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第11章 天津水
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本来〝禊ぎ〟とは、神事や祭の前、あるいは身に穢れがあるとき、その身を海や川の水で洗い浄めることをいう。
それを聞いた神依はすぐに原初の男神の話を思い出した。きっと大元はここだろうと思いながら静かに相槌を打ち、目の前の青年を見つめる。
「……ですから、貴女は先ほど神との情事を私や童に見られること、その後の清めを私にされることを厭われていらっしゃいましたが――伍名様の仰るとおり、貴女様が気になさることは本当に微塵もないのです」
「それって……」
「はい。禊はその名のとおり――神と交わり、神に乱された巫女の体を清め、洗い流す者。その役職名が〝禊〟です。日々の生活の中では主となる巫女や覡の傍らに侍り、その身と生活を守り、尽くす。そして主がどんな生き方を選択しようとも、それを受け入れ、ともにある。時には教育もいたしますが、私たちの大事は主が心身ともに健やかな日々を送ることですから、主がそれをお厭いになるなら即座に止めます。そして夜は、主が天降った神々と睦んでいる間も傍らにひかえ、あるいは神の手足となり動き、その一部始終を目の当たりにしてなお、神が帰ってのち残された主を何事もなく清める。それが――〝禊〟というものです」
「ん……」
「あまり生々しい話を貴女にするのは本意ではありませんが……今夜の伍名様は、貴女が羞恥心を持つ必要すらないほどに、本当に幸いなものだったのです。私と一ノ弟は貴女にお仕えする前、すでに数人の巫女とこうして暮らしをともにしています。神々の寵愛深く、一度に数人の男神の精を受けた者もおります。巫女を責めるに身一つでは足りず、道具や薬を好み使う神などもいらっしゃいました。あるいは――長い時に膿み、常人では理解し難い癖を持ってしまった神の相手をするときもありました。ですから……一ノ弟も、ある程度は見慣れているのです」
「……、」
そこまで聞いただけでももう神依には理解が及ばず、加えてそれを受け入れるだけの容量もなく言葉を失う。
一生懸命頭の中で噛み砕いて呑み込もうとするのだが、あまりにそれが刺々しくて痛々しくて、噛むに噛めない。
この世界は本当に、時に優しく時に冷たい。
「それは……それは大兄さんも、一緒なの?」
「同じです。その頃の洞主様は――今もお美しくあられますが、なお瑞々しく、今の貴女様に似て初々しく……体が休む暇もないほどに、神々の寵愛を賜っていらっしゃいました。衣を脱げば名だたる神の朱印が見られます」
「――それを……大兄さんも、ずっと見てきたというの?」
「……はい。大兄のことを考えれば、きっと今の私などは本当に――幸いなのです。洞主様はまたその寵愛に甘んじることなく、楽舞や学問、歌などを学び、ますますに神々を惹きつけていきました。ですので……それを妬んだ他の巫女から、酷い仕打ちを受けることもあったようです」
「酷い……って」
「いえ……私はその頃はまだ童として付き従い、日中は働きに出ておりましたし……、また大兄もそういう話は私には卸さなかったので、直接的にはあまり存じ上げないのですが……。ただ洞主様が今のお立場になられたのはその聡明さはもちろん、神々にも顔が利き、また巫女の喜びも憂いもそのすべてを自らが体験なされてきたからだと思っています。貴女に気を配って下さったのも、もしかしたら御自分と重ねる部分があったのかもしれません」
話を戻しますが、と禊は前置きして先を続ける。
「……そんなふうに、禊というものはそのすべてを巫女や覡に捧げるように――摂理として、作られているのだと思います。なので貴女がこれから先、何人の神と交わろうと私が貴女を見下げることはありません。そしてこれをお話する以上、私があのような狼藉を働くことももうないかと……思います」
そこまでほとんど黙って話を聞いていた神依は、そのあまりのやるせなさに悔しそうに顔を歪めた。
「……でも……でも、そんなのって……ないよ……。そうじゃない?」
「神依様……」
大兄が洞主のことをすごく大切に想っていることくらい、神依にもわかる。そして神依自身も……その狼藉を働かれたからこそ、禊の想いが痛いほどわかった。それなのに。
「そんなのおかしい。……そんなの、酷いだけじゃない……」
「……そう思っていただけるだけで、私たちには幸いなことです。ほとんどの巫女は、いざその時が来るまでそれすら知ることはありません。私も、本来はお伝えする必要がないと申し上げたはずです」
「そんな……!」
今になって、神依に妻問いの話を持ちかけた洞主が、その前に禊に謝罪した意味がわかる。それでもあまりの無慈悲さと、それをすでにさせてしまった自分にまず腹が立った。
「そんなの……禊たちには、ちっとも幸せじゃないじゃない」
「いいえ。それでも、私たちの幸せは貴女たちの隣にあるのです」
「なんで? わたし――わたし、前に言ったよね? 巫女は……禊は、恋をしてもいけないのって。それすら許されず、そんなことまでさせられて……どうしてあなたたち〝禊〟は、そんなことが言えるの? 摂理なんて関係ない、そんな――」
「姉ちゃん――」
禊に詰め寄るように立ち上がりかけた神依を、ぐ、とその裾をつかみ童が引き留める。
「童――」
「そう思うなら……一ノ兄の話、最後までぜんぶ聞いてやって。それはたしかに禊の仕事だ。でも禊の本当の役目はまだ他にある。……一ノ兄がずっと黙ってたこと。そんで、なんで一ノ兄が姉ちゃんには黙ってたか、言えなかったか、姉ちゃんには考えてほしい」
「……禊の……本当の役目?」
「……はい」
それは、と禊が一呼吸置くのと同時に一陣の風が空気を揺らす。
そしてそれを〝禊〟自身の口から聞いた神依は、みるみるその表情を変えて、震える声で問い返した。
「……うそ……でしょう」
「……残念ながら、本当です」
「……嘘。――嘘つき」
「……申し訳ありません」
「だって……だって、そんな」
神依は淡島に流れ着いてから今日までの日を思い返して、自らの幸せな馬鹿さ加減に絶望する。
なぜ、目の前の青年を一度でも問い詰めなかったのだろう。なぜ、自身が巫女でこの青年が禊であったことを一度でも疑わなかったのだろう。なぜすべて――すべて信じて、鵜呑みにしてしまったのだろう。
――禊がかたくなに秘めていた、本来の禊の役目。それは。
それを聞いた神依はすぐに原初の男神の話を思い出した。きっと大元はここだろうと思いながら静かに相槌を打ち、目の前の青年を見つめる。
「……ですから、貴女は先ほど神との情事を私や童に見られること、その後の清めを私にされることを厭われていらっしゃいましたが――伍名様の仰るとおり、貴女様が気になさることは本当に微塵もないのです」
「それって……」
「はい。禊はその名のとおり――神と交わり、神に乱された巫女の体を清め、洗い流す者。その役職名が〝禊〟です。日々の生活の中では主となる巫女や覡の傍らに侍り、その身と生活を守り、尽くす。そして主がどんな生き方を選択しようとも、それを受け入れ、ともにある。時には教育もいたしますが、私たちの大事は主が心身ともに健やかな日々を送ることですから、主がそれをお厭いになるなら即座に止めます。そして夜は、主が天降った神々と睦んでいる間も傍らにひかえ、あるいは神の手足となり動き、その一部始終を目の当たりにしてなお、神が帰ってのち残された主を何事もなく清める。それが――〝禊〟というものです」
「ん……」
「あまり生々しい話を貴女にするのは本意ではありませんが……今夜の伍名様は、貴女が羞恥心を持つ必要すらないほどに、本当に幸いなものだったのです。私と一ノ弟は貴女にお仕えする前、すでに数人の巫女とこうして暮らしをともにしています。神々の寵愛深く、一度に数人の男神の精を受けた者もおります。巫女を責めるに身一つでは足りず、道具や薬を好み使う神などもいらっしゃいました。あるいは――長い時に膿み、常人では理解し難い癖を持ってしまった神の相手をするときもありました。ですから……一ノ弟も、ある程度は見慣れているのです」
「……、」
そこまで聞いただけでももう神依には理解が及ばず、加えてそれを受け入れるだけの容量もなく言葉を失う。
一生懸命頭の中で噛み砕いて呑み込もうとするのだが、あまりにそれが刺々しくて痛々しくて、噛むに噛めない。
この世界は本当に、時に優しく時に冷たい。
「それは……それは大兄さんも、一緒なの?」
「同じです。その頃の洞主様は――今もお美しくあられますが、なお瑞々しく、今の貴女様に似て初々しく……体が休む暇もないほどに、神々の寵愛を賜っていらっしゃいました。衣を脱げば名だたる神の朱印が見られます」
「――それを……大兄さんも、ずっと見てきたというの?」
「……はい。大兄のことを考えれば、きっと今の私などは本当に――幸いなのです。洞主様はまたその寵愛に甘んじることなく、楽舞や学問、歌などを学び、ますますに神々を惹きつけていきました。ですので……それを妬んだ他の巫女から、酷い仕打ちを受けることもあったようです」
「酷い……って」
「いえ……私はその頃はまだ童として付き従い、日中は働きに出ておりましたし……、また大兄もそういう話は私には卸さなかったので、直接的にはあまり存じ上げないのですが……。ただ洞主様が今のお立場になられたのはその聡明さはもちろん、神々にも顔が利き、また巫女の喜びも憂いもそのすべてを自らが体験なされてきたからだと思っています。貴女に気を配って下さったのも、もしかしたら御自分と重ねる部分があったのかもしれません」
話を戻しますが、と禊は前置きして先を続ける。
「……そんなふうに、禊というものはそのすべてを巫女や覡に捧げるように――摂理として、作られているのだと思います。なので貴女がこれから先、何人の神と交わろうと私が貴女を見下げることはありません。そしてこれをお話する以上、私があのような狼藉を働くことももうないかと……思います」
そこまでほとんど黙って話を聞いていた神依は、そのあまりのやるせなさに悔しそうに顔を歪めた。
「……でも……でも、そんなのって……ないよ……。そうじゃない?」
「神依様……」
大兄が洞主のことをすごく大切に想っていることくらい、神依にもわかる。そして神依自身も……その狼藉を働かれたからこそ、禊の想いが痛いほどわかった。それなのに。
「そんなのおかしい。……そんなの、酷いだけじゃない……」
「……そう思っていただけるだけで、私たちには幸いなことです。ほとんどの巫女は、いざその時が来るまでそれすら知ることはありません。私も、本来はお伝えする必要がないと申し上げたはずです」
「そんな……!」
今になって、神依に妻問いの話を持ちかけた洞主が、その前に禊に謝罪した意味がわかる。それでもあまりの無慈悲さと、それをすでにさせてしまった自分にまず腹が立った。
「そんなの……禊たちには、ちっとも幸せじゃないじゃない」
「いいえ。それでも、私たちの幸せは貴女たちの隣にあるのです」
「なんで? わたし――わたし、前に言ったよね? 巫女は……禊は、恋をしてもいけないのって。それすら許されず、そんなことまでさせられて……どうしてあなたたち〝禊〟は、そんなことが言えるの? 摂理なんて関係ない、そんな――」
「姉ちゃん――」
禊に詰め寄るように立ち上がりかけた神依を、ぐ、とその裾をつかみ童が引き留める。
「童――」
「そう思うなら……一ノ兄の話、最後までぜんぶ聞いてやって。それはたしかに禊の仕事だ。でも禊の本当の役目はまだ他にある。……一ノ兄がずっと黙ってたこと。そんで、なんで一ノ兄が姉ちゃんには黙ってたか、言えなかったか、姉ちゃんには考えてほしい」
「……禊の……本当の役目?」
「……はい」
それは、と禊が一呼吸置くのと同時に一陣の風が空気を揺らす。
そしてそれを〝禊〟自身の口から聞いた神依は、みるみるその表情を変えて、震える声で問い返した。
「……うそ……でしょう」
「……残念ながら、本当です」
「……嘘。――嘘つき」
「……申し訳ありません」
「だって……だって、そんな」
神依は淡島に流れ着いてから今日までの日を思い返して、自らの幸せな馬鹿さ加減に絶望する。
なぜ、目の前の青年を一度でも問い詰めなかったのだろう。なぜ、自身が巫女でこの青年が禊であったことを一度でも疑わなかったのだろう。なぜすべて――すべて信じて、鵜呑みにしてしまったのだろう。
――禊がかたくなに秘めていた、本来の禊の役目。それは。
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