恋いろ神代記~縁離の天孫と神結の巫女~

嘉月まり

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第7章 神として

1

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 ついにやって来たその日――御霊祭の朝は、いつにも増して早かった。
「――儂らもつつがなく儀が終わるよう、天の神々に祈っておる。そしてまた、美味いものを美味いよう食えるときをな」
「どうぞお気をつけて。あなた方三人の努力は必ずや大輪の花となって開き、その先に実を結びましょう」
「鼠軼様、鼠英様――ありがとうございます。行ってまいります」
 神依は禊と童とともに屋敷神に挨拶を済ませ、まだ暗い内から八尋の大社の方へ向かう。
 提灯の明かりに照らされる、白い靄と水気を帯びた世界。霧雨。
 進貢の広場まで行くと、朱の楼閣から地上まで煌々と灯がともされ、やはり男たちがその準備に充てられていた。一方神依を含めた巫女たちは、奥社の一角に与えられた控えの間で髪や衣の準備をし、いくつかの神事を終えた後にこちらへ向かう手はずになっている。
 準備の間はさすがに巫女らも神依を構っている暇はないようで、各々慌ただしく動いていた。またどの巫女の禊たちも手落ちが無いよう、気を張っているようだった。
「――神依様、これ」
「なあに?」
そんな中、満面の笑みで童が神依に小さな箱を差し出してきた。神依は禊に髪をとかされながらそれを受け取る。
「間に合ってよかった。……丸いのや、小さいのは俺の世話してくれる匠が造ったんだけど、真ん中のは俺が磨いたんだ」
「……童」
促されて箱を開ければ、透き通る水色の玉と三つの水晶の勾玉が連なる一本の首飾りが入っていた。
(……あれ?)
しかしよく見ると、童が磨いたという中央の一回り大きな勾玉には亀裂が入っている。まさか割れてしまったのだろうか……とそっと手に取り角度を変えれば、
「――わあ……」
その亀裂に沿って、とぷりとした七色の光がきらめいた。
「中に虹が入ってる!」
童を見れば得意気に笑い、それから照れ隠しのように頭をかく。
「好きな色、わかんなかったから……。あのさ、神依様は覚えてないかもしれないけど……俺、湯殿で約束したから」
「……ううん。ちゃんと覚えてるよ。童も覚えててくれたんだね」
「……」
嬉しかったから、と喧騒にかき消えそうな声で呟く童に、神依は思わず身を乗り出し抱きついてしまう。それを禊に怒られまたお説教をされながら支度を調えてもらったのだが、禊は何も言わず衣の下にそれを着けてくれた。
 毎日毎日……神依が眠るのを待っては眠り、神依が目を覚ますのを待たずして目を覚まし、尽くしてくれた少年。さらには禊の手伝いをして働きに出て……きっとこれも、そんな大変な生活の中で自分の時間を割いて造ってくれたものに違いなかった。
「童――ありがとう。わたし、あなたが私の童で本当に良かった。今日のお守りにするね」
「うん――俺……俺も、いっぱい神依様のこと大事に思って造ったから。きっと上手くいく」
着飾って、綺麗になった主に童は少し照れながら頷いた。本当はもっと言いたいこともあったが、それ以上はやはり童として言葉にしてはいけないことだった。
 その後は、洞主と大兄が様子を見に来てくれた。無論それは神依だけを訪ねたものではなく、序列に沿って巫女たちの元を回り、言葉をかけていくものだったが――。
 そこで神依は禊が何度も洞主の元に通っていた話を聞き、祭祀が終わったら一番にお礼を言おうと決めた。
(……禊に童、洞主様に大兄さん。猿彦さんは奥さんに願い、日嗣様は心から求めてくれた。人の姿ではない神様たちも、想ってくれていた。ここまでやって来れたのは、見えなくても、みんなが力を貸してくれたから……)
この世界が、たとえそういう力が理として組み込まれている〝道俣淡島〟だとしても……それと自分が感じているものは、絶対に違う。もっとささやかで、いとおしいもの。
 考えてしまうと涙がにじんできて、ばれないようにそっと袖で目を抑える。何だか最近、涙もろくなってしまった。けれど禊もまた、何も言わず化粧を直してくれる。
「……いよいよだね」
やがて神依は鏡の中に見慣れない自分の姿を映すと、深呼吸をして改めて儀式に臨む心構えを正した。
 いつもの簡素な巫女服ではなく、純白の薄衣を何枚も折り重ねた羽のような衣装。青々とした榊が編み込まれたたすきに、いつもの倍以上の玉飾りと、洞主と日嗣しか使っているのを見たことがない金の装飾まで与えられた。平静を装ってはいるが、心臓は今から早鐘を打ち、手には汗がにじむ。
 しかしそんな主に反し、禊は静かに溜め息を吐いた。
「……ですがやはりまだ少し、見栄えがいたしませんね」
「……でも、これでも少しは長くなったんだよ」
鏡の中で視線を交わし、禊が今も気にして手直しする髪の感触に唇を尖らせる神依。
 何度とかしたところで髪が伸びるわけでもないが、神依の髪は他の巫女たちと比べて明らかに短かった。どうしても飾りの方が大仰に見えてしまうのだが、こればかりは時が経つのを待つしかない。
「もしかして、そんな気になるくらい変?」
「いえ。それでも……貴女様におかれましては初めての、しかも公での神事です。最高の形にして、お披露目して差し上げたかったのですが……」
「ん……」
普段、淡々と完璧に仕事をこなす禊が少し残念そうに見えて、〝禊〟という存在にとっても自身の巫女が表舞台に立つのは特別なことなのだと窺える。
「――あのね、禊」
「はい?」
「わたし……まだ頼りないことだらけだし、馬鹿だから、きっと気付かないことあるかもしれないけど……」
「……?」
「でも、わたしのことを一番助けてくれたのは禊だと思う。きっとそれは、これからも変わらないんでしょう? だから……わたし、頑張るね。禊の気持ちが無駄にならないように……一番下手かもしれないけど、一番カッコ悪いかもしれないけど、でも今までで一番綺麗に舞うから。見てて」
「……はい」
鏡の中の青年はその短い言葉とともに、眉に目に、頬に唇に優しく笑みを刻む。
 それに応えるように神依もまたにっこりと笑い、巫女となり、初めてその衣に身を包んだあの日のように――たくさんの気持ちをこめて、あの日と同じ五文字を贈った。

***

 そうして神依は八尋の大社にて他の巫女たちと一緒に式前の神事をこなし、舞台となる進貢の広場に向かった。
 準備を進めるうちに夜明けは過ぎていたが、それでもこの天気のためか、外は白々としながらもどこか薄暗い。
 傘は与えられなかった。巫女たちは水霊を興すにふさわしいというこの空気に身を晒し、歩みを進める。そうして大社の前の道を抜ければ、先程とは随分と様変わりした広場が神依の眼前に現れた。
 神依はそれを見回し、知らず知らず長く息を吐く。
 ただ一本、花を供える露台の社を境に注連縄が張られ、それを隔てた世界はまるで別物。縄の向こうは日嗣が催す祭祀を見ようと集まってきた者であふれ賑やかに、そして縄のこちら側……池のある方は、ただ水を帯びた空気と静寂とが支配する、水底のような空間となっていた。
 そして池の上には、白い紙の飾り――紙垂しでが提がる真新しい注連縄が張られ、祠が備えられていた。それらは、ここが今日から神の宿る、神聖な空間になることを示している。
 神依は池を横目に、楽人たちの舞台となる雨避けのある座舞台の方へと向かった。そこには楽器が運び込まれ、神楽鈴もそちらに準備されている。
「……」
繻子しゅすに包まれた桐箱を係の覡が広げてくれて、神依はそこにある鈴を丁寧に持ち上げた。形は同じだが、練習用の物とは異なる古い趣のある神楽鈴。鈴の金も五色の布も濃さを帯び、重く感じる。それはきっと、歴史とか伝統とか呼ぶ時間の重みに違いなかった。だから鈴も布もなるべく雨に晒さないよう袖でかばって胸元に抱けば、深い音が一度しゃらりと鳴った。
 御霊祭までは、まだ少し時間があるようだった。というより――本当は神依が準備を始める前、夜のうちからそれは始まっており、一つ一つをこなしながら徐々に高天原を降り最終的にここに辿り着くのだという。
(……日嗣様、大変なんだろうな。無理……はしてないと思うけど、気苦労はしてそう……)
禊たちはこちらに来れないので話し相手もなく、そんなことを考えながら手持ちぶさたに池の方を眺める。
 ……水際に備えられた祠の前には、神と成る前の蛟の骸を安置するための、白木の台座が設けられていた。そして神依ら舞巫女たちが立つ石畳を挟み、その正面に……この広場で人が立てるどの場所より高く、日嗣が立つための輿のようなうてなが組まれている。
 名もなき水霊と天津神を結び、さらに淡島の〝人〟として彼らに仕える……巫女という存在。神たる日嗣の魂が複数の性質を宿すなら、人の姿のまま神になることができるという巫女もまた、その魂に複数の性質を宿している。
「………」
 ……今は不思議と、緊張はなかった。ただあの朱の楼閣を見上げれば……人の姿は見えないのに、何か威圧感のようなものに襲われる心地がした。
 確かにあそこには神依の知らない何かがいて、自分たちを見下ろしている。
 と、その時――
「……!」
その一点から空間がさあっと変わり、波紋のように静寂が広がるのが肌に伝わってきた。
 それが何であるのか理解した神依は、洞主が控える座間の方を見遣る。
 洞主もまた神依にわかるように頷き、それを促した。楽人たちも散るように、舞台に調えられた己の扱う楽器の前に着き始めていた。
 時報も合図も進行も何もない。すべてはただ、その場にある者たちの空気と拍と眼差しだけで進んでいく。
 それは厳かという言葉とも違う。まるでそこにある者たちの存在をすべて混ぜて圧縮して、同一にして、無にしてしまうような感じ。
 しんと静まり返った広場に響く川の音。水の音。それに混じり、かすかに鳴り物の音がしたような気がした。
 それを機に二人の舞巫女らが無言で池の方へ向かい、もう慣れたように定められた場所で足を留め、控える。神依も慌ててそれを追い、頭を下げた。
「あの……、よろしくお願いします」
「……」
「……」
だが二人は何も答えず、神依の代わりに外された舞巫女や、楽、詞を司る巫女たちとちらりと視線を交わして、ただ密やかに笑うだけだった。
「……」
この期に及んで、まだ仲間として認められないことが悲しかったが……ここに至っては、もうそれを嘆く時間も修正する猶予もない。
 神依は再び巫女たちと言葉を交わすこともなく……やがて、一度はっきりと鈴の音が聞こえると、広場に集まった誰もがその天津神を迎えるために静かに道を空け立礼し、また洞主や舞台の巫女たちは額を床に擦りつけた。
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