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第14章 文枕
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その日の晩、玉衣はそわそわとその部屋を行ったり来たりしていた。
昼間、神依を訪ねた大兄は神妙そうな顔で奥社に戻ってきた。話を聞くに、ついにあの娘巫女が男神と契りを交わしたのだという。それも世界の理を司る三貴子の一柱――月読命と。
それはそれは過分なほどの寵愛で、ゆくゆくは間違いなく高天原に召し上げられるだろうとの話だった。そして少女の頬には、あたかもそれを世に顕示するように男神の朱印が刻まれているという。
月読命は時折荒々しく暴威を振るうが、まさかそうまでした娘の前で粗暴な振る舞いもなさるまいと、玉衣はかすかに唇の端を上げた。
(思えば私も、昔はよくそういう話で盛り上がった)
どれほど熱っぽく見つめられて身の内を溶かされたか、どんな愛の囁きに体の芯を痺れさせたか、……その先の、蜂蜜のようにとろけた時間のことさえ密やかに、けれども誇らしげに語り合った。
花はあざやかな花弁を誇ってこその花。ただ美しくあって、愛でてくれる目と手と言葉に傲ればいい。
けれど――
(あの子は、話してはくれぬだろうな――)
恥ずかしがって、視線をあちこちに遊ばせながら慌てる様が今から頭の中に思い浮かぶ。
だがこれでようやく、あの子を淡島の巫女として迎えられるのだ。ようやくあの子を――。
そこまで考えたとき、扉の向こうから大兄の声がかかった。
「失礼いたします、玉衣様。神依様と大弟が参りました」
「うむ――お通し」
それでふと我に返った玉衣は、いそいそといつもの席に着く。
「失礼いたします」
「し……失礼します……」
やってきた二人は、片方は何事もなく、もう片方は室内を窺うように戸をくぐってきた。やはり天井に目を留め、ほぉと長く息を吐く姿は自分と通じるものがある。自分の中にいまだ存在する若い娘時分の感覚も、透き通ってきらめくものには特に胸を躍らせてしまう。
――そこは玉衣の秘密の部屋。時代と、場所と、世界と、そのあらゆるものが歪められた、あの境の社務所だった。
玉衣の前にやってきた少女は、頭から被っていた外套をおずおずと取り払う。
話に聞いていたとおり、少女の頬にはたしかに朱印があった。それを見た玉衣は笑みを浮かべると、どこかそわついた様子で、卓を挟んで用意していた椅子を示した。
「神依、お座り。それから大兄は何か飲むものを。神依に瑠璃杯を見せておやり。若い娘の瞳には、貴石の如く眩い輝きで映るであろ」
「かしこまりました」
大兄は苦笑気味に下がり、神依は禊に椅子を引かれると、何度もお尻と裳裾を確かめながらちょこんと椅子の縁に座った。
「驚いたかえ? ここは私の秘密の部屋。私以外にはまだ、大兄とそなたの禊しか入ったことがない」
「えっ――」
「ただしこの部屋のことは内密にな。……時折あの洞に行くと、こうして不思議なものが流れ着いておるのだよ。見つけたら再び海に戻せと先代の洞主様から言いつけられておったが、どうにも心惹かれるものがあってな……たまに気に入ったものがあったら使えるものは拾って持ち込み、ようわからぬものは匠の方に流して真似させておる。……悪くはなかろ?」
「……はい。違う世界に来たみたいで……何だか、気持ちがうんと変わります」
正しく自分が望んだことを理解してくれた少女に、玉衣は満足そうに頷く。やはり、何か同じものを共有できる者がいるのは嬉しい。
そこへ大兄が戻ってきて、神依の前に脚の長い華奢な杯が置かれた。それは夜明けの雲海をそのまま閉じ込めた色をしており、ありとあらゆる宝石を薄く削いで作られているかのよう。ちらちらと不安定な蝋燭の灯りを反射して、余計にきらめいて見えた。
「わあ……きらきらしてる。綺麗……」
「色硝子の細工杯じゃ。窓の玻璃より、数段透き通って美しくあろ。きっと外の世界には、そういうものがあふれておるのだろうな」
「はい。あ……いただきます」
「うむ」
童に見せてあげたい、と思いながら神依はそれを傾ける。中身は水のように見えたが、こくがあって甘い。緊張して乾いた口と喉を、優しく潤してくれた。
「――然らば、私の可愛い娘巫女よ。その頬の御仁とどのような一夜を過ごしたか、私にも教えてはくれぬか。きっとかの神が囁いた言葉は、今口にするその果実水より甘かろう――」
「んっ……」
そうして悪戯そうに紡がれた言葉に神依は危うくむせかけ、慌てて禊から差し出された手巾を受け取る。しかしそれで口を拭かせるのと同時に神依を黙らせた禊は、神依に代わり自ら話を先に進め始めた。
「それよりも洞主様――今は何より、今後のことをご相談させていただきたいのですが」
「ああ……そうであったな。すまぬな神依、私も嬉しゅうて、つい年甲斐もなくはしゃいでしまった」
「あ――いえ。禊……」
それだけで本当にいいのだろうか、と神依は問うように禊を見上げるが、禊は今はいいと頷き、言葉を接ぐ。
「他のお話は後ほど――それより今、私が何より優先すべきは今後の神依様の身の安全です。元より巫女は神を選べず、拒めもできぬもの。頬の朱印は神依様の咎ではありませんが、このままではまた他の巫女らに害されてしまうのではと」
「ふむ――」
玉衣は何事かを考えるように虚空を見上げると、それから少しののち再び神依に視線を戻し、苦笑気味に続けた。
「大弟の申すとおり、頭では理解できても心が追いつかぬときがある。いや、それすら弾き飛ばして身が動いてしまうのが女というもの。群れられては、なお厄介なものだ」
「あの……洞主様も昔、そういう目に遭ったと」
「そうじゃな――嫉妬も女の花とは申せ、その焔の花片に焼かれる方はたまったものじゃあない。この大兄ですら肝を冷やすようなことが、幾度もあった」
「……」
それで洞主の傍らに戻っていた大兄を見れば、大兄は肯定を表すように頷く。ただ眉根を寄せる大兄からは洞主の口調以上に良くない仕打ちがなされたことが窺えて、神依はきゅ、と身をすくめた。
例えば御霊祭のような……あんなにも寂しいときを、何度過ごせばこの女性に近づけるのだろう。それすら乗り越え、地位を、人格をも兼ね備えさせたその強さは、一体どこからもたらされるものだったのだろう。
少なくとも今の自分にはそんな強さはないが――ただその代わり、辛いときを一緒に過ごし支えてくれた禊や童がいるから、やはり最終的には自分たちの力で、一つずつ乗り越えていくしかないような気もした。
「洞主様も大兄さんも、そういうことを何度も経験したから、今みたいに強くも優しくもあれるんですね……」
「ふふ。そなたがそう申すなら、いつかきっとそなたもそうなる。そなたを見ていると、まるで鏡映しのように昔の自分を見ているような気がしてな――。そしてこの言葉は私が先代の洞主様から頂戴したお言葉でもあるから、私が婆様になったら次にここに座るのは神依やもしれぬ」
「そ……そんな。わたしじゃとても無理です――」
そしてそんな悪戯混じりの言葉にも、神依は慌てて頭と手を横に振って否定するが、洞主はそれも承知のように笑って見せた。
「そうそう、それよな――そなたは少し、我慢をしたり遠慮をしすぎるきらいがある。あるいはそれは美徳かもしれぬが、誇るべきところは誇った方が、却って相手の癇に障らぬこともあるのだよ」
「そう……なのですか?」
「そうだとも。その頬の朱印のことも――此度はお相手があの月の神ゆえ、もはや表立ってそなたをどうこうできる者もおらぬとは思うが……淡島の巫女なれば、もっと堂々と胸を張ってその寵を見せつけておやり。さすればいかな悪しきことが起ころうとも、そのときはそなたのことを想う男神がそなたの前に立ち、そなたを護ってくれる」
「洞主様――」
だがその洞主の言葉は、今の神依には罪悪感しかもたらさぬ言葉だった。
あんなに喜んでくれていたのに、こんなに親身になってくれているのに、この朱印は本当は妻問いの証ではない。自分は相変わらずこちらに流れ着いたときのままで、洞主の言う淡島の巫女にも――女にもなりきれていない、中途半端な存在。そして何より、この朱印とは別に想い人がいて――。
それを秘めるのにもいちいち罪悪感がつきまとって、心の中がもやもやとして痛む。視線を下げた先にはせっかく出してくれた特別な杯があって、ますますに神依の眉や肩はハの字を作ってしまった。そしてまたそれに気付いた玉衣も、笑みを困ったものに変えると神依の頬を――月読の朱印を、優しく手のひらで包んだ。
「……何か他に、憂え事があるようだね。私の可愛い娘巫女」
「――洞主様……わたし――」
神依はそれに甘え、胸の内を告げようと唇を開く。しかしその瞬間、玉衣は神妙そうに首を横に振り、それを留めた。
「今はこの天つ男神が司る夜の国。滅多なことを口にいたしてはならぬ……そなたには信じられぬやもしれぬが、その神は時折、語るも凄まじき暴威を振るわれる。今のまま、何も知らず何も想わず、深き愛情を戴き身をゆだねておうた方が、そなたには幸せじゃ」
「でも……でも、違うんです。わたしは……違うんです……」
「神依……」
洞主は手を引くと、一つ小さく息を吐く。
「きっとそなたも、恋を知ったのだね」
「洞主様――」
その思わぬ言葉に神依が顔を上げると、一直線に洞主と視線が交わった。洞主の瞳の片隅には色硝子のきらめきが宿り、不思議な色をしていた。黒と虹の色。揺らいだり、混ざったり、また分かたれたりを繰り返す。
「そなたの気持ちも、わからぬものではない……。けれども月読様は、天照様と等しくこの世界を司る神。振る舞いはさておき、天津神、国津神の男神の頂点に立たれるお方じゃ。ゆえに、もはやいかなる男神もそれに抗うことはできぬ――」
「でも、……」
「神依。私も長年こちらにおるが、そうまで巫女に執着を見せた神は他にはあらっしゃらない。ましてや月読様はいまだに正式な妻神も妻巫女もお持ちにならぬ身。ゆえにそなたを求められれば、きっと大事にしてくれよう。だが……もし」
「……」
「……もしも万が一、拭えぬ想いが他にあるのなら……少しの勇気を持って、進貢にてその想いを問うといい。祭祀を除き、淡島の巫女が神に干渉できる唯一の方法。……もしそれが通じれば……あるいは」
「……少しの……勇気……?」
結局、それが今の神依と禊に与えられたあまりに少なすぎる選択肢だった。
このまま月読を受け入れ高天原に召し上げてもらうか、進貢を辞め淡島の巫女としての役目も放棄し、共同体から切り離されて神からも人からも忘れられて孤独に生きるか……自らの想いを貫き通すため、日常を取り戻し、困難に立ち向かう勇気を持って人前に姿を晒すか。
「妬み嫉みは人から言われて収まるものでもない……上手く昇華できる者も、できぬ者もある。だから私もすべての害悪を取り払うことはできぬし、そなたに無理強いをすることもできぬ」
「……」
「ただ、神依。そなたが月読様に召し上げられれば私は嬉しい。ゆえにそのハレの日は、この瑠璃杯を混ぜたあらゆる宝や玉とともに真白の衣を着たそなたを淡島より送り出そう。あるいは隠遁する道を選んだとて、禊や童は側にある。それに、時にはこうして人目を忍んでまみえることもできましょうて――そのときはまた、この瑠璃杯でもてなそう。そなたが好きそうな可愛らしい菓子も甘い水菓子も、この机の上に山をなすほど用意してな」
「洞主様……」
それは昼間大兄が告げたとおり、解決にはならなかったが心の休まる話ではあった。
そうして神依が杯を空にするまで、洞主はいろんな話をしてくれたり珍しい物を見せてくれたりした。
昼間、神依を訪ねた大兄は神妙そうな顔で奥社に戻ってきた。話を聞くに、ついにあの娘巫女が男神と契りを交わしたのだという。それも世界の理を司る三貴子の一柱――月読命と。
それはそれは過分なほどの寵愛で、ゆくゆくは間違いなく高天原に召し上げられるだろうとの話だった。そして少女の頬には、あたかもそれを世に顕示するように男神の朱印が刻まれているという。
月読命は時折荒々しく暴威を振るうが、まさかそうまでした娘の前で粗暴な振る舞いもなさるまいと、玉衣はかすかに唇の端を上げた。
(思えば私も、昔はよくそういう話で盛り上がった)
どれほど熱っぽく見つめられて身の内を溶かされたか、どんな愛の囁きに体の芯を痺れさせたか、……その先の、蜂蜜のようにとろけた時間のことさえ密やかに、けれども誇らしげに語り合った。
花はあざやかな花弁を誇ってこその花。ただ美しくあって、愛でてくれる目と手と言葉に傲ればいい。
けれど――
(あの子は、話してはくれぬだろうな――)
恥ずかしがって、視線をあちこちに遊ばせながら慌てる様が今から頭の中に思い浮かぶ。
だがこれでようやく、あの子を淡島の巫女として迎えられるのだ。ようやくあの子を――。
そこまで考えたとき、扉の向こうから大兄の声がかかった。
「失礼いたします、玉衣様。神依様と大弟が参りました」
「うむ――お通し」
それでふと我に返った玉衣は、いそいそといつもの席に着く。
「失礼いたします」
「し……失礼します……」
やってきた二人は、片方は何事もなく、もう片方は室内を窺うように戸をくぐってきた。やはり天井に目を留め、ほぉと長く息を吐く姿は自分と通じるものがある。自分の中にいまだ存在する若い娘時分の感覚も、透き通ってきらめくものには特に胸を躍らせてしまう。
――そこは玉衣の秘密の部屋。時代と、場所と、世界と、そのあらゆるものが歪められた、あの境の社務所だった。
玉衣の前にやってきた少女は、頭から被っていた外套をおずおずと取り払う。
話に聞いていたとおり、少女の頬にはたしかに朱印があった。それを見た玉衣は笑みを浮かべると、どこかそわついた様子で、卓を挟んで用意していた椅子を示した。
「神依、お座り。それから大兄は何か飲むものを。神依に瑠璃杯を見せておやり。若い娘の瞳には、貴石の如く眩い輝きで映るであろ」
「かしこまりました」
大兄は苦笑気味に下がり、神依は禊に椅子を引かれると、何度もお尻と裳裾を確かめながらちょこんと椅子の縁に座った。
「驚いたかえ? ここは私の秘密の部屋。私以外にはまだ、大兄とそなたの禊しか入ったことがない」
「えっ――」
「ただしこの部屋のことは内密にな。……時折あの洞に行くと、こうして不思議なものが流れ着いておるのだよ。見つけたら再び海に戻せと先代の洞主様から言いつけられておったが、どうにも心惹かれるものがあってな……たまに気に入ったものがあったら使えるものは拾って持ち込み、ようわからぬものは匠の方に流して真似させておる。……悪くはなかろ?」
「……はい。違う世界に来たみたいで……何だか、気持ちがうんと変わります」
正しく自分が望んだことを理解してくれた少女に、玉衣は満足そうに頷く。やはり、何か同じものを共有できる者がいるのは嬉しい。
そこへ大兄が戻ってきて、神依の前に脚の長い華奢な杯が置かれた。それは夜明けの雲海をそのまま閉じ込めた色をしており、ありとあらゆる宝石を薄く削いで作られているかのよう。ちらちらと不安定な蝋燭の灯りを反射して、余計にきらめいて見えた。
「わあ……きらきらしてる。綺麗……」
「色硝子の細工杯じゃ。窓の玻璃より、数段透き通って美しくあろ。きっと外の世界には、そういうものがあふれておるのだろうな」
「はい。あ……いただきます」
「うむ」
童に見せてあげたい、と思いながら神依はそれを傾ける。中身は水のように見えたが、こくがあって甘い。緊張して乾いた口と喉を、優しく潤してくれた。
「――然らば、私の可愛い娘巫女よ。その頬の御仁とどのような一夜を過ごしたか、私にも教えてはくれぬか。きっとかの神が囁いた言葉は、今口にするその果実水より甘かろう――」
「んっ……」
そうして悪戯そうに紡がれた言葉に神依は危うくむせかけ、慌てて禊から差し出された手巾を受け取る。しかしそれで口を拭かせるのと同時に神依を黙らせた禊は、神依に代わり自ら話を先に進め始めた。
「それよりも洞主様――今は何より、今後のことをご相談させていただきたいのですが」
「ああ……そうであったな。すまぬな神依、私も嬉しゅうて、つい年甲斐もなくはしゃいでしまった」
「あ――いえ。禊……」
それだけで本当にいいのだろうか、と神依は問うように禊を見上げるが、禊は今はいいと頷き、言葉を接ぐ。
「他のお話は後ほど――それより今、私が何より優先すべきは今後の神依様の身の安全です。元より巫女は神を選べず、拒めもできぬもの。頬の朱印は神依様の咎ではありませんが、このままではまた他の巫女らに害されてしまうのではと」
「ふむ――」
玉衣は何事かを考えるように虚空を見上げると、それから少しののち再び神依に視線を戻し、苦笑気味に続けた。
「大弟の申すとおり、頭では理解できても心が追いつかぬときがある。いや、それすら弾き飛ばして身が動いてしまうのが女というもの。群れられては、なお厄介なものだ」
「あの……洞主様も昔、そういう目に遭ったと」
「そうじゃな――嫉妬も女の花とは申せ、その焔の花片に焼かれる方はたまったものじゃあない。この大兄ですら肝を冷やすようなことが、幾度もあった」
「……」
それで洞主の傍らに戻っていた大兄を見れば、大兄は肯定を表すように頷く。ただ眉根を寄せる大兄からは洞主の口調以上に良くない仕打ちがなされたことが窺えて、神依はきゅ、と身をすくめた。
例えば御霊祭のような……あんなにも寂しいときを、何度過ごせばこの女性に近づけるのだろう。それすら乗り越え、地位を、人格をも兼ね備えさせたその強さは、一体どこからもたらされるものだったのだろう。
少なくとも今の自分にはそんな強さはないが――ただその代わり、辛いときを一緒に過ごし支えてくれた禊や童がいるから、やはり最終的には自分たちの力で、一つずつ乗り越えていくしかないような気もした。
「洞主様も大兄さんも、そういうことを何度も経験したから、今みたいに強くも優しくもあれるんですね……」
「ふふ。そなたがそう申すなら、いつかきっとそなたもそうなる。そなたを見ていると、まるで鏡映しのように昔の自分を見ているような気がしてな――。そしてこの言葉は私が先代の洞主様から頂戴したお言葉でもあるから、私が婆様になったら次にここに座るのは神依やもしれぬ」
「そ……そんな。わたしじゃとても無理です――」
そしてそんな悪戯混じりの言葉にも、神依は慌てて頭と手を横に振って否定するが、洞主はそれも承知のように笑って見せた。
「そうそう、それよな――そなたは少し、我慢をしたり遠慮をしすぎるきらいがある。あるいはそれは美徳かもしれぬが、誇るべきところは誇った方が、却って相手の癇に障らぬこともあるのだよ」
「そう……なのですか?」
「そうだとも。その頬の朱印のことも――此度はお相手があの月の神ゆえ、もはや表立ってそなたをどうこうできる者もおらぬとは思うが……淡島の巫女なれば、もっと堂々と胸を張ってその寵を見せつけておやり。さすればいかな悪しきことが起ころうとも、そのときはそなたのことを想う男神がそなたの前に立ち、そなたを護ってくれる」
「洞主様――」
だがその洞主の言葉は、今の神依には罪悪感しかもたらさぬ言葉だった。
あんなに喜んでくれていたのに、こんなに親身になってくれているのに、この朱印は本当は妻問いの証ではない。自分は相変わらずこちらに流れ着いたときのままで、洞主の言う淡島の巫女にも――女にもなりきれていない、中途半端な存在。そして何より、この朱印とは別に想い人がいて――。
それを秘めるのにもいちいち罪悪感がつきまとって、心の中がもやもやとして痛む。視線を下げた先にはせっかく出してくれた特別な杯があって、ますますに神依の眉や肩はハの字を作ってしまった。そしてまたそれに気付いた玉衣も、笑みを困ったものに変えると神依の頬を――月読の朱印を、優しく手のひらで包んだ。
「……何か他に、憂え事があるようだね。私の可愛い娘巫女」
「――洞主様……わたし――」
神依はそれに甘え、胸の内を告げようと唇を開く。しかしその瞬間、玉衣は神妙そうに首を横に振り、それを留めた。
「今はこの天つ男神が司る夜の国。滅多なことを口にいたしてはならぬ……そなたには信じられぬやもしれぬが、その神は時折、語るも凄まじき暴威を振るわれる。今のまま、何も知らず何も想わず、深き愛情を戴き身をゆだねておうた方が、そなたには幸せじゃ」
「でも……でも、違うんです。わたしは……違うんです……」
「神依……」
洞主は手を引くと、一つ小さく息を吐く。
「きっとそなたも、恋を知ったのだね」
「洞主様――」
その思わぬ言葉に神依が顔を上げると、一直線に洞主と視線が交わった。洞主の瞳の片隅には色硝子のきらめきが宿り、不思議な色をしていた。黒と虹の色。揺らいだり、混ざったり、また分かたれたりを繰り返す。
「そなたの気持ちも、わからぬものではない……。けれども月読様は、天照様と等しくこの世界を司る神。振る舞いはさておき、天津神、国津神の男神の頂点に立たれるお方じゃ。ゆえに、もはやいかなる男神もそれに抗うことはできぬ――」
「でも、……」
「神依。私も長年こちらにおるが、そうまで巫女に執着を見せた神は他にはあらっしゃらない。ましてや月読様はいまだに正式な妻神も妻巫女もお持ちにならぬ身。ゆえにそなたを求められれば、きっと大事にしてくれよう。だが……もし」
「……」
「……もしも万が一、拭えぬ想いが他にあるのなら……少しの勇気を持って、進貢にてその想いを問うといい。祭祀を除き、淡島の巫女が神に干渉できる唯一の方法。……もしそれが通じれば……あるいは」
「……少しの……勇気……?」
結局、それが今の神依と禊に与えられたあまりに少なすぎる選択肢だった。
このまま月読を受け入れ高天原に召し上げてもらうか、進貢を辞め淡島の巫女としての役目も放棄し、共同体から切り離されて神からも人からも忘れられて孤独に生きるか……自らの想いを貫き通すため、日常を取り戻し、困難に立ち向かう勇気を持って人前に姿を晒すか。
「妬み嫉みは人から言われて収まるものでもない……上手く昇華できる者も、できぬ者もある。だから私もすべての害悪を取り払うことはできぬし、そなたに無理強いをすることもできぬ」
「……」
「ただ、神依。そなたが月読様に召し上げられれば私は嬉しい。ゆえにそのハレの日は、この瑠璃杯を混ぜたあらゆる宝や玉とともに真白の衣を着たそなたを淡島より送り出そう。あるいは隠遁する道を選んだとて、禊や童は側にある。それに、時にはこうして人目を忍んでまみえることもできましょうて――そのときはまた、この瑠璃杯でもてなそう。そなたが好きそうな可愛らしい菓子も甘い水菓子も、この机の上に山をなすほど用意してな」
「洞主様……」
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