恋いろ神代記~縁離の天孫と神結の巫女~

嘉月まり

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第7章 神として

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 その、海の中で神依が視たもの。視てきたものはすべて……だった。
 命を落とした原初の女神はやがて地に還り、この世界のあらゆる命の息吹となって、またその命が織り成すたくさんの物語を眺めていた。見守っていた。その記憶。
 神依はその名ゆえに女神と……世界と同化し、その記憶の欠片を辿っていく。

 ……地の底から戻った原初の男神は根の国に降りたことを悔い、穢れた体を清らかな水で禊いだ。
 そしてそのとき、男神の体から男神自ら褒め称えるような美しく威々しい、三柱の神が生まれた。それを〝三貴子〟と呼ぶ。
 男神は一番上の女神に日と高天原を、次に生まれた男神に月と夜の国を、そして最後に生まれた男神に海原を与え、治めるようりたもうた。
 しかし最後に生まれた男神だけは父神に従わず、母神を恋しみ、父神に逐われながら根の国へと降りた。
 ……それは日嗣の、血族の物語だった。
 やがて高天原の神々は豊葦原の神々を降し、その地を治め神と人との頂点に君臨し、統べるにふさわしきある一人の神を選定した。
 それは生まれながらに美しく気高く……葉のように、剣のように鋭い、若き男神。原初の男神の流れを汲む三貴子の長子、日の女神、天照の寵愛深き孫の神……日嗣だった。
(……)
 天照は日嗣のためにあらゆるものを調え、与えた。数多の神を供として遣わせ、美しい御物ぎょぶつをまとわせ、自身の宝物を惜しみなく譲り――あの日嗣を飾る、不思議な音を奏でる首飾りや綺麗な装飾がされた剣は、すべて世に二つとない宝。天照からその一の地位を許された、証だったのだ。
 そうして日嗣は高天原より天降り、この八衢にて一柱の異形の神とまみえた。
 天照はその異形の神を恐れ、一柱の強く美しい女神を遣わせる。そしてその女神は異形の神と差し向かいになっても恐れず、主に従いその正体を問うた。
――我らが天津神の御子が天降る道にあるのは、誰ぞ。
 異形の神は答える。
――俺は国津神、衢神ちまたのかみだ。天より神の御子がお降りになると聞き、御前みさきに仕え先を示そうと、お迎えに参った。……ところでお前、肝が据わったいい女だな。……俺が怖くないのか?
――……は?
(……猿彦さん)
それは神依もよく知る道の神……猿彦と、その妻神を物語る記憶の欠片。
 日嗣は異形の神を顕した女神とその神自身を結ばせ、夫婦となした。
 そして自身は、豊葦原の中でも朝日射し夕日照る日向国……その霊異くしぶる霊峰、高千穂の峯に、降臨した。
 日嗣は始祖が国生みに用いた矛をそこに突き立て、また同じように壮大な御殿みあらかを造り住まいとした。
 そしてある日、その陸のある御埼で見目麗しい……一人の乙女に、出会った。
(……日嗣様)
――見たくない。聞きたくない。
 神依は拒絶するように、子供が駄々をこねるように頭を横に振る。
 しかし過去の記憶は残酷に、ふさいだ耳をすり抜けて神依に語り、閉じたまぶたを透かして神依の意識に淡々とそれを記す。
『――お前は、何処いずこの娘だ』
『……私は大山津見神オオヤマツミノカミの娘であり、名を……木花之佐久夜コノハナノサクヤと申します』
 二人が神依の姿を認めることはない。
 ただ二人は、神依が決して手の届くことがない過去の世界で、二人だけの時間と空間の中で言葉を交わす。
(ああ……)
――あの黄金の瞳に映された女性は、一体どんな女性だったのだろう?
――あの凜とした声が囁く甘い言葉は、その女性をどれだけ虜にしたのだろう?
いつか思ったことが目の前で表されて、また神依の心が押し潰されるように痛んだ。
 ……きっと、一目惚れだったのだと思う。
 美しい花の名を冠した女神は、その花のように……青々とした山に点と誇る桜雲のように艶やかで、薄絹を折り重ねた花弁の如くたおやかで――さりとて易々とは雨風に散らぬ凛々しさをも備えており、その天より降った男神に媚び、しなを作ることもなかった。
 凛として、美しい女神。
 ……だから、その美しい男神と女神は、きっと本当は、二人とも一目惚れだったのだと思う。
 そして男神は、その女神を求める。
『……私はお前と、契りを結びたい。ただ……お前と』
 聞き慣れた声が紡ぐ他者への愛情の言葉はやわく、しかし神依には剣のようだった。そして形なき刃が流させるものは血ではなく、涙しかない。
 水面の瞳には、恋に染む若き男女はいっそう瑞々しくきらめいて映り、そのぶんだけ自分がよりみすぼらしく思えた。
 (……やっぱり、わたしは……)
いらない存在。そしてここでは、その存在すら認めてもらえない存在。
 小さな心はますますに萎縮して、神依の意識を昏いどろどろとした根底の方へと誘っていく。
 ……日嗣はすぐに女神の父に遣いを送り、娘を所望する旨を伝えた。
 そして父である山の神はそれを大層喜び、多くの献上品とともに娘たちを天津神へ送り出すことを決めた。
(……え?)
 ――娘たち。
 そう……その女神には、姉が在った。岩の女神だった。
 山の神は花の女神にてその天津神の繁栄を、岩の女神にてその御代の磐石たることを願い、二人を添えて男神の元へ嫁がせたのだ。
 だが……神依はそこで、そのもっとも美しいはずだった天津神……天孫日嗣の、剥き出しの傲慢さと卑劣さ、その欲望と……今も消えぬ罪と淀の正体を、目の当たりにした。

***

 ……その岩の女神は、妹である花の女神とは似ても似つかない……醜い容姿をしていたのだ。
 日嗣はそれを畏忌いきして父元に送り返し、花の女神だけを自らの腕に留め、一夜の契りを結んだ。
(……日嗣……様)
日嗣様、と神依は真っ白に弾けた頭の中で意味を成さずその名を何度も呟く。
 たしかに……あの優しい指先はさらに優しく、自分とは比べ物にならないくらいその女性を慈しんだのだろう。
 しかしそれは……男神が忌み嫌ったものより遥かに、遥かに酷く醜い……間違いを犯した末の、不誠実で、形なき刃のような指先で成された交わりだった。
 ……割かれた姉妹の心はいかばかりのものだっただろう。
 ただ一人送り返された姉神は? 
 それをなすすべもなく見送り、その残酷な男神の胸に抱かれた妹神は?
(…………)
あの黄金の瞳は、その鋭利な眼差しは、たしかに神依の――そして女神の心を貫いた。
 自分とは似ても似つかない、美しい男。目を合わせてしまったそれだけで疎まれて……拒まれて。それがとても恥ずかしくて、悲しくて、どうしていいかわからない。
 自分がこの男に見合うなどと、決して傲ってはいなかった。誰かを出し抜くつもりもなかった。
 それなのに、自分だけが悪いもののように扱われて。
 頭の中が真っ白に凍りついて、それと同時に情けなさで涙が浮かぶ。男の心が、空気が、歪む間もなく同じように凍りついて、それが融解した瞬間には引き潮のように一気に退いていくのがわかった。
 ――だから嫌だと言ったのに。
 ――信じていたのに。あなたの優しさを信じていたのに。
 ――やはりこんな汚ならしい、穢れた身で愛を望むべきではなかったの? 罪だったの?
 ――だけれど私は、あなたのためならどんなふうにも変われたのに。
 ――ただ待っていてくれさえすれば、ただ待っていてくれさえすれば……。
 そう、この感覚はあのときと同じ――。
「なぜ愛しき我が背が、私にこのような辱しめをお与えになるのですか……」
 原初の男神の流れを汲むその美しい男神はまた、その心奥にある黒い淀までもを受け継いでいた。そして始祖と同じように……剣の振る舞いしか成せぬ男神は、その刃先を今度は花の女神へと向ける。
 花の女神は、その契りによって子を孕んでいたのだ。そして天孫たる日嗣の、公の子として生むことを望んだ。
 しかし、
『――お前は、ただ一夜の契りで私の子を孕んだというのか。……それは真に私の御子であるのか。他の国津神の子ではないのか』
男神は一夜で結ばれ、十月十日を待たずして成った子に女神を疑い、それを責めた。
 しかし、物から……あるいは仕草からでも命を成せる神世に、それが何の意味をなしただろう。女神はその雨風に散らぬ凛々しさをもって潔白を訴え、
『――国津神の子なれば無事には生まれず、天津神たる貴方様の子なれば、何があろうとも無事に生まれてくるでしょう』
うけい、すぐに窓や扉に土を塗り固めた戸口のない産屋にこもると火を放ち、その炎の中で出産をした。
(……っ)
それはあまりに凄絶で、信念に殉ずるような……吐き気がするほど尋常ではなく、同じ女として畏れかしこむしかできないような、身の振り方だった。
 神依にはできない。
 矮小な自分にはできないからこそ……かしこみ、膝を折り、項垂れるように頭を下げる。涙をこぼす。
 ……それを目の当たりにした男神は何を思っただろう。
 子は無事に、。三人の子。
 女神の父である山の神は、三人の子の誕生をいたく喜び……自ら醸した酒をふるまって祝いを催した。
 だが……以来、日嗣はその豊葦原の歴史に名を連ねることは二度となかった。
 その存在に触れられることはなかった。
 あるいは……それをすることは、あの日の威光によって、禁忌とされたのかもしれない。
 そして日嗣は、己の浅はかさを形にしたような強すぎる火と日に灼かれていった。
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