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第6章 兆し
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屋根を叩く雨の音、葉に落ちる雫の気配。
二人は薄暗くなってきた神楽殿の壁に寄りかかり、並んで座っていた。
「結局……俺は、神として餓えているのだと思う……」
ぽつぽつと、雨露のように語られる言葉に神依は静かに耳を傾ける。
「よく、鋭い葉のようだと言われる」
「偉い……神様なのに?」
「……だからこそ、なのだろうな」
「……」
「……俺の神としての魂は……灼熱の風に焼かれた大地のようだと言う者がいた。……けれどそれは、日の威光のせいでますますに干からびていく。……無論、生物が生きるのに日は必要だろう。だがそこへ投げられるのは豊んだ肥料ばかりで、俺が求めるものは一滴も与えられない」
「……」
日嗣の横顔を見上げていた神依は、どこかで同じような感覚を得た気がして抱きかかえていた膝をさらに体に寄せる。同時に頭の中で繰り返される、日嗣の声によく似た別人の声。
――なぜ私は、愛しい妻をただ一人の子に変えねばならぬのか。
体の奥できしきしと痛む、地が水を失い、渇き、細いヒビが入っていくような感触。それは……寄り添うものを失った者の悲しみと心細さ……底知れぬ孤独感だった。
「……」
しかし神依は、その根源が愛情であったことを知っている。
(なら……、日嗣様は、やっぱり――)
――けれど、それを口にするのは怖かった。受け入れてはいけないことを、日嗣自身の口から語られるのは……嫌だった。
再び窺うように見上げれば、日嗣は何か考えるように遠くの空を眺めていた。
「……日嗣様……?」
「俺は正直……その魂を持てあましている」
「……」
「たまにどうしようもなく、どうしていいかわからなくなるときがある。ああして……荒ぶらせてしまうことがある。それを、癇癪だのまだ青臭いガキだのと彦に笑われる。……あながち間違っていないのが、また腹立たしいが」
「……ふふっ」
「……なぜお前が笑う」
「やっぱり、仲良しなんだなあって」
「……」
眉をひそめ怪訝そうな顔をする日嗣に、神依もようやく笑顔を見せる。
てっきり日嗣がいない場での軽口かと思っていたが……まさか本人にも言っていたとは。
そういう関係は羨ましいし、ずるいとも思う。けれどそれを自分にも言ってくれたことが――嬉しかった。
しかし日嗣は、猿彦と神依が何を共有したか知らない。それに不服そうに目を反らすと、意味なく向かいの壁を眺め、呟いた。
「……お前は、俺のことをどこまで知っている?」
「え?」
「……あれは」
「?」
「いや……お前の禊は何も語らぬだろうな。……よくできている」
「……」
神依は抱いていた膝を下ろし、足を崩す。向かいの壁に話すように語る男に、何を求めているのか自ら問う勇気はなかった。
だが日嗣はそれを責めることをせず……かわりに自らも姿勢を崩し、体中の何かを吐き出すように長く大きく息を吐くと、そのまま重力に任せて床に横たわった。
「――日嗣様」
「……あんなざまを見せて、今更取り繕う方が滑稽だろう。俺はもう、正直疲れた……」
「……」
「……お前がなぜ俺を拒んだか、察しはついている。それをどこまで知られているのか――いや、すでにすべて知って隣に座してくれているなら、どれだけ気が楽になるかしれない」
「……奥さんが……いるってことですか……?」
「……それしか知らぬのなら、今はまだ聞いて欲しくない。これ以上ここで……浅ましい姿を晒したくはない。欠片ほどの誇りでも……残さなければ、俺の今までの時間も虚勢も、すべて無益なものに思えてしまう。……契りを交わした女神にも、顔向けできない」
「……」
「その代わり……お前が問い、俺が話せるときが来たら、話す。もちろんそれは自己満足で……お前がどう思うかはわからない。けれどそれをしなければ、結局俺はいつまで経っても中途半端なままだ。……」
「わたし……、……わたしは、どうすれば……いいですか?」
「……どうもしなくていい。今のままでいい……。……いや。とりあえず、俺に謝る必要はもうない。……今まで、にべもない態度を取ってすまなかった」
「……いえ」
今度は日嗣の方からされた謝罪に、神依はかすかに笑む。床に広がった日嗣の髪を集めるようにして頭に触れれば、その意図を察してくれたのか、遠慮がちにではあったが崩した足に頭が乗せられた。まだ、軽い。
日嗣がすべてを自分に預けきれないように……自分もまだ、心から笑えない。それはまだ、互いに不安があるからだ。
もしそのときが来たら、何を語られるか……怖い。自分がこの場所にいていいのか、わからないのが怖い。近づいてしまったことが……嬉しくて、同じくらい怖い。
それでも――
「……でもやっぱり日嗣様は、猿彦さんが言ったとおり……最初から、優しかったんだと思います。……禊と一緒で、いろいろと下手っぴだけど」
「……いちいち他の者の名を出して代弁させるな。それから禊のくだりは、……男として、わりと癪に障る言われ方だ」
「……」
機嫌を損ねたように立ち上がる日嗣に、神依は困ったような笑みを浮かべそれに倣う。もう、帰らなければならない時間だ。
静かな空気にとっくに飽きていた子龍は傘を真ん丸にしようと悪戦苦闘していたが、それに気付くと神依に駆け寄って拾い上げてもらえるのを待った。
「……送っていく」
「あ……もしよければなんですけど。ついでに、晩ご飯食べていきませんか? きっとみんな――日嗣様も、びっくりすると思います」
「……お前は一体、何をやらかしているんだ……」
言いながら傘を開けば、子龍が嬉しそうにそれを見上げる。それを見て、神依はにこりと笑った。
「……御霊祭、上手くいくといいですね」
「……ああ。きっと良い神が成る」
***
――それから、しばらくの後……。
神依の帰りが遅いことを心配して門に出ていた童の目に、一本の傘の下、言葉少なに――それでもゆったりと歩む主と、一柱の神の姿が映った。
二人は薄暗くなってきた神楽殿の壁に寄りかかり、並んで座っていた。
「結局……俺は、神として餓えているのだと思う……」
ぽつぽつと、雨露のように語られる言葉に神依は静かに耳を傾ける。
「よく、鋭い葉のようだと言われる」
「偉い……神様なのに?」
「……だからこそ、なのだろうな」
「……」
「……俺の神としての魂は……灼熱の風に焼かれた大地のようだと言う者がいた。……けれどそれは、日の威光のせいでますますに干からびていく。……無論、生物が生きるのに日は必要だろう。だがそこへ投げられるのは豊んだ肥料ばかりで、俺が求めるものは一滴も与えられない」
「……」
日嗣の横顔を見上げていた神依は、どこかで同じような感覚を得た気がして抱きかかえていた膝をさらに体に寄せる。同時に頭の中で繰り返される、日嗣の声によく似た別人の声。
――なぜ私は、愛しい妻をただ一人の子に変えねばならぬのか。
体の奥できしきしと痛む、地が水を失い、渇き、細いヒビが入っていくような感触。それは……寄り添うものを失った者の悲しみと心細さ……底知れぬ孤独感だった。
「……」
しかし神依は、その根源が愛情であったことを知っている。
(なら……、日嗣様は、やっぱり――)
――けれど、それを口にするのは怖かった。受け入れてはいけないことを、日嗣自身の口から語られるのは……嫌だった。
再び窺うように見上げれば、日嗣は何か考えるように遠くの空を眺めていた。
「……日嗣様……?」
「俺は正直……その魂を持てあましている」
「……」
「たまにどうしようもなく、どうしていいかわからなくなるときがある。ああして……荒ぶらせてしまうことがある。それを、癇癪だのまだ青臭いガキだのと彦に笑われる。……あながち間違っていないのが、また腹立たしいが」
「……ふふっ」
「……なぜお前が笑う」
「やっぱり、仲良しなんだなあって」
「……」
眉をひそめ怪訝そうな顔をする日嗣に、神依もようやく笑顔を見せる。
てっきり日嗣がいない場での軽口かと思っていたが……まさか本人にも言っていたとは。
そういう関係は羨ましいし、ずるいとも思う。けれどそれを自分にも言ってくれたことが――嬉しかった。
しかし日嗣は、猿彦と神依が何を共有したか知らない。それに不服そうに目を反らすと、意味なく向かいの壁を眺め、呟いた。
「……お前は、俺のことをどこまで知っている?」
「え?」
「……あれは」
「?」
「いや……お前の禊は何も語らぬだろうな。……よくできている」
「……」
神依は抱いていた膝を下ろし、足を崩す。向かいの壁に話すように語る男に、何を求めているのか自ら問う勇気はなかった。
だが日嗣はそれを責めることをせず……かわりに自らも姿勢を崩し、体中の何かを吐き出すように長く大きく息を吐くと、そのまま重力に任せて床に横たわった。
「――日嗣様」
「……あんなざまを見せて、今更取り繕う方が滑稽だろう。俺はもう、正直疲れた……」
「……」
「……お前がなぜ俺を拒んだか、察しはついている。それをどこまで知られているのか――いや、すでにすべて知って隣に座してくれているなら、どれだけ気が楽になるかしれない」
「……奥さんが……いるってことですか……?」
「……それしか知らぬのなら、今はまだ聞いて欲しくない。これ以上ここで……浅ましい姿を晒したくはない。欠片ほどの誇りでも……残さなければ、俺の今までの時間も虚勢も、すべて無益なものに思えてしまう。……契りを交わした女神にも、顔向けできない」
「……」
「その代わり……お前が問い、俺が話せるときが来たら、話す。もちろんそれは自己満足で……お前がどう思うかはわからない。けれどそれをしなければ、結局俺はいつまで経っても中途半端なままだ。……」
「わたし……、……わたしは、どうすれば……いいですか?」
「……どうもしなくていい。今のままでいい……。……いや。とりあえず、俺に謝る必要はもうない。……今まで、にべもない態度を取ってすまなかった」
「……いえ」
今度は日嗣の方からされた謝罪に、神依はかすかに笑む。床に広がった日嗣の髪を集めるようにして頭に触れれば、その意図を察してくれたのか、遠慮がちにではあったが崩した足に頭が乗せられた。まだ、軽い。
日嗣がすべてを自分に預けきれないように……自分もまだ、心から笑えない。それはまだ、互いに不安があるからだ。
もしそのときが来たら、何を語られるか……怖い。自分がこの場所にいていいのか、わからないのが怖い。近づいてしまったことが……嬉しくて、同じくらい怖い。
それでも――
「……でもやっぱり日嗣様は、猿彦さんが言ったとおり……最初から、優しかったんだと思います。……禊と一緒で、いろいろと下手っぴだけど」
「……いちいち他の者の名を出して代弁させるな。それから禊のくだりは、……男として、わりと癪に障る言われ方だ」
「……」
機嫌を損ねたように立ち上がる日嗣に、神依は困ったような笑みを浮かべそれに倣う。もう、帰らなければならない時間だ。
静かな空気にとっくに飽きていた子龍は傘を真ん丸にしようと悪戦苦闘していたが、それに気付くと神依に駆け寄って拾い上げてもらえるのを待った。
「……送っていく」
「あ……もしよければなんですけど。ついでに、晩ご飯食べていきませんか? きっとみんな――日嗣様も、びっくりすると思います」
「……お前は一体、何をやらかしているんだ……」
言いながら傘を開けば、子龍が嬉しそうにそれを見上げる。それを見て、神依はにこりと笑った。
「……御霊祭、上手くいくといいですね」
「……ああ。きっと良い神が成る」
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神依の帰りが遅いことを心配して門に出ていた童の目に、一本の傘の下、言葉少なに――それでもゆったりと歩む主と、一柱の神の姿が映った。
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