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第14章 文枕
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文箱の中には、文と一緒に日嗣の笄が入っていた。
それは神依にも見覚えのある、金で蔓と葉が象られたもの。神依が初めてこの世界に来た日、日嗣が髻華と呼んでいたものだった。
神依はそれを、本来は櫛を入れるはずだった巾着にくるんで常は宝物入れの一番奥にしまって大事にしていた。
ただ返事を待つ間、その寂しさを紛らすように手に取って眺めてみたり、髪に当ててみたり……。神依には似合わないものではあったが、それでも心が浮き立った。結局櫛は月読に持ち去られたまま返ってこなかったが、今はそれに代わって神依の一番の宝物となっていた。
それから神依は禊や童と相談して新しく糸を紡ぎ、前に紡いだまま残っていた糸房と合わせて染めを行い、髪紐に仕立てて日嗣に贈ることに決めた。
もう一度小さな神々の力を借りて糸を新しく紡ぎ直すのも、染料を求めて冬野を歩き回るのも。
それはますますに巫女たちの中で立場が悪くなった神依に取って、何よりも楽しく、心が休まるひとときだった。氷風よりも鋭く冷たい囁きも、ここまでは届かない。
――神依は最初の文をもらった次の日から、進貢に戻っていたのだ。
最初こそ、他の巫女たちは驚愕し息を呑むばかりで害があるわけでもなかったが、三日もすれば驚きなど消えてしまう。形ばかりの挨拶を交わしてくれていた巫女たちさえ神依を避けるようになり、そうでない巫女たちは遠巻きに、けれども確実に悪意が伝わるような目と声で、罵り言葉を吐いてくる。
その不安や悲しみは、花や穂を依りにして神々たちにも伝わった。しかしそれより深くに、紛うことなき信頼の念や恋う神への想いが根付いていることも感じ取って、神々もそれに応えた。伍名や猿彦たち国津神は神依と日嗣の元を訪ねてはそれぞれの気分が晴れやかになるよう振る舞い、また互いの日常の様子を語りその縁を見守ったし、日嗣もまた、朝の目覚めに想う巫女の存在を感じて、昼も夜も筆を取った。
大抵手紙が届けられるのは夜だったが、それは辛い朝に代わってこの上ない喜びに満ちた夜を二人にもたらした。
文字と夢とで心を交わす、甘く、むず痒く、もどかしい時間。蜜に漬けられた心地のまま眠りに落ちる瞬間は、たとえ離れていたとしても、お互いのぬくもりを感じられた。
恋や、愛を語る言葉は多くは紡がれない。ただたくさんの、ささやかで優しい未来を、二人の筆先は綴っていった。
***
神依。
神依へ。
お前がこの字を石の上に綴ってから、どれだけの時を共に過ごせただろう。今になって思うと、あの頃から俺の中にお前の存在があったように感じる。
今回、こんなことになってしまって、本当にすまないと思う。それから、この文が遅くなってしまったことも。その間、お前がどれだけ自分の手でその心を傷付けて過ごしていたか、想像するだけで胸が痛む。
彦から、体調が良くないとも聞いている。
もしもその心の傷が原因なら、あの時、お前を抱きしめてやれなかった俺の弱さを許してほしい。
お前を護ってやれなかった愚かな俺を、許してほしい。
こんな風になって初めて、お前の優しさに気付いた。俺が知らず知らずに受け取っていた優しさも、温もりも。
だから今は、お前の心の温かさや肌の柔らかさをとても恋しく思う。
もし次に会う時は、もう一度お前を抱きしめたい。
それが許されるなら、あの満天の星空の下でそうしたように、もう一度お前の心を俺に触れさせてほしい。
お前が決して穢されてなどいないことを、今度こそ俺がお前に証して見せるから。今度こそ、お前が願った言葉を捧げるから。
どうかそれまで、信じて待っていてほしい。
そちらは、もう雪は降っただろうか。
高天原も淡島も、どちらも嫌いだったはずの俺が、今はずっとそちらのことを考えている。
あの禊がいるから心配は無いと思うが、今は何より自分自身を労ってやってくれ。
お前がまた心から笑えるようになるまで、俺も一人寝の寒さに耐えながら待っている。
共に綴じた飾りは、お前に持っていてほしい。
覚えているだろうか。お前がこの淡島に流れ着いて、初めて俺から奪ったものだ。
もしもお前が俺を許してくれるなら、持っていてほしい。
いつか必ず、お前の元に取りに帰るから。
だからその時は、またお前の手で俺の元に返してほしい。
神依。またお前と二人、名を呼び合える時が来ることを祈っている。
***
日嗣様へ。
ごめんなさい。
なんだか、うれしくて、胸がいっぱいで、どうやって書いていいのかもわからないけど、お返事を書きます。読めなかったり、上手く書けていないかもしれないけど、許してください。
お手紙、本当にありがとうございました。それから、ごめんなさい。本当は怖くて、もう会えないんじゃないかと思って、毎日心がぐらぐらしているみたいでした。
でも、あの箱の中は日嗣様の優しさでいっぱいで、悲しいわけじゃないのに涙があふれて、
また、こうやって言葉を交わせるのが本当にうれしい。
わたしが神依になった日。初めて日嗣様がわたしの名前を呼んでくれた日。
わたしももう、あれから何日経ったか覚えてないけど、なんだかすごくなつかしい気がします。
わたしにとってあの日は、すごく大切な日なんです。きっと、今日までのわたしを形作ってくれた大切な日。日嗣様がわたしを巫女として認めてくれたのも、その内の一つだったと思います。
あれから日嗣様は、いつだって私のそばにいてくれました。
悲しいときもうれしいときも、わたしに取って特別なとき、いつも一緒にいてくれました。
今度も、きっと一緒にいてくれようとしたんですよね。あの満天の星空の下で約束したとおり。
なのにわたしが、わたしの方が、日嗣様から離れてしまったから。
あのとき日嗣様は手を差し伸べてくれたのに、わたしがそれを受け入れられなかったから。
だから、謝るのはわたしの方なんです。
大事な約束を忘れて、あなたを受け入れることができなかったわたしの、身の浅ましさを、許してください。
本当は、あなたにすがりついて泣きたかった。でも、あなたに嫌われるのが怖くてできなかった。
あなたの優しさを拒んでしまった弱いわたしを、許してください。
そしてもしも、お互いに許し合えたら
わたしも今度こそ、あなただけの巫女として、あなたの隣にありたいと思います。
ずっと優しいままいてくれたあなたの心を裏切らないように。
今度こそ、あなたの心を信じて、あなた一人のために舞う巫女でありたいと思います。
その時はまた、あの良い香りのする若穂色の衣で私を包んでくれますか。
わたしも今度こそあなたの手を受け入れられるように、
それを目一杯に誇れるように、
あと少しだけ、頑張ろうと思います。
あなたの寒さが少しでも癒えるように、また毎日、稲穂を捧げようと思います。
わたし
わたしも、やっぱりもう一度日嗣様に会いたい。
今、こうやって返事を書いている間も胸がいっぱいで、うれしいのに、苦しくて寂しい。
日嗣様が伝えてくれた全部が、本当にうれしくて、心にも体にも収まりきらなくて、
ごめんなさい。思い出しただけでも涙が浮かんできて。
書き直そうと思ったんですけど、禊がこのままでいいって言うから。変ですよね。ごめんなさい。
髪飾りも、うれしかった。
会えないけど、ずっとつながってるみたいで。
わたしが淡島に帰ってきた日。日嗣様と初めて会って、初めてあなたの不器用な優しさに触れた日。忘れるはずありません。
大事にします。
だから、もし淡島に降りられるようになったら絶対取りに来てくださいね。その日はごちそうを作って、みんなでお出迎えしますから。
禊も、雪が降りてくる前にお会いできたらいいですねって。
禊も童も、みんな、きっと日嗣様が来るのを待っていると思います。
わたしも、待っています。
世界全部が好きじゃなくても、せめてこの家だけでも、好きになってもらえるように。
また会えるその日を、待っています。
***
神依へ。
そういえば、お前はこんな字を書くんだなと初めてそんなことを考えた。
丸くて笑っているように見える。お前らしい。
だからか、返事を読んでいる間中ずっとお前の声が聞こえているような気がした。
お前の笑みも、涙も、手を伸ばせば届きそうな場所にあるような気がした。
俺のために、というのは俺の傲慢だろうか。それでもお前がもう一度、こうして言葉を紡いでくれたことが本当に嬉しい。
ありがとう。
お前の禊も、誰よりも女々しい俺の心を判っているようだ。似た者同士だからだろうか。
けれどこれからは、多分お前一人でも読める形の文になっていると思うから、お前が俺と同じように、身の内を焦がす程にこの手紙を読んでくれたら嬉しい。
あの日当たりのいい縁側ででも、褥の中ででも。
胸に抱いてくれたら嬉しい。
俺も今はその程度の自由しかないが、最近は気鬱になることも減った。お前のおかげだ。
進貢で届けられる想いも、文で届けられる想いも、俺にとってはかけがえのないものだ。
お前はいつも、稲穂を捧げてくれていたんだな。
お前がなぜそれを選んでくれていたのか、不思議でしょうがない。けれど俺は、それをこの上ない幸せだと感じられる。
その理由を、お前はもう知ってくれているのだろうか。だとしたら、もっと嬉しい。
ただ、お前に無理をさせてしまっていないか、それが不安だ。
あの水の森の空気は冷たくないだろうか。
今のお前には、凍てつくような寒さなのではないだろうか。
その寒さ冷たさに、またお前が傷付くのではないかとそればかり憂えてしまう。
だからどうか、無理だけはしないでほしい。お前にその寒さを味わわせるくらいなら、俺が凍えていた方がましだ。
今はお前がくれた文があるから、それを枕に寝ようと思う。
それにしても、お前の文も、俺に懐かしさばかりもたらすな。
生まれたばかりの獣のようだったお前が、いつからこんなに、瑞々しささえ感じられるようになったのだろう。
ほんの一時でもつがいとしてあれた幸せを、今になって一人噛みしめている。
またあの社に二人で行きたいな。彦は時折、顔を覗かせているようだ。
きっとまた適当なことを言って、子供たちに俺たちのことを吹聴しているんだろう。
ただ、子守りがいなくなって不満だと言われた。彦が赤子を抱くと、泣き通しになって駄目なんだそうだ。
ああ、今、書きながらいいことを思いついた。
春と秋の祭には、二人で忍んで遊びに降ろう。そうすればきっとあの村は、その年、淡島一実り豊かな村になる。
神依。
お前が私を神として、男として求めてくれるなら。
俺は今度こそ、天孫日嗣としてこの世に顕れることができる。
その証を、その時お前に捧げてみせよう。高天原から豊葦原まで、国の土を埋め尽くす程の黄金を、お前に捧げる。
そうしたら、あの神楽殿で舞ってくれたように、俺の前で舞ってはくれないだろうか。
ああ、そういえば御霊祭では俺もまだやり残したことがあるんだ。
その時は、お前にも力を貸してもらいたい。その日はきっと祭になるだろうから、また舞ってほしい。
お前だけでいい。
祭の間は華やかに。
けれど夜はお前の望むとおり、俺の衣の中で舞わせてやる。
俺の衣よりも芳しいその髪を、肌を、もう一度俺の袖の上で舞わせてくれ。
あの鈴の音よりも魂を揺らす声を、もう一度俺に捧げてくれ。
俺だけの巫女として、お前を抱きたい。
すまない。最近伍名が頻繁に出入りするようになって、言葉の加減がわからないんだ。よくもあれは、次から次へと歯の浮くような台詞ばかり述べられるものだ。
けれど今は、不思議とそれでいいような気もする。
お前に触れていたと思うと憤りも感じるが、感謝もしている。
俺を迎えてくれる日は、彦や伍名も呼んでやってくれ。
お前の家に住む神々も、禊や童も、皆そろって賑やかだと嬉しい。
その後は雪の降る日も、花笑む日も、常にお前と過ごせるようになることを願っている。
入り浸り過ぎて、お前のしもべたちから小言を言われそうな気もするが。
それすら今から楽しみだ。
***
日嗣様へ。
もう、日嗣様からのお手紙は夜一人でこっそり読むことにします。顔が真っ赤になってるって童に言われて、恥ずかしかった。
でも、同じくらい、幸せでした。
ああ、こんなこと書いてたら変になりそう。
だけど今日は、わたしももらったお手紙を枕の下に置いて眠ろうと思います。
禊が、そうすると夢で会えますよって。
本当に、ばかでしょう。でも本当に、大切な禊です。
日嗣様からお手紙をもらってから、猿彦さんに頼んであのお社に連れていってもらいました。
冬の支度で忙しいみたいだったけど、何人かは来ていて、お菓子をあげました。
最初はびっくりされたけど、あの子たちもこの淡島のことを理解しているんですね。お嫁に行くのかと、女の子たちから聞かれました。行かないよって言ったら、残念がられてしまいましたけど。
わたしが高天原にお嫁に行ったら、みんなは禊と一緒になるんだそうです。かわいいでしょう。
それから、進貢のことも。
たくさん心配してくれて、気にかけてくれて、本当にありがとう。こんなふうに言うと怒られてしまうかもしれないけど、うれしかった。
大事にしてくれてるんだって、感じられて。
だけどそんな日嗣様だから、わたしももう一度、勇気を出せたんだと思います。
つらくはないと言えば嘘になるけど、これは、今のわたしが巫女として日嗣様にしてあげられる唯一のことだから。
わたしの心だけでも日嗣様の隣で眠らせてくれるなら、つらいことも平気です。
それに広場に行けば、わたしたちの大きな子にも会えます。その子のためにも、わたしは大丈夫だって姿を見せてあげたい。きっとあの子は昼もそんな風にさらされて、寒がっていると思うから。
二人一緒にいられるようになったら、また会いに行きましょう。
夜更かしもして、またどこかで、会えなかったぶんのことまでお喋りできたらうれしいです。
そういえば御霊祭でやり残したことって何ですか。私にできるかな。
それから伍名様、日嗣様のところにもいらしているんですね。私のところにも、あれから時々様子を見にきてくれています。猿彦さんも、たくさん気遣ってくれて。
伍名様の影響でも、いいです。
だって、出会ったときとはもう違うから。
今の日嗣様にそんなふうに言ってもらえるなら、わたしはきっと淡島で一番幸せな巫女のはずです。
だからそのときは、あなたのその言葉にたくさん甘えさせてください。
あなたの思うまま、わたしを導いて下さい。
私をあなたの腕の中で、精一杯美しく、舞わせて下さい。
他のどの男神でもない、あなたにすべてを捧げられるなら、
きっと私も、満たされると思います。
きっとまた、体からも心からもあふれてしまうくらい満たされると思います。
変ですね。恥ずかしいのに、同じくらいうれしくてふわふわする。
こうして会えないことは悲しいけれど、不幸ではない気がするんです。
きっと、この時間もわたしたちには必要なものだったんだって。
お祭も、一緒に行けたら嬉しい。
儀式とは違うのだと童から聞きました。お囃子も神楽も、もっと騒がしいって。お店も出て賑やかで、たくさんの人が集まるから、きっと神様も村の人に混じって楽しむんだって。だから村人も、見たことがないお客さまをうんと喜ぶって。
秋のお祭で、私の黒い瞳が金色に染まるくらい日嗣様も満たされるなら、その黄金の大地はきっとたくさんの人に祝福されてあるんでしょうね。
だって、日嗣様は、稲穂の神様なのだから。
わたしもできるなら、次に来る夏はあなたと一緒に過ごしたい。
わたしがこちらに来た季節は、今度はどんなふうに移り変わっていくんでしょう。
雨の日も、晴れの日も、お天気雨の日も。それをここから一緒に見つめられたら、幸せです。
きっと世界で一番、幸せです。
***
神依へ。
お前が夜一人で読むと言うなら、俺ももっと好きに言葉を綴れる気がする。
お前は甘え下手だから、うんと甘やかせと伍名からも言われているしな。今度は、お前を包む褥が俺でないことを、もどかしく思う程の言葉を綴りたい。
あの櫛のことは本当にすまなかったと思うが、思えばあの時もそうだったな。
お前が恥じらっている姿を見ると、俺はどうにもお前に悪さをしたくなる。
それこそ、本当に童子のようなものなのだろうが、お前があんなことを書いて寄越すから仕方ない。彦が恋文は夜に書けと言っていた理由がようやくわかった。
けれどもお前の身に紅を差せる程の言葉を紡いでいたなら、俺の身の内にある想いも、きっともう収まり切らない程のものなのだと思う。
夢の中では、お前は俺に会えただろうか。
もしも会えたのなら、その俺はどれだけお前と語り、どれだけお前とじゃれあい、どれだけお前と睦んでいたのだろう。
夢の中の自分にさえ、嫉妬してしまう。
今願いが叶うなら、一日でいいからお前の禊と心だけ入れ替わりたい。あるいは彦の開いてくれる道に夢の通い路さえあれば、毎夜お前の夢に天降れるのに。
それにしても、あれが童女らに囲まれて渋い顔をしていたのはそういうことだったのだな。
ほほえましいというと嫌な顔をされるだろうが、ほほえましい。
本当は、俺はあれとも一度語り合いたいんだ。
俺が知らないお前のことを、俺しか知らないお前のことを、共に語り明かしたい。
俺では足りぬところをあれはきっと満たしてくれるし、あれに足りぬところはきっと俺が満たしてやれる。
そうしたら、お前はずっと、世界で一番幸せなままであれるだろう。
もちろん、お前を譲る気はないが。
だがそうすれば、今度は二人であれの幸せを願ってやれる。俺も神として、男として、あの男の献身に報いたい。それが果たせれば、きっと、また彦とは違った友になれると思う。
そして、そんなお前たちが俺を神として正しく顕していてくれたことには、心から感謝する。
お前が俺を見出だしてくれたのはいつのことなのだろう。思い返せば、御霊祭の前からお前の祈りは俺に一番近かったような気がするが。
ただどんな罪にまみれようと、幾ら時代を経て人々に忘れ去られようと、神としてあれることは俺たちには本当に幸いなことだ。
そして今、お前という巫女を得て、俺は更なる幸せを目前にしている。
そんなお前に辛い思いをさせるのは忍びない。けれど、本当にありがとう。
あの大きな子のことも。
そうだな。あれが初めて私とお前がつがいであることを認めてくれた神なのだから。
俺もお前と同じくらい、あれを想おう。
御霊祭でやり残したことも、実はあれに関係することなんだ。
斎水分神はもともと、別で祭るはずだったんだ。だからあれの神威を分けて、そちらにもう一つ、祠か社を建立したい。
お前が舞えば、きっとあれも喜ぶだろう。
ただ、やはり今は何よりお前のことが気掛かりでならない。
お前が強い娘であることは俺が一番知っている。けれど、同じくらい脆いことも知っている。
本当に辛いときは、またその気持ちをそのまま紙にしたためてほしい。俺にも、その苦しみを分けてほしい。
二人であるというのは、そういうことのはずだ。
約束してくれ。
そして、覚えていてほしい。今の俺に取っては、お前の涙さえも天から滴る甘露であることを。
それをみすみす、お前の袖や禊の胸に啜らせる訳にはいかない。
きっとその雫は、お前が綴ってくれた甘やかな言葉のどれよりも甘いだろうから。
だがお前のおかげで、俺はまた更に一人寝が辛くなりそうだ。
この頃は、大叔父上から遣わされている者たちさえ呆れているように見える。
しかしこの喜びは、今俺が唯一誇れることなのだから仕方ない。
今度はあの言葉の数々を、お前自身の唇で紡がせたい。お前が恥じらいながらあれを口にする様はどれほど愛らしく、またどれほど私を堕として虜にするのだろう。
そういえば、お前はよく菓子を食べていたな。
今度はその花砂糖のような唇で甘い言葉を練って、私に食ませてくれ。柔らかな飴のような舌を、私に含ませてくれ。
その頃には、お前も蜜のようにとろけて私の腕の中にあるだろう。
祭の夜に男と女が結ばれる。それはとても自然で、言祝ぐべきことなのだが、またこれでお前が頬を染め、身に狂おしい熱をこもらせるのなら私も嬉しい。
雪が降る日ならばその熱を分け、蝉が鳴く頃ならばその熱を宙に充たそう。
ああ、気付いたらいつもより紙が長くなっていた。
こうしていると、お前とやりたいことがどんどん増えていって切りがない。神依、お前はどれだけ俺の願いを叶えてくれるだろう。
お前と過ごす細やかな日常が、今の俺の願うものすべてだ。
また縁側で語り合おう。
またこっそり夜に出掛けよう。
また星を見よう。
たまにはこちらから猿彦のところに出向いて、釣り竿でも垂らすか。お前は雲海で泳ぐ方が好きかもしれんが、帰りはまた俺の衣を奪うといい。俺も喜んで、お前に献上してやる。
お前のしもべたちにも、何かしてやれることがあればいいのだが。童には一つ、手本に良い勾玉をやってもいいな。
あの禊には、きっと何よりもお前と二人で在る時間が喜ばれる気もするが、それは俺が嫌だから、何か二人で考えよう。
お前とは、甘い酒が飲めるならそれでいい、一緒に盃を交わしたい。
そしてできるなら、今度は髪を結わせてほしい。甲斐甲斐しくお前の髪をとき、美しく結い上げて、お前が至福の内に柔らかくそれを乱したい。
後は、そうだな。
それから……
***
だが、雪が里に降りてくる頃になっても、日嗣の謹慎は解けなかった。
それは神依にも日嗣にも残念なことだったが、それでも二人は文を交わし続けた。
その頃になると、日嗣の綴るものは神依をからかって遊んでいるように色めいた文言を増やしていたが、神依は神依でそれに怒ったふりをして跳ね返す楽しさも覚えていた。
けれども時にはありのまま、純な想いを確認し合って。素直に心を晒せば、相手からはよりいっそう澄んだ心がもたらされた。
そしてそれがあったからこそ、神依は進貢も続けていた。
「――神依、今日も気をつけてな」
「はい。ありがとうございます、鼠軼様」
「うむ……」
しかし、その日も鼠軼はいささか不安そうに神依を見上げ、進貢へと送り出す。その傍らにはやはり鼠英が控え、ヒビの入った神威の珠に目を落としていた。
家と家主に与えられる加護は確実に薄れている。鼠英の目にも、神依にまとわりつく黒い靄のようなものが視えていた。
今日は珍しく早起きした子龍も一緒だったが、やはりそれを追い払うように小さな手で宙をかいている。
だがそうして地に落ちたそれは、なおうぞうぞと気色悪く蠢いて、神依の足跡を辿るように後をついていった。
国津神たちも折りを見て密かに祓ってはいたが、それは無尽蔵に人の深奥から湧き続ける。
「――…して? なんであればっかり」
「よっぽど……じゃない。それで男をたぶらかしてるの」
「……よね、……最低」
「穢いのよ……本当に、」
男に吸い付く女蛭。
水の流れに、梢のざわめきに混じって聞こえる中傷は、もはや日課になっているように巫女たちの唇からこぼれ、神依の頬をかすめていった。
禊が傍らに立ちなるべくその頬を人目に晒さぬよう気を配ってはいたが、空気に混ぜられた毒までは振り払えない。水の森はただ神依への嫉妬と誹謗中傷を交わす間ともなり、これが日没まで繰り返されているのかと思えば斎水別神にも申し訳なくなってしまう。
そしてそこには、直接手を下せない憤りも、下さない卑劣さも織り交ぜられていた。
それからさらに数日が経つと、禊にはもう一つ目につくことが出てきていた。
「……?」
巫女の多くが同じ赤い花を捧げ始め、日に日にあの花の台座が赤く染まっていく。
あふれて川に落ちていく花弁はまるで血のようで、神依さえそれに気付いて不安に瞳を揺らすほどだった。
乾かない傷から滴る鮮血。
それは溶けることなく流れる水の上をたゆたい、花藻を摘む神依の腕に貼り付いては、底にいざなうよう日々うずを描いていた。
それは神依にも見覚えのある、金で蔓と葉が象られたもの。神依が初めてこの世界に来た日、日嗣が髻華と呼んでいたものだった。
神依はそれを、本来は櫛を入れるはずだった巾着にくるんで常は宝物入れの一番奥にしまって大事にしていた。
ただ返事を待つ間、その寂しさを紛らすように手に取って眺めてみたり、髪に当ててみたり……。神依には似合わないものではあったが、それでも心が浮き立った。結局櫛は月読に持ち去られたまま返ってこなかったが、今はそれに代わって神依の一番の宝物となっていた。
それから神依は禊や童と相談して新しく糸を紡ぎ、前に紡いだまま残っていた糸房と合わせて染めを行い、髪紐に仕立てて日嗣に贈ることに決めた。
もう一度小さな神々の力を借りて糸を新しく紡ぎ直すのも、染料を求めて冬野を歩き回るのも。
それはますますに巫女たちの中で立場が悪くなった神依に取って、何よりも楽しく、心が休まるひとときだった。氷風よりも鋭く冷たい囁きも、ここまでは届かない。
――神依は最初の文をもらった次の日から、進貢に戻っていたのだ。
最初こそ、他の巫女たちは驚愕し息を呑むばかりで害があるわけでもなかったが、三日もすれば驚きなど消えてしまう。形ばかりの挨拶を交わしてくれていた巫女たちさえ神依を避けるようになり、そうでない巫女たちは遠巻きに、けれども確実に悪意が伝わるような目と声で、罵り言葉を吐いてくる。
その不安や悲しみは、花や穂を依りにして神々たちにも伝わった。しかしそれより深くに、紛うことなき信頼の念や恋う神への想いが根付いていることも感じ取って、神々もそれに応えた。伍名や猿彦たち国津神は神依と日嗣の元を訪ねてはそれぞれの気分が晴れやかになるよう振る舞い、また互いの日常の様子を語りその縁を見守ったし、日嗣もまた、朝の目覚めに想う巫女の存在を感じて、昼も夜も筆を取った。
大抵手紙が届けられるのは夜だったが、それは辛い朝に代わってこの上ない喜びに満ちた夜を二人にもたらした。
文字と夢とで心を交わす、甘く、むず痒く、もどかしい時間。蜜に漬けられた心地のまま眠りに落ちる瞬間は、たとえ離れていたとしても、お互いのぬくもりを感じられた。
恋や、愛を語る言葉は多くは紡がれない。ただたくさんの、ささやかで優しい未来を、二人の筆先は綴っていった。
***
神依。
神依へ。
お前がこの字を石の上に綴ってから、どれだけの時を共に過ごせただろう。今になって思うと、あの頃から俺の中にお前の存在があったように感じる。
今回、こんなことになってしまって、本当にすまないと思う。それから、この文が遅くなってしまったことも。その間、お前がどれだけ自分の手でその心を傷付けて過ごしていたか、想像するだけで胸が痛む。
彦から、体調が良くないとも聞いている。
もしもその心の傷が原因なら、あの時、お前を抱きしめてやれなかった俺の弱さを許してほしい。
お前を護ってやれなかった愚かな俺を、許してほしい。
こんな風になって初めて、お前の優しさに気付いた。俺が知らず知らずに受け取っていた優しさも、温もりも。
だから今は、お前の心の温かさや肌の柔らかさをとても恋しく思う。
もし次に会う時は、もう一度お前を抱きしめたい。
それが許されるなら、あの満天の星空の下でそうしたように、もう一度お前の心を俺に触れさせてほしい。
お前が決して穢されてなどいないことを、今度こそ俺がお前に証して見せるから。今度こそ、お前が願った言葉を捧げるから。
どうかそれまで、信じて待っていてほしい。
そちらは、もう雪は降っただろうか。
高天原も淡島も、どちらも嫌いだったはずの俺が、今はずっとそちらのことを考えている。
あの禊がいるから心配は無いと思うが、今は何より自分自身を労ってやってくれ。
お前がまた心から笑えるようになるまで、俺も一人寝の寒さに耐えながら待っている。
共に綴じた飾りは、お前に持っていてほしい。
覚えているだろうか。お前がこの淡島に流れ着いて、初めて俺から奪ったものだ。
もしもお前が俺を許してくれるなら、持っていてほしい。
いつか必ず、お前の元に取りに帰るから。
だからその時は、またお前の手で俺の元に返してほしい。
神依。またお前と二人、名を呼び合える時が来ることを祈っている。
***
日嗣様へ。
ごめんなさい。
なんだか、うれしくて、胸がいっぱいで、どうやって書いていいのかもわからないけど、お返事を書きます。読めなかったり、上手く書けていないかもしれないけど、許してください。
お手紙、本当にありがとうございました。それから、ごめんなさい。本当は怖くて、もう会えないんじゃないかと思って、毎日心がぐらぐらしているみたいでした。
でも、あの箱の中は日嗣様の優しさでいっぱいで、悲しいわけじゃないのに涙があふれて、
また、こうやって言葉を交わせるのが本当にうれしい。
わたしが神依になった日。初めて日嗣様がわたしの名前を呼んでくれた日。
わたしももう、あれから何日経ったか覚えてないけど、なんだかすごくなつかしい気がします。
わたしにとってあの日は、すごく大切な日なんです。きっと、今日までのわたしを形作ってくれた大切な日。日嗣様がわたしを巫女として認めてくれたのも、その内の一つだったと思います。
あれから日嗣様は、いつだって私のそばにいてくれました。
悲しいときもうれしいときも、わたしに取って特別なとき、いつも一緒にいてくれました。
今度も、きっと一緒にいてくれようとしたんですよね。あの満天の星空の下で約束したとおり。
なのにわたしが、わたしの方が、日嗣様から離れてしまったから。
あのとき日嗣様は手を差し伸べてくれたのに、わたしがそれを受け入れられなかったから。
だから、謝るのはわたしの方なんです。
大事な約束を忘れて、あなたを受け入れることができなかったわたしの、身の浅ましさを、許してください。
本当は、あなたにすがりついて泣きたかった。でも、あなたに嫌われるのが怖くてできなかった。
あなたの優しさを拒んでしまった弱いわたしを、許してください。
そしてもしも、お互いに許し合えたら
わたしも今度こそ、あなただけの巫女として、あなたの隣にありたいと思います。
ずっと優しいままいてくれたあなたの心を裏切らないように。
今度こそ、あなたの心を信じて、あなた一人のために舞う巫女でありたいと思います。
その時はまた、あの良い香りのする若穂色の衣で私を包んでくれますか。
わたしも今度こそあなたの手を受け入れられるように、
それを目一杯に誇れるように、
あと少しだけ、頑張ろうと思います。
あなたの寒さが少しでも癒えるように、また毎日、稲穂を捧げようと思います。
わたし
わたしも、やっぱりもう一度日嗣様に会いたい。
今、こうやって返事を書いている間も胸がいっぱいで、うれしいのに、苦しくて寂しい。
日嗣様が伝えてくれた全部が、本当にうれしくて、心にも体にも収まりきらなくて、
ごめんなさい。思い出しただけでも涙が浮かんできて。
書き直そうと思ったんですけど、禊がこのままでいいって言うから。変ですよね。ごめんなさい。
髪飾りも、うれしかった。
会えないけど、ずっとつながってるみたいで。
わたしが淡島に帰ってきた日。日嗣様と初めて会って、初めてあなたの不器用な優しさに触れた日。忘れるはずありません。
大事にします。
だから、もし淡島に降りられるようになったら絶対取りに来てくださいね。その日はごちそうを作って、みんなでお出迎えしますから。
禊も、雪が降りてくる前にお会いできたらいいですねって。
禊も童も、みんな、きっと日嗣様が来るのを待っていると思います。
わたしも、待っています。
世界全部が好きじゃなくても、せめてこの家だけでも、好きになってもらえるように。
また会えるその日を、待っています。
***
神依へ。
そういえば、お前はこんな字を書くんだなと初めてそんなことを考えた。
丸くて笑っているように見える。お前らしい。
だからか、返事を読んでいる間中ずっとお前の声が聞こえているような気がした。
お前の笑みも、涙も、手を伸ばせば届きそうな場所にあるような気がした。
俺のために、というのは俺の傲慢だろうか。それでもお前がもう一度、こうして言葉を紡いでくれたことが本当に嬉しい。
ありがとう。
お前の禊も、誰よりも女々しい俺の心を判っているようだ。似た者同士だからだろうか。
けれどこれからは、多分お前一人でも読める形の文になっていると思うから、お前が俺と同じように、身の内を焦がす程にこの手紙を読んでくれたら嬉しい。
あの日当たりのいい縁側ででも、褥の中ででも。
胸に抱いてくれたら嬉しい。
俺も今はその程度の自由しかないが、最近は気鬱になることも減った。お前のおかげだ。
進貢で届けられる想いも、文で届けられる想いも、俺にとってはかけがえのないものだ。
お前はいつも、稲穂を捧げてくれていたんだな。
お前がなぜそれを選んでくれていたのか、不思議でしょうがない。けれど俺は、それをこの上ない幸せだと感じられる。
その理由を、お前はもう知ってくれているのだろうか。だとしたら、もっと嬉しい。
ただ、お前に無理をさせてしまっていないか、それが不安だ。
あの水の森の空気は冷たくないだろうか。
今のお前には、凍てつくような寒さなのではないだろうか。
その寒さ冷たさに、またお前が傷付くのではないかとそればかり憂えてしまう。
だからどうか、無理だけはしないでほしい。お前にその寒さを味わわせるくらいなら、俺が凍えていた方がましだ。
今はお前がくれた文があるから、それを枕に寝ようと思う。
それにしても、お前の文も、俺に懐かしさばかりもたらすな。
生まれたばかりの獣のようだったお前が、いつからこんなに、瑞々しささえ感じられるようになったのだろう。
ほんの一時でもつがいとしてあれた幸せを、今になって一人噛みしめている。
またあの社に二人で行きたいな。彦は時折、顔を覗かせているようだ。
きっとまた適当なことを言って、子供たちに俺たちのことを吹聴しているんだろう。
ただ、子守りがいなくなって不満だと言われた。彦が赤子を抱くと、泣き通しになって駄目なんだそうだ。
ああ、今、書きながらいいことを思いついた。
春と秋の祭には、二人で忍んで遊びに降ろう。そうすればきっとあの村は、その年、淡島一実り豊かな村になる。
神依。
お前が私を神として、男として求めてくれるなら。
俺は今度こそ、天孫日嗣としてこの世に顕れることができる。
その証を、その時お前に捧げてみせよう。高天原から豊葦原まで、国の土を埋め尽くす程の黄金を、お前に捧げる。
そうしたら、あの神楽殿で舞ってくれたように、俺の前で舞ってはくれないだろうか。
ああ、そういえば御霊祭では俺もまだやり残したことがあるんだ。
その時は、お前にも力を貸してもらいたい。その日はきっと祭になるだろうから、また舞ってほしい。
お前だけでいい。
祭の間は華やかに。
けれど夜はお前の望むとおり、俺の衣の中で舞わせてやる。
俺の衣よりも芳しいその髪を、肌を、もう一度俺の袖の上で舞わせてくれ。
あの鈴の音よりも魂を揺らす声を、もう一度俺に捧げてくれ。
俺だけの巫女として、お前を抱きたい。
すまない。最近伍名が頻繁に出入りするようになって、言葉の加減がわからないんだ。よくもあれは、次から次へと歯の浮くような台詞ばかり述べられるものだ。
けれど今は、不思議とそれでいいような気もする。
お前に触れていたと思うと憤りも感じるが、感謝もしている。
俺を迎えてくれる日は、彦や伍名も呼んでやってくれ。
お前の家に住む神々も、禊や童も、皆そろって賑やかだと嬉しい。
その後は雪の降る日も、花笑む日も、常にお前と過ごせるようになることを願っている。
入り浸り過ぎて、お前のしもべたちから小言を言われそうな気もするが。
それすら今から楽しみだ。
***
日嗣様へ。
もう、日嗣様からのお手紙は夜一人でこっそり読むことにします。顔が真っ赤になってるって童に言われて、恥ずかしかった。
でも、同じくらい、幸せでした。
ああ、こんなこと書いてたら変になりそう。
だけど今日は、わたしももらったお手紙を枕の下に置いて眠ろうと思います。
禊が、そうすると夢で会えますよって。
本当に、ばかでしょう。でも本当に、大切な禊です。
日嗣様からお手紙をもらってから、猿彦さんに頼んであのお社に連れていってもらいました。
冬の支度で忙しいみたいだったけど、何人かは来ていて、お菓子をあげました。
最初はびっくりされたけど、あの子たちもこの淡島のことを理解しているんですね。お嫁に行くのかと、女の子たちから聞かれました。行かないよって言ったら、残念がられてしまいましたけど。
わたしが高天原にお嫁に行ったら、みんなは禊と一緒になるんだそうです。かわいいでしょう。
それから、進貢のことも。
たくさん心配してくれて、気にかけてくれて、本当にありがとう。こんなふうに言うと怒られてしまうかもしれないけど、うれしかった。
大事にしてくれてるんだって、感じられて。
だけどそんな日嗣様だから、わたしももう一度、勇気を出せたんだと思います。
つらくはないと言えば嘘になるけど、これは、今のわたしが巫女として日嗣様にしてあげられる唯一のことだから。
わたしの心だけでも日嗣様の隣で眠らせてくれるなら、つらいことも平気です。
それに広場に行けば、わたしたちの大きな子にも会えます。その子のためにも、わたしは大丈夫だって姿を見せてあげたい。きっとあの子は昼もそんな風にさらされて、寒がっていると思うから。
二人一緒にいられるようになったら、また会いに行きましょう。
夜更かしもして、またどこかで、会えなかったぶんのことまでお喋りできたらうれしいです。
そういえば御霊祭でやり残したことって何ですか。私にできるかな。
それから伍名様、日嗣様のところにもいらしているんですね。私のところにも、あれから時々様子を見にきてくれています。猿彦さんも、たくさん気遣ってくれて。
伍名様の影響でも、いいです。
だって、出会ったときとはもう違うから。
今の日嗣様にそんなふうに言ってもらえるなら、わたしはきっと淡島で一番幸せな巫女のはずです。
だからそのときは、あなたのその言葉にたくさん甘えさせてください。
あなたの思うまま、わたしを導いて下さい。
私をあなたの腕の中で、精一杯美しく、舞わせて下さい。
他のどの男神でもない、あなたにすべてを捧げられるなら、
きっと私も、満たされると思います。
きっとまた、体からも心からもあふれてしまうくらい満たされると思います。
変ですね。恥ずかしいのに、同じくらいうれしくてふわふわする。
こうして会えないことは悲しいけれど、不幸ではない気がするんです。
きっと、この時間もわたしたちには必要なものだったんだって。
お祭も、一緒に行けたら嬉しい。
儀式とは違うのだと童から聞きました。お囃子も神楽も、もっと騒がしいって。お店も出て賑やかで、たくさんの人が集まるから、きっと神様も村の人に混じって楽しむんだって。だから村人も、見たことがないお客さまをうんと喜ぶって。
秋のお祭で、私の黒い瞳が金色に染まるくらい日嗣様も満たされるなら、その黄金の大地はきっとたくさんの人に祝福されてあるんでしょうね。
だって、日嗣様は、稲穂の神様なのだから。
わたしもできるなら、次に来る夏はあなたと一緒に過ごしたい。
わたしがこちらに来た季節は、今度はどんなふうに移り変わっていくんでしょう。
雨の日も、晴れの日も、お天気雨の日も。それをここから一緒に見つめられたら、幸せです。
きっと世界で一番、幸せです。
***
神依へ。
お前が夜一人で読むと言うなら、俺ももっと好きに言葉を綴れる気がする。
お前は甘え下手だから、うんと甘やかせと伍名からも言われているしな。今度は、お前を包む褥が俺でないことを、もどかしく思う程の言葉を綴りたい。
あの櫛のことは本当にすまなかったと思うが、思えばあの時もそうだったな。
お前が恥じらっている姿を見ると、俺はどうにもお前に悪さをしたくなる。
それこそ、本当に童子のようなものなのだろうが、お前があんなことを書いて寄越すから仕方ない。彦が恋文は夜に書けと言っていた理由がようやくわかった。
けれどもお前の身に紅を差せる程の言葉を紡いでいたなら、俺の身の内にある想いも、きっともう収まり切らない程のものなのだと思う。
夢の中では、お前は俺に会えただろうか。
もしも会えたのなら、その俺はどれだけお前と語り、どれだけお前とじゃれあい、どれだけお前と睦んでいたのだろう。
夢の中の自分にさえ、嫉妬してしまう。
今願いが叶うなら、一日でいいからお前の禊と心だけ入れ替わりたい。あるいは彦の開いてくれる道に夢の通い路さえあれば、毎夜お前の夢に天降れるのに。
それにしても、あれが童女らに囲まれて渋い顔をしていたのはそういうことだったのだな。
ほほえましいというと嫌な顔をされるだろうが、ほほえましい。
本当は、俺はあれとも一度語り合いたいんだ。
俺が知らないお前のことを、俺しか知らないお前のことを、共に語り明かしたい。
俺では足りぬところをあれはきっと満たしてくれるし、あれに足りぬところはきっと俺が満たしてやれる。
そうしたら、お前はずっと、世界で一番幸せなままであれるだろう。
もちろん、お前を譲る気はないが。
だがそうすれば、今度は二人であれの幸せを願ってやれる。俺も神として、男として、あの男の献身に報いたい。それが果たせれば、きっと、また彦とは違った友になれると思う。
そして、そんなお前たちが俺を神として正しく顕していてくれたことには、心から感謝する。
お前が俺を見出だしてくれたのはいつのことなのだろう。思い返せば、御霊祭の前からお前の祈りは俺に一番近かったような気がするが。
ただどんな罪にまみれようと、幾ら時代を経て人々に忘れ去られようと、神としてあれることは俺たちには本当に幸いなことだ。
そして今、お前という巫女を得て、俺は更なる幸せを目前にしている。
そんなお前に辛い思いをさせるのは忍びない。けれど、本当にありがとう。
あの大きな子のことも。
そうだな。あれが初めて私とお前がつがいであることを認めてくれた神なのだから。
俺もお前と同じくらい、あれを想おう。
御霊祭でやり残したことも、実はあれに関係することなんだ。
斎水分神はもともと、別で祭るはずだったんだ。だからあれの神威を分けて、そちらにもう一つ、祠か社を建立したい。
お前が舞えば、きっとあれも喜ぶだろう。
ただ、やはり今は何よりお前のことが気掛かりでならない。
お前が強い娘であることは俺が一番知っている。けれど、同じくらい脆いことも知っている。
本当に辛いときは、またその気持ちをそのまま紙にしたためてほしい。俺にも、その苦しみを分けてほしい。
二人であるというのは、そういうことのはずだ。
約束してくれ。
そして、覚えていてほしい。今の俺に取っては、お前の涙さえも天から滴る甘露であることを。
それをみすみす、お前の袖や禊の胸に啜らせる訳にはいかない。
きっとその雫は、お前が綴ってくれた甘やかな言葉のどれよりも甘いだろうから。
だがお前のおかげで、俺はまた更に一人寝が辛くなりそうだ。
この頃は、大叔父上から遣わされている者たちさえ呆れているように見える。
しかしこの喜びは、今俺が唯一誇れることなのだから仕方ない。
今度はあの言葉の数々を、お前自身の唇で紡がせたい。お前が恥じらいながらあれを口にする様はどれほど愛らしく、またどれほど私を堕として虜にするのだろう。
そういえば、お前はよく菓子を食べていたな。
今度はその花砂糖のような唇で甘い言葉を練って、私に食ませてくれ。柔らかな飴のような舌を、私に含ませてくれ。
その頃には、お前も蜜のようにとろけて私の腕の中にあるだろう。
祭の夜に男と女が結ばれる。それはとても自然で、言祝ぐべきことなのだが、またこれでお前が頬を染め、身に狂おしい熱をこもらせるのなら私も嬉しい。
雪が降る日ならばその熱を分け、蝉が鳴く頃ならばその熱を宙に充たそう。
ああ、気付いたらいつもより紙が長くなっていた。
こうしていると、お前とやりたいことがどんどん増えていって切りがない。神依、お前はどれだけ俺の願いを叶えてくれるだろう。
お前と過ごす細やかな日常が、今の俺の願うものすべてだ。
また縁側で語り合おう。
またこっそり夜に出掛けよう。
また星を見よう。
たまにはこちらから猿彦のところに出向いて、釣り竿でも垂らすか。お前は雲海で泳ぐ方が好きかもしれんが、帰りはまた俺の衣を奪うといい。俺も喜んで、お前に献上してやる。
お前のしもべたちにも、何かしてやれることがあればいいのだが。童には一つ、手本に良い勾玉をやってもいいな。
あの禊には、きっと何よりもお前と二人で在る時間が喜ばれる気もするが、それは俺が嫌だから、何か二人で考えよう。
お前とは、甘い酒が飲めるならそれでいい、一緒に盃を交わしたい。
そしてできるなら、今度は髪を結わせてほしい。甲斐甲斐しくお前の髪をとき、美しく結い上げて、お前が至福の内に柔らかくそれを乱したい。
後は、そうだな。
それから……
***
だが、雪が里に降りてくる頃になっても、日嗣の謹慎は解けなかった。
それは神依にも日嗣にも残念なことだったが、それでも二人は文を交わし続けた。
その頃になると、日嗣の綴るものは神依をからかって遊んでいるように色めいた文言を増やしていたが、神依は神依でそれに怒ったふりをして跳ね返す楽しさも覚えていた。
けれども時にはありのまま、純な想いを確認し合って。素直に心を晒せば、相手からはよりいっそう澄んだ心がもたらされた。
そしてそれがあったからこそ、神依は進貢も続けていた。
「――神依、今日も気をつけてな」
「はい。ありがとうございます、鼠軼様」
「うむ……」
しかし、その日も鼠軼はいささか不安そうに神依を見上げ、進貢へと送り出す。その傍らにはやはり鼠英が控え、ヒビの入った神威の珠に目を落としていた。
家と家主に与えられる加護は確実に薄れている。鼠英の目にも、神依にまとわりつく黒い靄のようなものが視えていた。
今日は珍しく早起きした子龍も一緒だったが、やはりそれを追い払うように小さな手で宙をかいている。
だがそうして地に落ちたそれは、なおうぞうぞと気色悪く蠢いて、神依の足跡を辿るように後をついていった。
国津神たちも折りを見て密かに祓ってはいたが、それは無尽蔵に人の深奥から湧き続ける。
「――…して? なんであればっかり」
「よっぽど……じゃない。それで男をたぶらかしてるの」
「……よね、……最低」
「穢いのよ……本当に、」
男に吸い付く女蛭。
水の流れに、梢のざわめきに混じって聞こえる中傷は、もはや日課になっているように巫女たちの唇からこぼれ、神依の頬をかすめていった。
禊が傍らに立ちなるべくその頬を人目に晒さぬよう気を配ってはいたが、空気に混ぜられた毒までは振り払えない。水の森はただ神依への嫉妬と誹謗中傷を交わす間ともなり、これが日没まで繰り返されているのかと思えば斎水別神にも申し訳なくなってしまう。
そしてそこには、直接手を下せない憤りも、下さない卑劣さも織り交ぜられていた。
それからさらに数日が経つと、禊にはもう一つ目につくことが出てきていた。
「……?」
巫女の多くが同じ赤い花を捧げ始め、日に日にあの花の台座が赤く染まっていく。
あふれて川に落ちていく花弁はまるで血のようで、神依さえそれに気付いて不安に瞳を揺らすほどだった。
乾かない傷から滴る鮮血。
それは溶けることなく流れる水の上をたゆたい、花藻を摘む神依の腕に貼り付いては、底にいざなうよう日々うずを描いていた。
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