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第9章 身寄り
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そして会話が途切れたところを見計らい、禊が日嗣に近づき深々と頭を垂れた。
「恐れながら、御令孫。……差し出がましいとは存じますが、どうかこれ以上は」
「……お前にも、立場があろうからな。……仕方ない」
日嗣は一つ息を吐くと、隣でじっと石を見つめる童に目を遣る。
まだ幼さに甘んじているがゆえに、屈託なく自然の道理を見、示すことができる存在。
これがあらねば、禊もまたあの場で謳うことはなかった。
日嗣はその小さな手のひらに自らの手を重ね、ゆっくりとその心を現に戻してやる。
「あ……」
そして童が顔を上げこちらを見るのと同時にそっと玉の緒を取ると、髪をどけ再び自身の首元に戻した。
「……一ノ弟」
それを待ち、禊が童に声をかける。同じ座にて頭を垂れるのもおこがましい。地に降り、その足元に額を付けろと禊は弟分に無言のまま諭す。
「……っ」
しかし童は感極まったかのようにじわりと涙を浮かべ、まるで禊の声など聞こえなかったかのように日嗣を見上げると、
「――…!?」
そのままぼすりと抱きついた。
「童……」
「……」
日嗣と神依は一瞬呆気に取られたように顔を見合せ、しかし日嗣は一呼吸置くと静かにそれを受け入れる。
「……どうした」
「ッ俺……こんな日が来るなんて、思わなくて。俺……本当に嬉しくて」
「……」
日嗣はその幼子の頭に手を伸ばし、しかし何かに迷ったようにそれを止めると……数秒の後、ぎこちなくその髪をなでた。
子供特有の、線が細く艶やかな黒髪。小さくて、間違って触れれば壊してしまうような気さえした。
……父たりえなかった自分の、知らないやわらかさ。
「……お前は玉造りが得意だそうだな。もしも匠の道を選ぶなら、いつかそれが神依の……俺や彦の元に届くよう、祈っている」
「……っあ……ありがとうございます……、ありがとうございます……っ!!」
「童……」
そして神依はそんな二人を少し驚いたように眺め、猿彦に目を移した。
いつだったか、神様との間に自ら距離を取り身も心も強張らせていた子が、猿彦以上に取っ付きにくそうな日嗣にそれを委ねている。
猿彦は神依の視線に気づくと、俺の言うことは間違ってなかっただろ? と言わんばかりに唇に笑みを作り神依に問うてみせた。それに神依が持つ答えは、もう一つしかない。
「よかったね……童」
「うん。……俺、きっと腕っぷしは無理だけど。俺の大事な人が傷つかないように、いっぱい護り石を磨く。俺には無理かもしれないけど、俺が造った玉が姉ちゃんや神様を護ってくれるように……そういう職人になりたい。そしたら俺、今日のことは絶対に忘れない。姉ちゃんの優しさも、俺たちのこと想ってくれた神様も絶対に忘れない。誰が何と言っても姉ちゃんは世界で一番の巫女だし、他の神様が信じられなくなっても、猿彦様と御令孫だけは絶対に疑わない」
そう言って顔を上げた童は真っ赤な目をしながらも晴れやかな顔をしていて、子供らしい笑顔を日嗣と神依に向けてみせた。
神依がこちらに流れ着いたときに抜けていた小さな歯は、今は綺麗に生えそろっている。
それから童は改めて、それが当然のことであるように庭に下りると、日嗣の前で深々と頭を下げた。
「……ありがとうございました。今は……それしか言葉が浮かばないけど。……本当に、ありがとうございました」
「……いや。私の方こそ、――感謝する。良き……真の信仰を得たと」
日嗣は童が紡いだ言葉の中に確かにそれを感じ、ゆえにこそ神として言葉を返すと自らその小さな体を抱き上げ縁側に戻す。
「御令孫」
「今、この下にある国元は……、神が居るのも居ないのも、要るのも要らないのも、人自らが各々の価値観で決められる国だ。それは俺たちには幾分か……いや、とても寂しいことだが」
「……」
「しかしそれが人に取って幸いなことなれば……致し方ない。人の時は短く、見えぬものはないものとして置き去りにされていく。そして信じるとは、人からも神からも強いられるものではない。道理だ」
「でも……それじゃあ、神様は」
消えてしまうんじゃ、というその一言は今の童に口にすることはできなかった。そして今更ながら、傍らにある者たちが自分たちと同じ……万能ではない存在であることを理解して、自分たち以上に儚い存在であったことを悟って、眉を下げる。どんな強大な力を持とうとも、神として認識されなければいないのと同じ……淡島の、端神と何も変わらぬ存在。
しかし日嗣はそれも承知のように、緩やかに頭を横に振ると微笑んだ。
「……けれどいくら時が巡っても、時折、そうして寄り添ってくれる者が現れる。それは……俺たちに取って、何より幸いなことだ」
「……」
「だから……ありがとう」
「……御令孫」
日嗣の手は、今度こそ何のためらいもなく童の頭をなでる。童もまたそれを受け入れ、何でもないように笑った。そして照れくさそうに頭を下げると、再び禊の元に戻る。
「――さて、んじゃ次は神依だな」
「え?」
そしてそれを見届けたところで、猿彦がやれやれと立ち上がった。億劫そうに背伸びをする猿彦を見上げれば、それは悪戯を企むような笑みと声音とに変わる。
「お前だって、孫からご褒美もらいたいだろ?」
「でも――」
そうは言われても、神依は日嗣に童のこと以上を願っていない。どうしたらいいのか分からず日嗣を見れば、なぜか気まずそうにぱっと目をそらされてしまった。
一方猿彦は屋敷神の祠まで行くとその扉を叩き、出てきた鼠軼と何事かを話し始め――それからすぐに、縁側まで戻り自らの羽扇を取る。
「孫、いいぞ。一時的に屋敷神の結界を解いてもらった。お前もいい加減腹くくれ」
「……、……神依」
「?」
なぜか怒っているような、あの出会った頃のような仏頂面で差し出された手を取り立ち上がれば、その表情に反し何かから庇うように肩を抱かれる。そして、
「悪いな、ちっとお前らの主借りるぞ」
「えっ?」
「お……お待ちください、どちらへ――」
「心配すんな、夕方には帰す。それからな――いや」
慌てて駆け寄る禊に猿彦は何かを言いかけ、しかし「心配せずに待ってろ」とだけ付け加えて、羽扇を振る。
「禊――」
「っ……」
その姿が消えゆく間際、禊にはそれがただの言葉ではないことがわかった。道の神が再びかけてくれた、孤独を癒す慈悲の言葉なのだとわかった。
神を想い、その神に拐われる主と、神に認められその道を定めてしまった弟分。もはや自らには何もない。
……独り。
それを示すように広がる思考の空洞と、つきつきと痛み出す何か。
しかし禊にできることは、それを隠すために見送るふりをして頭を垂れることだけだった。
猿彦はその痛みを知りながらそれ以上の言葉を発せず、応えるようにその姿を神依と日嗣ともどもかき消す。
――自分にできることは、道を行く者にその先を指し示すことだけ。歩もうとしない者に、神としてできることはない。
それでも猿彦は人が好きな神だった。輿や車に乗り道を歩む者もいる。しかしそれを牽くために力を尽くしている者の強さを知り、只人であるがゆえに歩き出せない歯がゆさ、踏み出す一歩の怖さ、立ち止まる辛さを知り……しかしそういうものこそを、いとおしく思う。
だから、ただ待てとだけ告げた。
この儚く健気な従者には、まだ別の神との縁がまつわっている。
猿彦は、自分にできなかったことを……黙すことで、その縁に託した。
***
「ひゃ……っ」
ごう、と一陣の風の音が神依の耳元を通り抜ける。一瞬何かに吸い込まれるように体が重力を失い、日嗣にかばわれながら再び地に足が着いたとき――
「え……わあっ!?」
神依は見知らぬ場所にいて、見たことのない風景を目の当たりにしていた。
「――淡島の、中央から離れた鄙だ」
「な、俺ってすげー便利だろ? おかげで今も孫の使いっ走りだ」
「日嗣様、猿彦さん」
傍らにあった神を見上げ、神依はようやく何が起きたか悟る。
これが――道を開く神、猿彦の力。
「でも……禊、置いてきちゃった……」
脳裏に、空間が変わる間際の、ひどく焦った従者の顔が思い浮かぶ。
禊はあの日以来――表向きは今までと変わらないが、どこか一歩退いたような空気を纏い神依に接するようになっていた。神々に遠慮している部分もあるのかもしれないが……ただ神依にも禊の機微がわかるようになったのは、やはり過ごした時間の大きさだろう。
なのにあまのじゃくな男は、いまだに自分には何も語ってくれない。
何を考えているのか、童に問うても「一ノ兄が言わないことは俺も言えない」と語らぬことで逆説的に何かを秘めていることを示している。
それを言ってもらえないのは、自分が頼りない変わり者の主だからだろうか……とも思うし、だからこそそのつながりが希薄にならぬよう、小さな神々の力を借りているのだが……。
「……心配すんな」
「猿彦さん」
そんな神依の胸中を察したのか、猿彦がぽんぽんと頭をなでてくれる。そうされれば、神依には曖昧にでも頷くことしかできない。ただ誰かがああいう顔をするのは切なくて、胸が痛んだ。それが自分のせいなら尚更、ちゃんと聞いてあげたかった。
「――…ているのか」
「え?」
「いや……何でもない」
そんな中、風と葉の音に混じり日嗣が何事かを呟く。だが神依には聞き取れず、そのまま問い返すも――日嗣は目を背け、背後の、浅い紅葉の中に浮かぶ廃れたような玄い宮を眺めていた。
その傍らには舞台があって、今は枯れ葉や草が風に舞っている。
「……あのお社は?」
隣で苦笑する猿彦を見上げれば、つと羽扇がまた別の方向に動く。
「ほら、ずっと向こう――下に村があるの、見えるか? 昔はあの村の鎮守の宮としてあったんだが、何十年か前にもっと近くに新しい社ができてな」
「へえ……神様もお引っ越しするんですね」
猿彦が羽扇で示す先に一望できる、小さな集落。なだらかな山裾に広大な田畑が広がり、その間に建物が点在している。
まだ薄い黄色の、波打つ稲穂――。
「……」
苔むす玉垣まで歩みその遠くの村を覗けば、畦道を行く人や牛を牽く者の姿が小さく小さく見えた。
左右に猿彦と日嗣が並ぶのを感じて、神依は呟く。
「……巫女や覡じゃない人はみんな、どんな暮らしをしてるんでしょう。わたし……自分の家と奥社の間をぐるぐるしてるだけだから。だから、ものを知らなくて……禊も不安になるのかもって」
「まあ普通の巫女はみんなそんなもんだけどな。元々あっちは巫覡や許された人間しか入れねえし、出ようとする奴もいねえ。……だけどお前は、いろんな場所を見てみたいって孫に言ったんだろ?」
「あ――日嗣様」
「……」
喋ったことを咎めるように隣を見上げれば、日嗣は押し黙り知らないふりを決め込む。知らないところで自分のことを話されているのはなんとなく恥ずかしいし気になってしまうのだが、しかし猿彦に関してはそれはお互い様だった。
だがその要の人物は、もうほとんど自身の役目を終えていることも知っている。
今はまだ指先で手を繋ぐような、甘皮をいじくるようなじれったさの残る二人だが、この二人の道は間違いなくもう開けているのだから。
「――だから、この時間は俺からの褒美だ」
「この時間?」
「ああ。思い煩う日常からかけ離れた忘れられた場所で、誰にも邪魔されない、二人だけで過ごす特別な時間」
そういうと猿彦は神依越しに日嗣に向き直り、揶揄するように続けた。
「俺の先導はここまでだぞ、御令孫。邪魔者は消えてやるから、懐にしまいっぱなしのもんちゃんと出してやれよ」
「ッ、彦――」
「あ……」
そして慌てたように呼び止める日嗣に反し、猿彦はじゃあなと一言その姿を風ににじませて消えてしまう。
ふと帰るときはどうすればいいんだろうと思ったが、いざとなれば歩きだろう。どうするか問うように日嗣を振り返れば、真っ正面から目が合った。
「……、来い」
「え?」
「座れる場所の方がいい」
しかし日嗣はそれだけを言うと、すたすたと舞台の方に向かって歩いていってしまう。慌てて後を追えば、舞台の片隅にある小さな階段を示され、神依はおそるおそるそこに登った。
「恐れながら、御令孫。……差し出がましいとは存じますが、どうかこれ以上は」
「……お前にも、立場があろうからな。……仕方ない」
日嗣は一つ息を吐くと、隣でじっと石を見つめる童に目を遣る。
まだ幼さに甘んじているがゆえに、屈託なく自然の道理を見、示すことができる存在。
これがあらねば、禊もまたあの場で謳うことはなかった。
日嗣はその小さな手のひらに自らの手を重ね、ゆっくりとその心を現に戻してやる。
「あ……」
そして童が顔を上げこちらを見るのと同時にそっと玉の緒を取ると、髪をどけ再び自身の首元に戻した。
「……一ノ弟」
それを待ち、禊が童に声をかける。同じ座にて頭を垂れるのもおこがましい。地に降り、その足元に額を付けろと禊は弟分に無言のまま諭す。
「……っ」
しかし童は感極まったかのようにじわりと涙を浮かべ、まるで禊の声など聞こえなかったかのように日嗣を見上げると、
「――…!?」
そのままぼすりと抱きついた。
「童……」
「……」
日嗣と神依は一瞬呆気に取られたように顔を見合せ、しかし日嗣は一呼吸置くと静かにそれを受け入れる。
「……どうした」
「ッ俺……こんな日が来るなんて、思わなくて。俺……本当に嬉しくて」
「……」
日嗣はその幼子の頭に手を伸ばし、しかし何かに迷ったようにそれを止めると……数秒の後、ぎこちなくその髪をなでた。
子供特有の、線が細く艶やかな黒髪。小さくて、間違って触れれば壊してしまうような気さえした。
……父たりえなかった自分の、知らないやわらかさ。
「……お前は玉造りが得意だそうだな。もしも匠の道を選ぶなら、いつかそれが神依の……俺や彦の元に届くよう、祈っている」
「……っあ……ありがとうございます……、ありがとうございます……っ!!」
「童……」
そして神依はそんな二人を少し驚いたように眺め、猿彦に目を移した。
いつだったか、神様との間に自ら距離を取り身も心も強張らせていた子が、猿彦以上に取っ付きにくそうな日嗣にそれを委ねている。
猿彦は神依の視線に気づくと、俺の言うことは間違ってなかっただろ? と言わんばかりに唇に笑みを作り神依に問うてみせた。それに神依が持つ答えは、もう一つしかない。
「よかったね……童」
「うん。……俺、きっと腕っぷしは無理だけど。俺の大事な人が傷つかないように、いっぱい護り石を磨く。俺には無理かもしれないけど、俺が造った玉が姉ちゃんや神様を護ってくれるように……そういう職人になりたい。そしたら俺、今日のことは絶対に忘れない。姉ちゃんの優しさも、俺たちのこと想ってくれた神様も絶対に忘れない。誰が何と言っても姉ちゃんは世界で一番の巫女だし、他の神様が信じられなくなっても、猿彦様と御令孫だけは絶対に疑わない」
そう言って顔を上げた童は真っ赤な目をしながらも晴れやかな顔をしていて、子供らしい笑顔を日嗣と神依に向けてみせた。
神依がこちらに流れ着いたときに抜けていた小さな歯は、今は綺麗に生えそろっている。
それから童は改めて、それが当然のことであるように庭に下りると、日嗣の前で深々と頭を下げた。
「……ありがとうございました。今は……それしか言葉が浮かばないけど。……本当に、ありがとうございました」
「……いや。私の方こそ、――感謝する。良き……真の信仰を得たと」
日嗣は童が紡いだ言葉の中に確かにそれを感じ、ゆえにこそ神として言葉を返すと自らその小さな体を抱き上げ縁側に戻す。
「御令孫」
「今、この下にある国元は……、神が居るのも居ないのも、要るのも要らないのも、人自らが各々の価値観で決められる国だ。それは俺たちには幾分か……いや、とても寂しいことだが」
「……」
「しかしそれが人に取って幸いなことなれば……致し方ない。人の時は短く、見えぬものはないものとして置き去りにされていく。そして信じるとは、人からも神からも強いられるものではない。道理だ」
「でも……それじゃあ、神様は」
消えてしまうんじゃ、というその一言は今の童に口にすることはできなかった。そして今更ながら、傍らにある者たちが自分たちと同じ……万能ではない存在であることを理解して、自分たち以上に儚い存在であったことを悟って、眉を下げる。どんな強大な力を持とうとも、神として認識されなければいないのと同じ……淡島の、端神と何も変わらぬ存在。
しかし日嗣はそれも承知のように、緩やかに頭を横に振ると微笑んだ。
「……けれどいくら時が巡っても、時折、そうして寄り添ってくれる者が現れる。それは……俺たちに取って、何より幸いなことだ」
「……」
「だから……ありがとう」
「……御令孫」
日嗣の手は、今度こそ何のためらいもなく童の頭をなでる。童もまたそれを受け入れ、何でもないように笑った。そして照れくさそうに頭を下げると、再び禊の元に戻る。
「――さて、んじゃ次は神依だな」
「え?」
そしてそれを見届けたところで、猿彦がやれやれと立ち上がった。億劫そうに背伸びをする猿彦を見上げれば、それは悪戯を企むような笑みと声音とに変わる。
「お前だって、孫からご褒美もらいたいだろ?」
「でも――」
そうは言われても、神依は日嗣に童のこと以上を願っていない。どうしたらいいのか分からず日嗣を見れば、なぜか気まずそうにぱっと目をそらされてしまった。
一方猿彦は屋敷神の祠まで行くとその扉を叩き、出てきた鼠軼と何事かを話し始め――それからすぐに、縁側まで戻り自らの羽扇を取る。
「孫、いいぞ。一時的に屋敷神の結界を解いてもらった。お前もいい加減腹くくれ」
「……、……神依」
「?」
なぜか怒っているような、あの出会った頃のような仏頂面で差し出された手を取り立ち上がれば、その表情に反し何かから庇うように肩を抱かれる。そして、
「悪いな、ちっとお前らの主借りるぞ」
「えっ?」
「お……お待ちください、どちらへ――」
「心配すんな、夕方には帰す。それからな――いや」
慌てて駆け寄る禊に猿彦は何かを言いかけ、しかし「心配せずに待ってろ」とだけ付け加えて、羽扇を振る。
「禊――」
「っ……」
その姿が消えゆく間際、禊にはそれがただの言葉ではないことがわかった。道の神が再びかけてくれた、孤独を癒す慈悲の言葉なのだとわかった。
神を想い、その神に拐われる主と、神に認められその道を定めてしまった弟分。もはや自らには何もない。
……独り。
それを示すように広がる思考の空洞と、つきつきと痛み出す何か。
しかし禊にできることは、それを隠すために見送るふりをして頭を垂れることだけだった。
猿彦はその痛みを知りながらそれ以上の言葉を発せず、応えるようにその姿を神依と日嗣ともどもかき消す。
――自分にできることは、道を行く者にその先を指し示すことだけ。歩もうとしない者に、神としてできることはない。
それでも猿彦は人が好きな神だった。輿や車に乗り道を歩む者もいる。しかしそれを牽くために力を尽くしている者の強さを知り、只人であるがゆえに歩き出せない歯がゆさ、踏み出す一歩の怖さ、立ち止まる辛さを知り……しかしそういうものこそを、いとおしく思う。
だから、ただ待てとだけ告げた。
この儚く健気な従者には、まだ別の神との縁がまつわっている。
猿彦は、自分にできなかったことを……黙すことで、その縁に託した。
***
「ひゃ……っ」
ごう、と一陣の風の音が神依の耳元を通り抜ける。一瞬何かに吸い込まれるように体が重力を失い、日嗣にかばわれながら再び地に足が着いたとき――
「え……わあっ!?」
神依は見知らぬ場所にいて、見たことのない風景を目の当たりにしていた。
「――淡島の、中央から離れた鄙だ」
「な、俺ってすげー便利だろ? おかげで今も孫の使いっ走りだ」
「日嗣様、猿彦さん」
傍らにあった神を見上げ、神依はようやく何が起きたか悟る。
これが――道を開く神、猿彦の力。
「でも……禊、置いてきちゃった……」
脳裏に、空間が変わる間際の、ひどく焦った従者の顔が思い浮かぶ。
禊はあの日以来――表向きは今までと変わらないが、どこか一歩退いたような空気を纏い神依に接するようになっていた。神々に遠慮している部分もあるのかもしれないが……ただ神依にも禊の機微がわかるようになったのは、やはり過ごした時間の大きさだろう。
なのにあまのじゃくな男は、いまだに自分には何も語ってくれない。
何を考えているのか、童に問うても「一ノ兄が言わないことは俺も言えない」と語らぬことで逆説的に何かを秘めていることを示している。
それを言ってもらえないのは、自分が頼りない変わり者の主だからだろうか……とも思うし、だからこそそのつながりが希薄にならぬよう、小さな神々の力を借りているのだが……。
「……心配すんな」
「猿彦さん」
そんな神依の胸中を察したのか、猿彦がぽんぽんと頭をなでてくれる。そうされれば、神依には曖昧にでも頷くことしかできない。ただ誰かがああいう顔をするのは切なくて、胸が痛んだ。それが自分のせいなら尚更、ちゃんと聞いてあげたかった。
「――…ているのか」
「え?」
「いや……何でもない」
そんな中、風と葉の音に混じり日嗣が何事かを呟く。だが神依には聞き取れず、そのまま問い返すも――日嗣は目を背け、背後の、浅い紅葉の中に浮かぶ廃れたような玄い宮を眺めていた。
その傍らには舞台があって、今は枯れ葉や草が風に舞っている。
「……あのお社は?」
隣で苦笑する猿彦を見上げれば、つと羽扇がまた別の方向に動く。
「ほら、ずっと向こう――下に村があるの、見えるか? 昔はあの村の鎮守の宮としてあったんだが、何十年か前にもっと近くに新しい社ができてな」
「へえ……神様もお引っ越しするんですね」
猿彦が羽扇で示す先に一望できる、小さな集落。なだらかな山裾に広大な田畑が広がり、その間に建物が点在している。
まだ薄い黄色の、波打つ稲穂――。
「……」
苔むす玉垣まで歩みその遠くの村を覗けば、畦道を行く人や牛を牽く者の姿が小さく小さく見えた。
左右に猿彦と日嗣が並ぶのを感じて、神依は呟く。
「……巫女や覡じゃない人はみんな、どんな暮らしをしてるんでしょう。わたし……自分の家と奥社の間をぐるぐるしてるだけだから。だから、ものを知らなくて……禊も不安になるのかもって」
「まあ普通の巫女はみんなそんなもんだけどな。元々あっちは巫覡や許された人間しか入れねえし、出ようとする奴もいねえ。……だけどお前は、いろんな場所を見てみたいって孫に言ったんだろ?」
「あ――日嗣様」
「……」
喋ったことを咎めるように隣を見上げれば、日嗣は押し黙り知らないふりを決め込む。知らないところで自分のことを話されているのはなんとなく恥ずかしいし気になってしまうのだが、しかし猿彦に関してはそれはお互い様だった。
だがその要の人物は、もうほとんど自身の役目を終えていることも知っている。
今はまだ指先で手を繋ぐような、甘皮をいじくるようなじれったさの残る二人だが、この二人の道は間違いなくもう開けているのだから。
「――だから、この時間は俺からの褒美だ」
「この時間?」
「ああ。思い煩う日常からかけ離れた忘れられた場所で、誰にも邪魔されない、二人だけで過ごす特別な時間」
そういうと猿彦は神依越しに日嗣に向き直り、揶揄するように続けた。
「俺の先導はここまでだぞ、御令孫。邪魔者は消えてやるから、懐にしまいっぱなしのもんちゃんと出してやれよ」
「ッ、彦――」
「あ……」
そして慌てたように呼び止める日嗣に反し、猿彦はじゃあなと一言その姿を風ににじませて消えてしまう。
ふと帰るときはどうすればいいんだろうと思ったが、いざとなれば歩きだろう。どうするか問うように日嗣を振り返れば、真っ正面から目が合った。
「……、来い」
「え?」
「座れる場所の方がいい」
しかし日嗣はそれだけを言うと、すたすたと舞台の方に向かって歩いていってしまう。慌てて後を追えば、舞台の片隅にある小さな階段を示され、神依はおそるおそるそこに登った。
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