一番奥へと神依を導く。島の淵。
こちらにも竹垣が造られていたが、その角には時を重ねていびつに、粋に伸びる梅の木と……石垣で積み上げられた、小さな祠が佇んでいた。
「屋敷神にあらせられます」
「……神様がいるの?」
神依が問うと、禊が答えるよりも早くその小さな祠の扉がキイッと音を立てて開く。
「……!?」
息を呑んで見守っていると、その隙間から出てきたのは……二匹の白い鼠。
一匹は長い髭をたくわえ、尾に自分の腹ほどの透明の珠を結わえている。そしてもう一匹はつやつやの毛並みの、すらりとした鼠だった。
親子だろうか。髭の鼠は若い鼠に手を借り珠を抱き寄せると、大儀そうに姿勢を正し――神依を見上げて、やわらかく目を細めた。
「――ほう、此度は巫女であったか。よくぞ参った」
「……禊、ねずみが喋ったよ」
「神依様……」
呆けたように呟く神依に、禊が呆れたような溜め息を返す。しかし鼠は好好爺然とした口調で続けた。
「よいよい。家というのはな、母や娘、おなごが爛漫な方が栄えるのじゃ。――儂は鼠軼と申す。そちが言うとおり正しく鼠。しかしほれ、その腕に巻きつく蟒蛇程度には怖じぬ逸材であるぞ。逸は軼、鼠軼じゃ。そしてこれが一番上の息子で鼠英と言う。儂は今より五百年ほど前の覡に祭られこの家の守り神とされた。家も家主も数回変わり、息子もまだまだ未熟なれどその神威を継いでおる」
「五百年……すごい」
ピキュッとおかしな声を上げてたじろぐ子龍に神依は微笑み、また鼠英が礼儀正しく頭を下げるので神依自身も改めて姿勢を正してそれに返した。
「ねずみなんて言ってごめんなさい。鼠軼様、鼠英様。わたしは神依といいます。これからこのお家に住まわせていただきます」
「んむ、善きかな。巫女なれば、家の繁栄と子宝の利益を授けよう」
鼠軼は尾で巻いた珠をその小さな手でなでる。珠の中で光が揺らぎ、たったそれだけで本当に神様の加護があるように神依には思えた。
「ねえ禊。童の言ってたとおり――淡島には本当にたくさんの神様がいるんだね」
「はい。この家は長らく私たちの拠り所となることでしょう。どうぞご自身の御心が満足するまで、神に護られたこの住まいにて、巫女としての生き方、あり方を模索なさって下さい」
「うん――わかった」
日嗣や猿彦とも異なる神の姿。見えなくても在るのだろう淡島の神々の存在を実感した神依は、改めて新居とそこにある神と人とを見回す。
まだ未熟な自分にはわからないが、禊がこの家を選んだのはそういうことを教えてくれるためだったのかもしれない。
「禊、童。今日まで、大事なことをたくさん教えてくれてありがとう。――また改めて、よろしくね」
「はい」
「なんかそう言われると、照れるけどな」
また新しい生活が始まる。ただ、今は……流されてきたときとは異なり、神依はようやく少し、生きる力を手に入れていた。
やはり跳び石で繋がれており、その小島に行くにはそれを渡るしかない。
「夜ですので足元にお気をつけ下さい。今夜は豊葦原が雨のようで、雲海も雲に覆われ星明かりがありませんから」
「そうなんだ。上も下も星の海って、ちょっと楽しみにしてたのにな」
神依は緋色の海で猿彦の背を追ったことを思い出しながら禊の背を追う。
(そういえば……)
あのとき、疲れていたのか少しぼうっとしてしまって、日嗣に不審がられてしまったことがあった。別に責められたわけではないが、その目は明らかに何か物言いたげで、なのに口は真一文字に結ばれていた。
(……明日からは、もっとちゃんとしなきゃ)
自分が怒られるのは仕方ない。ただ、誠実に挑まなければ――あの水霊にも顔向けできない。
正直なところ、新たな神として転じるということが、実際にはどんな絵を伴って起きるものなのか想像もできない。でも――それでも今度は巫女として立ち会うことになるのだから。あのときとは違うのだから、しっかり向き合えるように頑張ろうと、心の奥で決意も新たに一歩を踏み出す。
そうして石を渡り終えると、目隠しのように被さる小さな竹林があり、その間の細い道を抜けた先が家屋だった。
申し訳程度の門、素朴な竹垣。棟は小さな平屋建てだったが、屋根が高く造られているような気がする。そこに葺かれた瓦や壁にも年月が感じられたが、嫌なふうに古さを感じない。縁側と隣り合う小庭には水が湧く池があり、鯉が泳いでいた。仮宿と似ている。庭木も季節ごとのもので、その足元でところどころに夏草が群れている。
家にはすでに灯が点されていて、空気が橙色に染まっていた。気後れしない、温かみのある――神依の好きな雰囲気。
「あまり華美なものはお好みにならないだろうと思って選ばせていただいたのですが」
「うん、すっごく気に入った。ねえ禊、お風呂は? 温泉!」
「家の奥手に少し下る道がありますのでそちらから。ですが――ここで何をもする前に、貴女に巫女としてお会いになっていただきたい方がいらっしゃるのです」
「え……?」
そう言って、禊は庭の一番奥へと神依を導く。島の淵。
こちらにも竹垣が造られていたが、その角には時を重ねていびつに、粋に伸びる梅の木と……石垣で積み上げられた、小さな祠が佇んでいた。
「屋敷神にあらせられます」
「……神様がいるの?」
神依が問うと、禊が答えるよりも早くその小さな祠の扉がキイッと音を立てて開く。
「……!?」
息を呑んで見守っていると、その隙間から出てきたのは……二匹の白い鼠。
一匹は長い髭をたくわえ、尾に自分の腹ほどの透明の珠を結わえている。そしてもう一匹はつやつやの毛並みの、すらりとした鼠だった。
親子だろうか。髭の鼠は若い鼠に手を借り珠を抱き寄せると、大儀そうに姿勢を正し――神依を見上げて、やわらかく目を細めた。
「――ほう、此度は巫女であったか。よくぞ参った」
「……禊、ねずみが喋ったよ」
「神依様……」
呆けたように呟く神依に、禊が呆れたような溜め息を返す。しかし鼠は好好爺然とした口調で続けた。
「よいよい。家というのはな、母や娘、おなごが爛漫な方が栄えるのじゃ。――儂は鼠軼と申す。そちが言うとおり正しく鼠。しかしほれ、その腕に巻きつく蟒蛇程度には怖じぬ逸材であるぞ。逸は軼、鼠軼じゃ。そしてこれが一番上の息子で鼠英と言う。儂は今より五百年ほど前の覡に祭られこの家の守り神とされた。家も家主も数回変わり、息子もまだまだ未熟なれどその神威を継いでおる」
「五百年……すごい」
ピキュッとおかしな声を上げてたじろぐ子龍に神依は微笑み、また鼠英が礼儀正しく頭を下げるので神依自身も改めて姿勢を正してそれに返した。
「ねずみなんて言ってごめんなさい。鼠軼様、鼠英様。わたしは神依といいます。これからこのお家に住まわせていただきます」
「んむ、善きかな。巫女なれば、家の繁栄と子宝の利益を授けよう」
鼠軼は尾で巻いた珠をその小さな手でなでる。珠の中で光が揺らぎ、たったそれだけで本当に神様の加護があるように神依には思えた。
「ねえ禊。童の言ってたとおり――淡島には本当にたくさんの神様がいるんだね」
「はい。この家は長らく私たちの拠り所となることでしょう。どうぞご自身の御心が満足するまで、神に護られたこの住まいにて、巫女としての生き方、あり方を模索なさって下さい」
「うん――わかった」
日嗣や猿彦とも異なる神の姿。見えなくても在るのだろう淡島の神々の存在を実感した神依は、改めて新居とそこにある神と人とを見回す。
まだ未熟な自分にはわからないが、禊がこの家を選んだのはそういうことを教えてくれるためだったのかもしれない。
「禊、童。今日まで、大事なことをたくさん教えてくれてありがとう。――また改めて、よろしくね」
「はい」
「なんかそう言われると、照れるけどな」
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