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第6章 兆し
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御霊祭の話が持ち上がってより、日嗣が頻繁に訪れるようになったその高天原の社殿はにわかに空気が色めいていた。
元々、日常的に詰めるのはほとんどその社殿の主神を世話する女神や采女ばかり。社殿を警備する衛士や雑用をこなす下男などもいるが、彼らにも女たちがいつにも増して華やいでいるのが感じられた。
しかし男たちは男たちで、その日嗣が自ら取り立てたという巫女の話でひそかに盛り上がっている。
神事と政を司る高天原でそんな話が許されるのは私邸かあの朱の楼閣の中だけであったが、集まる男神も日に日に増えて、件の巫女を酒の肴に、話に花を咲かせていた。
他の巫女とは異なる漂着、一風変わった振る舞いと境遇。それは神々の膿んだ退屈を払い退けて、酒の席ともなれば多少の色を含んでさらに興味を煽られる。
何より今まで女を寄せつけなかった御令孫と縁を結んだ娘がどんなものか、それだけですでに手が出せない男神たちも、話だけにはそそられた。
無知と無垢、淫猥と清純、清らと穢れ。その巫女を語るにはいつだって、相反する言葉や善悪の思惑が交わり、ますますに彼女を異質な存在にしていく。
「――誰ぞ他に、好い娘はおらぬのか」
加えて日嗣がまみえたその社殿の主でさえそう宣うものだから、結局は人の世も神の世も変わらぬ、と日嗣はひそやかに溜め息を吐いた。
その日の神事と政を終えいささか気を緩めていたその神は、そのとき十余りの女神や采女を侍らせ札遊びに興じていたから、御簾の向こうからもくすくすと悪意を含んだ笑みが漏れ聞こえてくる。
「聞けばお前が取り立てたその娘、処女を禍津霊なんぞに散らされたとか。しかもすでに、蛭の子まで生んでおるそうじゃ。わらわの耳にも、よう色の着いた噂と人の悪どき願いが届きおる」
「ただの噂であり、ただの悪意です。そのどちらにも私が立ち会い、この目で真を見極めております」
「ふむ――お前の言うことは、信じよう。だとしても――だ。噂と言えども真を凌駕す勢いぞ。口にするにもおぞましき、蝿が集る腐物が如く厭悪の念を集めておる。そんな穢らわしい娘なぞ捨て置け。お前には、わらわがもっと良き娘を用意してやる」
「……別に、嫁にもらうわけではありません」
「ほう! お前からその言葉が出るとは思わなんだ――何なら今ここで御簾を上げてしんぜようか? お前に相応しき女神や、見目良き采女もちょうどおる」
その最後だけ……ころころと愉しげに語られた言葉に、春風のようにふわっと上がる女たちの嬌声。それに日嗣は眉を寄せ、御簾を不機嫌そうに見つめた。そして相手をするのも下らない、といったふうに立ち上がる。
「そのような話でお召しに預かったのならば私が申すことはありません。これにて――」
「馬鹿者」
そして踵を返したところをムッとしたような声音で呼び止められて、日嗣は肩越しに御簾を見遣った。
「わらわが嫌がらせのためだけにお前を呼ぶわけがなかろう、月読と一緒にするな。――その月の君から、御霊祭は進貢の広場で催せとお前に達しじゃ」
「……あの大叔父上が?」
「おそらく何か視えたのであろう。幸いあそこには水場もある。龍というには頼りなき、儚き蛟の魂なれど――龍は神にも人にも属さぬもの。蛟と侮り、千年後に大蛇と成ってはわらわも敵わぬ。今回は月読も人を介さず自らそれを申し伝えてきた。加えてわらわの口からこれを申せば、それが何を意味するか――わかるな?」
「……月日の運行に逆らう者はおりますまい。御意のままに――せいぜい件の巫女ともども、良き見せ物にならせていただきます」
「それこそうつけの物言いよ。可愛い孫の、久方ぶりのハレ舞台――わらわは純粋に、楽しみなのじゃ」
御簾越しにも満面の笑みを浮かべているであろうことが窺えるその神に、日嗣は一度向き直ると無言のまま頭を下げその場を後にする。
一帯を占める巨大な高殿、広大な社殿群は、日嗣の祖母――天照大御神が坐す、高天原でももっとも特別視されるところだった。見上げれば、さらに上天へと突き抜けるその社。そこに日嗣の気が休まる場所はなく、肉親としての寵愛も今は負担だった。
「――孫」
そんな場所で、思わぬ耳慣れた声を聞いた日嗣はわずかにまとう空気を緩め、声がした方に振り向く。
「彦。お前がこちらに出向いているとは、珍しいな」
「あー……」
かみさんにな、と少し言い辛そうに猿彦は続ける。
……ここが居心地の悪い場であることには二人とも変わりはない。日嗣はそんな場所で気の置けない友と出会ったことに少し安堵し、自身の居室へと足を向けた。
***
「……あの娘のことだろう。気を遣わせてすまない」
「別にお前に気を遣ってるわけじゃないから気にすんな。まあ上も下も、ちょっとした騒ぎだけどな……」
そうしてその殺風景な部屋の、廻り縁に寄りかかりながら猿彦は言葉とともに下界を見下ろす。空と白い靄とが見えるだけの世界。しかし猿彦の目には少しだけそれが異なって見える。八衢は、今日は小雨が降っていた。
「……神依、毎日頑張ってるみてーだからな。芸事の加護ならうちのかみさんが一番いい。きっと御霊祭までには、上手くなる」
「……」
日嗣は特に何を言うでもなく、同じように白い景色をぼうっと眺めた。
巫女としての祈りは毎日、毎日届いている。巫女が行う進貢は神々の魂の糧となるから、日嗣たちにはそれが伝わる。何を選び捧げているかまでは知れないが、おそらく自らの魂と、依となる花との相性が良かったのだろう。はっきりと――あの娘だと、わかる。
ただ一日一日が経つに連れ、それは捧げられる祈りから求められる救いへと変わっていった。それには多分、神依自身を依とした従者たちの想いも混ざっている。
そもそもあのような下世話な噂が祖母にまで届くこと自体が少し異様なのだ。それは膨れ上がった悪意の大きさを示している。
きっとあの少女たちは、噂では済まない、もっと鋭い……見えない刃に晒されて、やはり見えない心を削ぎ落とされているのだろう。そして神も同じように、祈りを、救いを受け取ることはできても、その加護を目に見える形で人に見せることはできない。
結局神は、神たる害悪と加護にしか干渉できないのだ。
よもや自身が求めた巫女に手を出すような愚かな神もいないだろうと、日嗣は天孫という立場を利用して神依を取り立てた。そうすることで他の男神の邪な思いを依り憑かせぬよう――女としての身と心が傷付かぬよう、護ったつもりだった。
しかしそれが逆に人の妬み嫉みを生み、神依の人としての身と心を傷付けることになってしまった。
それに……名前のこともある。そもそもあれが、間違いだったのではないだろうか。
「また……俺のせいだろうか」
意図したわけでもなく漏れ出た日嗣の言葉に、猿彦は視線を友に戻す。
「……神様だって万能じゃねえ。どっかを引っ込めればどっかが立つさ。お前は今の巫女と神の関係を嫌ってるから、そっちをどうにかしてやりたかったんだろ。神依はそういうの、何も知らねえみたいだったからな。後は人の世の問題だ」
「だとしても……だ」
「……もしお前のせいだけなら、神依だってとっくに自分には無理だって断ってるさ。だけどそうしないのは、神依も全部わかってるからじゃねえのか。今も大変な思いして頑張ってるのは、別にお前のせいでもお前のためでもねえ。だと思うならそれは、お前の天孫としての思い上がりだ。いいか? お前のためじゃなくて、あの水霊のためだ」
その猿彦の言い様に、日嗣は自らが洞主に述べた言葉を思い出し自嘲気味に呟く。
「……お前は本当に、いっそ清々しいほど俺に対して遠慮がないな」
「いいだろ。良いとこの坊っちゃんには、一人くらいそういう奴がいないとな」
「ああ……そうだな。お前はたしかに、道の神だ。いつも助かる」
「……」
そう言う友の顔は久しぶりに見る、子供のような何の屈託もない穏やかな顔になっていて、猿彦は小首を傾げて無言のまま「どうした?」と問うてみせた。
「――明日、淡島に降りようと思う。実は婆様から、御霊祭は進貢の広場でせよと命じられてな」
「そらまた……男神にも女神にも喜ばれそうな、良い見せ物だな」
「だろう。それは気が乗らぬが……いろいろあってな。致し方ない。だから明日、少し様子見に行ってくる」
「……それで?」
「……俺は神ゆえに、人が人を救う術を知らない。だからもし――それを示してくれるような者と会うたなら、もう一度あの娘を……すくい取ってやりたいと思う。今度は海ではなく、淀の中から。縁あらば、きっと何者かが俺にそれを唆してくれるだろう。俺はそれをもって、あの娘が神たる俺に取って何になるのか……少し、考えてみようと思う」
「……孫」
その友の言葉に、猿彦は少し驚いたように顔を上げる。
それは友の……神たる魂の、ほんの細やかな変化だった。
神は空を仰ぐ手には傲り、地をかきむしる手には膝を折る。しかしそればかりでもなく――今の日嗣の言葉には神とはまた別の……生来人が持つ、慈しみが含まれているような気がした。
日嗣が持つ、中途半端な魂のほころびとその神威。それは、人の手なくしては育たないものでもあった。
「いや……そうだよな。そもそも神依は、お前がお前自身の手で絡め取った子だ。そしてお前が女として救い、お前が巫女として取り立てた。お前の好きにすればいい」
「……」
無言のまま頷く日嗣に、猿彦は再び自分にだけ見える雲海へと目を向ける。
猿彦には、何が友の心を変えたのかはわからない。それをするには、まだ少し少女とは距離が遠い気がする。ただ、それでも――あの少女の存在が、何らかの兆しになったことだけは感じられた。
晩夏――初秋。御霊祭も近く、水の気がわずかに増している。高天原にも水気を帯びた風が吹き、日嗣の髪や猿彦の頭を揺らした。
「……」
思い出されるのは、もう一人の……水の魂を持つ人間。
「神依……、俺なんかに謝る必要ないのにな」
「……何の話だ?」
「いや……、あそこは禊もチビも、三人とも優し過ぎんなと思ってさ」
猿彦は、この祈りがとても薄情で哀しいものだと理解している。ただそれでも……だからこそ。
今ばかりは傍らの神の友として……その一本の水の糸が天と地を結んでくれるようにと、心の中でひそかに祈った。
元々、日常的に詰めるのはほとんどその社殿の主神を世話する女神や采女ばかり。社殿を警備する衛士や雑用をこなす下男などもいるが、彼らにも女たちがいつにも増して華やいでいるのが感じられた。
しかし男たちは男たちで、その日嗣が自ら取り立てたという巫女の話でひそかに盛り上がっている。
神事と政を司る高天原でそんな話が許されるのは私邸かあの朱の楼閣の中だけであったが、集まる男神も日に日に増えて、件の巫女を酒の肴に、話に花を咲かせていた。
他の巫女とは異なる漂着、一風変わった振る舞いと境遇。それは神々の膿んだ退屈を払い退けて、酒の席ともなれば多少の色を含んでさらに興味を煽られる。
何より今まで女を寄せつけなかった御令孫と縁を結んだ娘がどんなものか、それだけですでに手が出せない男神たちも、話だけにはそそられた。
無知と無垢、淫猥と清純、清らと穢れ。その巫女を語るにはいつだって、相反する言葉や善悪の思惑が交わり、ますますに彼女を異質な存在にしていく。
「――誰ぞ他に、好い娘はおらぬのか」
加えて日嗣がまみえたその社殿の主でさえそう宣うものだから、結局は人の世も神の世も変わらぬ、と日嗣はひそやかに溜め息を吐いた。
その日の神事と政を終えいささか気を緩めていたその神は、そのとき十余りの女神や采女を侍らせ札遊びに興じていたから、御簾の向こうからもくすくすと悪意を含んだ笑みが漏れ聞こえてくる。
「聞けばお前が取り立てたその娘、処女を禍津霊なんぞに散らされたとか。しかもすでに、蛭の子まで生んでおるそうじゃ。わらわの耳にも、よう色の着いた噂と人の悪どき願いが届きおる」
「ただの噂であり、ただの悪意です。そのどちらにも私が立ち会い、この目で真を見極めております」
「ふむ――お前の言うことは、信じよう。だとしても――だ。噂と言えども真を凌駕す勢いぞ。口にするにもおぞましき、蝿が集る腐物が如く厭悪の念を集めておる。そんな穢らわしい娘なぞ捨て置け。お前には、わらわがもっと良き娘を用意してやる」
「……別に、嫁にもらうわけではありません」
「ほう! お前からその言葉が出るとは思わなんだ――何なら今ここで御簾を上げてしんぜようか? お前に相応しき女神や、見目良き采女もちょうどおる」
その最後だけ……ころころと愉しげに語られた言葉に、春風のようにふわっと上がる女たちの嬌声。それに日嗣は眉を寄せ、御簾を不機嫌そうに見つめた。そして相手をするのも下らない、といったふうに立ち上がる。
「そのような話でお召しに預かったのならば私が申すことはありません。これにて――」
「馬鹿者」
そして踵を返したところをムッとしたような声音で呼び止められて、日嗣は肩越しに御簾を見遣った。
「わらわが嫌がらせのためだけにお前を呼ぶわけがなかろう、月読と一緒にするな。――その月の君から、御霊祭は進貢の広場で催せとお前に達しじゃ」
「……あの大叔父上が?」
「おそらく何か視えたのであろう。幸いあそこには水場もある。龍というには頼りなき、儚き蛟の魂なれど――龍は神にも人にも属さぬもの。蛟と侮り、千年後に大蛇と成ってはわらわも敵わぬ。今回は月読も人を介さず自らそれを申し伝えてきた。加えてわらわの口からこれを申せば、それが何を意味するか――わかるな?」
「……月日の運行に逆らう者はおりますまい。御意のままに――せいぜい件の巫女ともども、良き見せ物にならせていただきます」
「それこそうつけの物言いよ。可愛い孫の、久方ぶりのハレ舞台――わらわは純粋に、楽しみなのじゃ」
御簾越しにも満面の笑みを浮かべているであろうことが窺えるその神に、日嗣は一度向き直ると無言のまま頭を下げその場を後にする。
一帯を占める巨大な高殿、広大な社殿群は、日嗣の祖母――天照大御神が坐す、高天原でももっとも特別視されるところだった。見上げれば、さらに上天へと突き抜けるその社。そこに日嗣の気が休まる場所はなく、肉親としての寵愛も今は負担だった。
「――孫」
そんな場所で、思わぬ耳慣れた声を聞いた日嗣はわずかにまとう空気を緩め、声がした方に振り向く。
「彦。お前がこちらに出向いているとは、珍しいな」
「あー……」
かみさんにな、と少し言い辛そうに猿彦は続ける。
……ここが居心地の悪い場であることには二人とも変わりはない。日嗣はそんな場所で気の置けない友と出会ったことに少し安堵し、自身の居室へと足を向けた。
***
「……あの娘のことだろう。気を遣わせてすまない」
「別にお前に気を遣ってるわけじゃないから気にすんな。まあ上も下も、ちょっとした騒ぎだけどな……」
そうしてその殺風景な部屋の、廻り縁に寄りかかりながら猿彦は言葉とともに下界を見下ろす。空と白い靄とが見えるだけの世界。しかし猿彦の目には少しだけそれが異なって見える。八衢は、今日は小雨が降っていた。
「……神依、毎日頑張ってるみてーだからな。芸事の加護ならうちのかみさんが一番いい。きっと御霊祭までには、上手くなる」
「……」
日嗣は特に何を言うでもなく、同じように白い景色をぼうっと眺めた。
巫女としての祈りは毎日、毎日届いている。巫女が行う進貢は神々の魂の糧となるから、日嗣たちにはそれが伝わる。何を選び捧げているかまでは知れないが、おそらく自らの魂と、依となる花との相性が良かったのだろう。はっきりと――あの娘だと、わかる。
ただ一日一日が経つに連れ、それは捧げられる祈りから求められる救いへと変わっていった。それには多分、神依自身を依とした従者たちの想いも混ざっている。
そもそもあのような下世話な噂が祖母にまで届くこと自体が少し異様なのだ。それは膨れ上がった悪意の大きさを示している。
きっとあの少女たちは、噂では済まない、もっと鋭い……見えない刃に晒されて、やはり見えない心を削ぎ落とされているのだろう。そして神も同じように、祈りを、救いを受け取ることはできても、その加護を目に見える形で人に見せることはできない。
結局神は、神たる害悪と加護にしか干渉できないのだ。
よもや自身が求めた巫女に手を出すような愚かな神もいないだろうと、日嗣は天孫という立場を利用して神依を取り立てた。そうすることで他の男神の邪な思いを依り憑かせぬよう――女としての身と心が傷付かぬよう、護ったつもりだった。
しかしそれが逆に人の妬み嫉みを生み、神依の人としての身と心を傷付けることになってしまった。
それに……名前のこともある。そもそもあれが、間違いだったのではないだろうか。
「また……俺のせいだろうか」
意図したわけでもなく漏れ出た日嗣の言葉に、猿彦は視線を友に戻す。
「……神様だって万能じゃねえ。どっかを引っ込めればどっかが立つさ。お前は今の巫女と神の関係を嫌ってるから、そっちをどうにかしてやりたかったんだろ。神依はそういうの、何も知らねえみたいだったからな。後は人の世の問題だ」
「だとしても……だ」
「……もしお前のせいだけなら、神依だってとっくに自分には無理だって断ってるさ。だけどそうしないのは、神依も全部わかってるからじゃねえのか。今も大変な思いして頑張ってるのは、別にお前のせいでもお前のためでもねえ。だと思うならそれは、お前の天孫としての思い上がりだ。いいか? お前のためじゃなくて、あの水霊のためだ」
その猿彦の言い様に、日嗣は自らが洞主に述べた言葉を思い出し自嘲気味に呟く。
「……お前は本当に、いっそ清々しいほど俺に対して遠慮がないな」
「いいだろ。良いとこの坊っちゃんには、一人くらいそういう奴がいないとな」
「ああ……そうだな。お前はたしかに、道の神だ。いつも助かる」
「……」
そう言う友の顔は久しぶりに見る、子供のような何の屈託もない穏やかな顔になっていて、猿彦は小首を傾げて無言のまま「どうした?」と問うてみせた。
「――明日、淡島に降りようと思う。実は婆様から、御霊祭は進貢の広場でせよと命じられてな」
「そらまた……男神にも女神にも喜ばれそうな、良い見せ物だな」
「だろう。それは気が乗らぬが……いろいろあってな。致し方ない。だから明日、少し様子見に行ってくる」
「……それで?」
「……俺は神ゆえに、人が人を救う術を知らない。だからもし――それを示してくれるような者と会うたなら、もう一度あの娘を……すくい取ってやりたいと思う。今度は海ではなく、淀の中から。縁あらば、きっと何者かが俺にそれを唆してくれるだろう。俺はそれをもって、あの娘が神たる俺に取って何になるのか……少し、考えてみようと思う」
「……孫」
その友の言葉に、猿彦は少し驚いたように顔を上げる。
それは友の……神たる魂の、ほんの細やかな変化だった。
神は空を仰ぐ手には傲り、地をかきむしる手には膝を折る。しかしそればかりでもなく――今の日嗣の言葉には神とはまた別の……生来人が持つ、慈しみが含まれているような気がした。
日嗣が持つ、中途半端な魂のほころびとその神威。それは、人の手なくしては育たないものでもあった。
「いや……そうだよな。そもそも神依は、お前がお前自身の手で絡め取った子だ。そしてお前が女として救い、お前が巫女として取り立てた。お前の好きにすればいい」
「……」
無言のまま頷く日嗣に、猿彦は再び自分にだけ見える雲海へと目を向ける。
猿彦には、何が友の心を変えたのかはわからない。それをするには、まだ少し少女とは距離が遠い気がする。ただ、それでも――あの少女の存在が、何らかの兆しになったことだけは感じられた。
晩夏――初秋。御霊祭も近く、水の気がわずかに増している。高天原にも水気を帯びた風が吹き、日嗣の髪や猿彦の頭を揺らした。
「……」
思い出されるのは、もう一人の……水の魂を持つ人間。
「神依……、俺なんかに謝る必要ないのにな」
「……何の話だ?」
「いや……、あそこは禊もチビも、三人とも優し過ぎんなと思ってさ」
猿彦は、この祈りがとても薄情で哀しいものだと理解している。ただそれでも……だからこそ。
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