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第15章 白日の下
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その日の空は、薄い水の色をしていた。
空も、雲海も、布越しの光のような淡い雲をうっすらと湛え、どこかからひとつふたつと雪が舞っている。
雲海の上を光と影が滑り、その雪の粒は光の中いっそう白く輝いて波間に溶けていく。静かな日だった。
***
そしてそれは神依たちの住む小島も変わらず――この季節になっても緑葉を湛えたままの竹林には、葉擦れの音だけがさらさらと流れていた。
そこに木霊し始める、トントンと木を叩く小気味よい音。
その竹林の奥まった場所では、見物の神依と子龍、そして禊を伴って、何人かの匠たちが小さな祠を造っていた。
もともとは神依たちよりも童が一番に熱心だったが、怪我が完治してからは禊の言いつけで働きに出て生活の流れを戻している。神依のことで童同士の関係も多少は変わるだろうが、慣れた仕事や環境を長い間失うと、その腕が劣化することも禊は知っていた。才ある弟の能力を衰えさせないよう、なるべく早く玉造の匠の元に戻した方が良いという配慮でもあったが、元より何かを造ることが好きだった童は、家にいる間は自ら率先してこの匠たちと土を盛り、石を積んで小石を流しては土台造りを進めてくれていた。
その小さな石の山の頂へ今日、ようやく一抱えほどの木製の社が建つのだ。
初日は伍名が立ち会って、土地と人の祓えを行っていた。その国津神の長とも親しげに言葉を交わし、天津神の寵愛を頬に刻まれた噂の巫女に、職人たちもはじめは恐れ畏まっていたが、当の本人が気安く茶を振る舞ってくれたり、飽きもせず作業を眺めては興味を持っていろいろと問うてくれるものだから、いつしか自然と打ち解けていった。
何より自分たちと同じように、ものづくりの道を選ぼうとしている子供を可愛がって大事にしてくれていたことが、純粋に嬉しかった。
作業は午前のうちに終わり、禊が規定の禄を支払うと、神依はまた最後のもてなしとして上等な酒と山海の珍味を持たせた。それは自分の茶々にも嫌な顔をせず相手をしてくれた礼でもあったが、匠たちはそれ以上に低く頭を下げ、何度も礼を言いながら小島を後にした。
「――喜んでもらえてよかった。禊も、いろいろ準備してくれてありがとうね」
「神依様のお気持ちが伝わったのでしょう。よろしゅうございました」
「うん。そうだ、正式にお祭りするときは、あの人たちもお招きしたらどうかな。伍名様なら構わないよって仰ってくれると思うの」
「そうですね……小さいながらも、自らが携わった社に名を持つ神が宿るとなれば匠たちにも栄誉となります。きっとお喜びになるでしょう」
話しながら、仕上げとして神依が真新しい白磁の器や榊を祠の前に並べていく。酒を注ぐと子龍が分け前にあずかろうと盃に首を伸ばすので、手のひらを丸くして少しだけ注いでやった。
「あなたも早く大きくなって、立派な川や池の神様になれるといいね」
しかし子龍はぎょっとしたように顔を上げると、いやいやと首を横に振って庭池の方を示す。それに神依は呆れたように、禊は親愛の念を持って笑った。離れたくない気持ちは、禊にはとても理解できる。そして子龍もすでに池の鯉を掌握し主としてあったが、鯉からの信仰はいかばかりか。
そうしてようやくお披露目の場に案内された祠の主――幼い兎神は、まだ兄弟たちの誰もが持たない、自分だけに造られた新しい住み処を見るなり嬉しそうに二人の周りを跳ね回った。
「いかがでしょうか。今よりなおお健やかにご成長あそばせて、正式に祭り奉るまでは今しばらくの時が必要かとは存じますが――ひとまず、お住まいになるぶんにはよろしいのではないかと」
「……!」
「ふふ、喜んでるみたい。――わっ!?」
兎神は禊に応えるように一瞬その姿を陽炎のように変え、勢いよく地面を蹴って宙に浮く。そのまま木の社の中に吸い込まれるようにして消えてしまい、それを見た神依はすっとんきょうな声を上げ、それから再び静まり返った空気の中で禊を見上げた。
「やっぱり小さくても神様なんだね。……覗いちゃだめ?」
「当然です。外側はただの木製の社ですが、一度神がお入りになって後は内側――さらにその向こうの領域まで、もはや人のものではありません。鼠軼様の祠と同じようにお参りなさってください。念のため藁もお持ちいたしますが、兎神様もお住まいになりやすいよう、自らの神威で奥の場を整えていらっしゃるでしょう」
「そ、そうなんだ……」
そう言われてしまうと、なおさら月読に破壊された祠のことが悔やまれる。神依には神の御技の仕組みなど知る術もなかったが、社や祠を傷付けることがどれほど罪深いことなのかはわかった。
その祠も匠たちの手によって形だけは修復されていたが、きっと奥ではまだ鼠軼らが同じように何かを造っているのだろう。
「……神依様。私たちにできることはよりいっそうの信仰を捧げ、その神威の回復を願うことばかりです。どうぞ貴女様は巫女として、その神たる魂が和やかになるよう、今まで以上に鼠軼様、鼠英様とお言葉を交わして差し上げてください。そのためにはまず、貴女に笑んでいただかないと」
「……うん」
「この後はいかがなさいますか」
不意に問われて、神依は慌てて顔を上げる。
「わたし、おととい染めた糸を見てくる。あとは部屋にいるから禊も好きにして。童がね、紙やすりでも磨けるやわらかい石をくれたの! わたしも勾玉を造るんだ」
「でしたら、後でお茶と何か甘いものをお持ちします。もう少ししたら奥社の全体神事も多くなってまいりますし、神依様にも巫女として務めていただかなければならない支度がございますので、それまではゆるゆるとお過ごしください」
「神事? 支度って、何するの?」
「年越しと新年を迎える準備です。奥社の方はまだ並んであるだけで結構ですが、我が家では神依様が中心になっていただかないと。特にこちらは、屋敷神様のあらせられる家ですから」
「そっか、でもなんか楽しそう! またいろいろ教えてね」
「はい」
そうして神依は最後に新しい祠に向かって一礼すると、再び禊を伴い家屋の方へと足を向ける。玄関近くには空瓶を置く木箱があり、神依はちょうど空になった酒瓶をそこに並べた。
「また詰め直してもらいにまいりますね」
「うん、お願い。禊はあと何するの?」
「私は、寒さに弱い庭木に藁を掛けてあげないといけませんので。あとは一ノ弟が戻りましたら――」
「み――神依!!」
「? 鼠軼様?」
何か慌てた様子の鼠軼が駆けてきたのは、そのときだった。
神依と禊は顔を見合わせ、庭の方へ向かい鼠軼を迎える。
「鼠軼様」
「いかがなさいました」
神依は慌てて鼠軼を手に乗せ立ち上がる。小さな鼠神は焦燥に息を荒げ、肩を上下させて老体を揺らしていた。神依が労るように指先で背をなでれば、鼠軼は少し落ち着いたようにゴクリと息を呑み、しかしすぐに切羽詰まった様子で――声を張り上げた。
「早う――早うどこかへ身を隠すのじゃ!! 鼠英と蜘蛛神はもう隠した、龍の子よ、お主もはよ水に紛れよ!」
「え――」
まるで何かを威嚇するように全身の毛を硬くして歯を剥き出す様は、普段の鼠軼からは考えられず、子龍は鼠軼の手の動きとともに弾かれたように神依の腕から跳びそのまま池に落ちる。
神依と禊もあまりに尋常ではない鼠軼の振る舞いに、その空気を変え目配せを交わした。
雲海も浮島も、庭から見える景色は何も変わらず長閑な様ではあったが――しかし禊には、何か神にしか感知できない災禍が近づいているのだとすぐに察せられた。
その瞬間頭に過ったのは月読の一件で、禊は慌てて神依の肩を抱くと庭の奥へと進む。
(しかし――)
しかし身を隠すにも、ここは家と庭があるだけの小さな孤島。神依一人隠すにも奥には風呂しかないし、家ではそれこそ稚児の遊びと変わらない程度の場所しかない。
辺りを見回し逡巡している禊に、いまだ状況が理解できていない神依はうろたえながら手のひらに乗る鼠軼を見る。鼠軼はまじないを唱えるように何事かを呟き、尾に巻いていた珠を強く抱きしめていた。
「鼠軼様……一体なにが……」
「――来てはならぬ……来てはならぬ……。絶対に来てはならぬ者が、淡島からこちらに向かっておる……儂の言霊など効かぬ――。あれは――」
「……え?」
しかし必死で紡がれていた言葉はなかばで途切れ、……その後すぐ、何が起きたか神依にはわからず、ただ呆然とその場に固まった。
「……み……そぎ」
「っ……」
自身の手の上で、何が起きたのか――神依の頭は見たものを見たままに理解することを、瞬間的に拒んでしまった。
――だって、こんなことはありえない。ありえないのだから。
これは現実ではなくきっと悪い夢を見ているのだとそう告げてほしくて、いつものように傍らにいた従者にそれを求めて、理解することから逃避した。
しかし禊すらそれを見た瞬間に思考が凍り、何をも言葉に表すことはできなかった。
先程、子龍に酒を注いであげていたときと同じように丸くしていた手のひらに溜まる、黒い塵の山。
鼠軼の小さな体は瞬時に白い炎にまかれて干物のようにひしゃげ、断末魔の叫びを上げる間すらなく、尾に巻いた珠ともども黒い塵となって神依の手に崩れ落ちてしまった。
やがて一粒の雪を乗せた風が、その鼠軼だったものを神依の手からはらはらと浚っていく。
「――あ――あぁぁ」
「神依様――」
神依は消えていく塵の山を眺め、留めることも振り払うこともできず喉を震わせる。最後に残ったのは、手の深い皺に入り込んだ塵だけ。
歳を重ねた手のような、固さを帯びた白い毛の感触も、ほんわりとした生命のぬくもりも、もうそこにはない。小さくてもその神たる威を誇るかのようにあった長い髭、そして珠を巻いた細長い、器用に動く尻尾ももう見られない。まるで孫に接するかのように優しく目を細め、たくさんのことを教えてくれたその神はもういない。神依の前で一瞬で黒い塵となって、その焼かれた臭いすら残さず消えてしまった。
死んでしまった。
そしてようやくそれを理解した神依は、
「――いやあぁぁっ!! あああぁぁ!! 鼠軼様あっ、鼠軼様ぁあっ!!」
ただ、叫んだ。それをすれば、再び思い描いた姿で鼠軼が蘇るとでも言わんばかりに残った塵を両手で守り、絶叫した。
「神依様――」
そのまま地に崩れ落ちる神依を支える禊でさえ青ざめた顔色で、祠が破壊される以上のただならぬ事態にもはや思考することさえままならず、自身もまた神依の存在を拠り所にその体を支えていた。それがなかったらおそらく身動ぎすらできないほどの、瞬きの惨事だった。
そして顔を真っ青にしてがくがくと体を震わせ、牡丹雪のような涙をこぼしながら己の手を眺め声を上げる神依に、禊はきつく歯を噛みむりやりその手を下ろさせる。
「やめてぇッ! 鼠軼様――鼠軼様が落ちちゃう――!!」
「落ち着いて……落ち着いてください、神依様……」
「だって……だって!! なんで……どうしてこんなっ!! あああぁぁっ!」
塵は土に紛れ、しかし神依はそれを追い、かき集めるかのように地に伏せて泣きじゃくった。
鼠軼が自分の手の上で瞬きの間に死んでしまったこと、それを目の当たりにしてしまったこと――それは頭で、出来事として理解できても心が処理をしてくれない。
混線したまま、その線を掻きむしって引き剥がすかのように喚く神依の元に、しかしそれをぱっつりと裁ち切る声が割り入ったのは……それからすぐのことだった。
「――なんとも、やかましい娘よのぅ」
「……ッ!? ……?」
神依の頭上から降ってきたその声と声色は、この凄惨たる状況においてはあまりに似つかわしくない……まるでコルリがさえずるような、高く、愛らしいもの。
最近あの秘密の社で聞いたような、少しおませな女の子の声によく似ており――さらにわけがわからなくなった神依は、禊に続いて、おそるおそる顔を上げた。
「だ……だれ……?」
「ほう、わらわに平然と口を利くか。さすが、小うるさい鼠の巫女なだけはある。獣も人も、地を這いずるだけの四つ足が神を名乗るなど――おこがましいにも程があろうに」
そう言いながらにこりと笑むのは、やはり子供。
少女――否、童女と言っても過言ではない。気位の高そうな、一人の童女だった。
呆けたように問う神依に、童女は小馬鹿にするようにくすくす笑ってその細い肩を揺らす。しかしそんなたちの悪い振る舞いの中にあっても、その童女はいかな我儘をも押し通せるような、存分の可愛らしさを持ち合わせていた。
ぱっちりと丸い目、人形のようにちょんとある鼻も愛らしい。悪戯そうに笑む小さな唇にも円やかな頬にも子供ながらに紅が差され、まるで水蜜桃のよう。この童女が大人になったらきっと一つの笑みと涙だけで男を突き崩し国を追い込むような、絶世の美女になるに違いなかった。
そして子供特有の艶のある黒髪には、赤や緋の織物紐と金細工の、小さいながらも凝った作りの飾りが結ばれ、その頬をくすぐっている。纏う着物も見るからに上等な、織り目の詰まった布を存分に重ね、余らせ……その柄も、この冬野の中、春と夏と秋を一人占めして織らせたような、鮮やかな花々が繚乱する豪奢なものだった。
またその背後には裳裾の如く、多くの巫女やその禊を引き連れており……その集団の異様なまでに圧倒的で好戦的な雰囲気を感じ取った禊は、ただ神依を背にかばうことしかできず絶句した。
背後に付き従う巫女たちは皆、嫉妬や憎悪、そして嘲笑の念を瞳に宿して、それをこちらに向けるに何のためらいもない。
ともにある禊たちは……様々だったが、禊にはそのあらゆる感情が理解できて、しかしだからこそ、自身が背に纏う少女を晒すわけにはいかなかった。
事態を飲み込めない――場慣れしていない神依だけが置いてきぼりをくらったまま、空気を壊して口を開く。
「……だれ? なんで……どうして、こんなこと……っ!」
「およし」
しかしそれを制止したのもまた、思いもよらない人物だった。巫女たちの垣根が割れ、その間から悠然と前に歩み出たその人物は、やはりひときわ美しく、気高くあって、芯の通った声で神依に語りかける。
「――およし、神依。この御前は、お前など端の巫女が気安く口を利いていいお方ではない」
「あっ……! ……?」
聞き慣れた声に、強張った表情を一度はほころばせる神依。
その声の持ち主はいつだって自分を嬉しそうに迎えてくれて、優しく寄り添い、穏やかに、また真摯にたくさんのことを語りかけてくれた。美しいばかりではなく聡明で、だから今起こっている何もかもを、どうにかしてくれるのではないかと思った。
記憶にはない、けれど母のように。
だから神依は嬉しさから思わず立ち上がりかけて、けれども次の瞬間には、その母とも慕った女性から刃のように鋭い眼差しを浴びせられ、その姿勢のまま固まってしまった。
気位の高そうな童女の傍らにひかえた女性は無言のまま、凍みた瞳で戸惑う神依を見下ろす。
しかし神依には、それが信じられない。あの美しい瑠璃杯を見せてくれたときのような、頬を抱いてくれたときのような、語りかけてくれたときのような、頭をなでてくれたときのような、……今目の前に立つ女性は、あらゆる記憶の中で笑むその女性と姿形は同じなはずなのに、何か違うものの心と魂を放り込んで閉ざし、造られたもののようだった。
「洞主……様……?」
だけれどそんなはずはないと、神依は悪さをした子が母を窺うような眼差しと声音とで、確かめるようにその存在を口にする。
もう、何度もそうして呼びかけてきた。そのたびに彼女は笑んで、迎えてくれた。
けれども洞主……否、玉衣は何か穢らわしいものでも見るかのように顔をしかめ袖で口元を隠すと、その切れ長の目をいっそう吊り上げて、冷酷な瞳を神依に向けてきた。
(……どうして)
それでみるみる表情を変えた神依に、童女が性悪な笑みを深める。そして周りにいた巫女たちも倣うように、その美しい花顔を歪め、嗤う。
繚乱する花群れと鋭利な葉。
咲う女たちを従えた玉衣はさながら、花に引き寄せられた人の手を裂き血を滴らせるような、割れた色硝子でできた葉のようだった。
もう神依を想ったりしない。絶対にしない。そしてそれを顕示するかのように――
(どうして……それを)
――玉衣は神依がいつか見たあの若穂色の衣――日嗣の衣を纏い、まるで今しがたその男との情交を果たしてきたかのように日嗣の香りを匂わせて、そこにあった。
空も、雲海も、布越しの光のような淡い雲をうっすらと湛え、どこかからひとつふたつと雪が舞っている。
雲海の上を光と影が滑り、その雪の粒は光の中いっそう白く輝いて波間に溶けていく。静かな日だった。
***
そしてそれは神依たちの住む小島も変わらず――この季節になっても緑葉を湛えたままの竹林には、葉擦れの音だけがさらさらと流れていた。
そこに木霊し始める、トントンと木を叩く小気味よい音。
その竹林の奥まった場所では、見物の神依と子龍、そして禊を伴って、何人かの匠たちが小さな祠を造っていた。
もともとは神依たちよりも童が一番に熱心だったが、怪我が完治してからは禊の言いつけで働きに出て生活の流れを戻している。神依のことで童同士の関係も多少は変わるだろうが、慣れた仕事や環境を長い間失うと、その腕が劣化することも禊は知っていた。才ある弟の能力を衰えさせないよう、なるべく早く玉造の匠の元に戻した方が良いという配慮でもあったが、元より何かを造ることが好きだった童は、家にいる間は自ら率先してこの匠たちと土を盛り、石を積んで小石を流しては土台造りを進めてくれていた。
その小さな石の山の頂へ今日、ようやく一抱えほどの木製の社が建つのだ。
初日は伍名が立ち会って、土地と人の祓えを行っていた。その国津神の長とも親しげに言葉を交わし、天津神の寵愛を頬に刻まれた噂の巫女に、職人たちもはじめは恐れ畏まっていたが、当の本人が気安く茶を振る舞ってくれたり、飽きもせず作業を眺めては興味を持っていろいろと問うてくれるものだから、いつしか自然と打ち解けていった。
何より自分たちと同じように、ものづくりの道を選ぼうとしている子供を可愛がって大事にしてくれていたことが、純粋に嬉しかった。
作業は午前のうちに終わり、禊が規定の禄を支払うと、神依はまた最後のもてなしとして上等な酒と山海の珍味を持たせた。それは自分の茶々にも嫌な顔をせず相手をしてくれた礼でもあったが、匠たちはそれ以上に低く頭を下げ、何度も礼を言いながら小島を後にした。
「――喜んでもらえてよかった。禊も、いろいろ準備してくれてありがとうね」
「神依様のお気持ちが伝わったのでしょう。よろしゅうございました」
「うん。そうだ、正式にお祭りするときは、あの人たちもお招きしたらどうかな。伍名様なら構わないよって仰ってくれると思うの」
「そうですね……小さいながらも、自らが携わった社に名を持つ神が宿るとなれば匠たちにも栄誉となります。きっとお喜びになるでしょう」
話しながら、仕上げとして神依が真新しい白磁の器や榊を祠の前に並べていく。酒を注ぐと子龍が分け前にあずかろうと盃に首を伸ばすので、手のひらを丸くして少しだけ注いでやった。
「あなたも早く大きくなって、立派な川や池の神様になれるといいね」
しかし子龍はぎょっとしたように顔を上げると、いやいやと首を横に振って庭池の方を示す。それに神依は呆れたように、禊は親愛の念を持って笑った。離れたくない気持ちは、禊にはとても理解できる。そして子龍もすでに池の鯉を掌握し主としてあったが、鯉からの信仰はいかばかりか。
そうしてようやくお披露目の場に案内された祠の主――幼い兎神は、まだ兄弟たちの誰もが持たない、自分だけに造られた新しい住み処を見るなり嬉しそうに二人の周りを跳ね回った。
「いかがでしょうか。今よりなおお健やかにご成長あそばせて、正式に祭り奉るまでは今しばらくの時が必要かとは存じますが――ひとまず、お住まいになるぶんにはよろしいのではないかと」
「……!」
「ふふ、喜んでるみたい。――わっ!?」
兎神は禊に応えるように一瞬その姿を陽炎のように変え、勢いよく地面を蹴って宙に浮く。そのまま木の社の中に吸い込まれるようにして消えてしまい、それを見た神依はすっとんきょうな声を上げ、それから再び静まり返った空気の中で禊を見上げた。
「やっぱり小さくても神様なんだね。……覗いちゃだめ?」
「当然です。外側はただの木製の社ですが、一度神がお入りになって後は内側――さらにその向こうの領域まで、もはや人のものではありません。鼠軼様の祠と同じようにお参りなさってください。念のため藁もお持ちいたしますが、兎神様もお住まいになりやすいよう、自らの神威で奥の場を整えていらっしゃるでしょう」
「そ、そうなんだ……」
そう言われてしまうと、なおさら月読に破壊された祠のことが悔やまれる。神依には神の御技の仕組みなど知る術もなかったが、社や祠を傷付けることがどれほど罪深いことなのかはわかった。
その祠も匠たちの手によって形だけは修復されていたが、きっと奥ではまだ鼠軼らが同じように何かを造っているのだろう。
「……神依様。私たちにできることはよりいっそうの信仰を捧げ、その神威の回復を願うことばかりです。どうぞ貴女様は巫女として、その神たる魂が和やかになるよう、今まで以上に鼠軼様、鼠英様とお言葉を交わして差し上げてください。そのためにはまず、貴女に笑んでいただかないと」
「……うん」
「この後はいかがなさいますか」
不意に問われて、神依は慌てて顔を上げる。
「わたし、おととい染めた糸を見てくる。あとは部屋にいるから禊も好きにして。童がね、紙やすりでも磨けるやわらかい石をくれたの! わたしも勾玉を造るんだ」
「でしたら、後でお茶と何か甘いものをお持ちします。もう少ししたら奥社の全体神事も多くなってまいりますし、神依様にも巫女として務めていただかなければならない支度がございますので、それまではゆるゆるとお過ごしください」
「神事? 支度って、何するの?」
「年越しと新年を迎える準備です。奥社の方はまだ並んであるだけで結構ですが、我が家では神依様が中心になっていただかないと。特にこちらは、屋敷神様のあらせられる家ですから」
「そっか、でもなんか楽しそう! またいろいろ教えてね」
「はい」
そうして神依は最後に新しい祠に向かって一礼すると、再び禊を伴い家屋の方へと足を向ける。玄関近くには空瓶を置く木箱があり、神依はちょうど空になった酒瓶をそこに並べた。
「また詰め直してもらいにまいりますね」
「うん、お願い。禊はあと何するの?」
「私は、寒さに弱い庭木に藁を掛けてあげないといけませんので。あとは一ノ弟が戻りましたら――」
「み――神依!!」
「? 鼠軼様?」
何か慌てた様子の鼠軼が駆けてきたのは、そのときだった。
神依と禊は顔を見合わせ、庭の方へ向かい鼠軼を迎える。
「鼠軼様」
「いかがなさいました」
神依は慌てて鼠軼を手に乗せ立ち上がる。小さな鼠神は焦燥に息を荒げ、肩を上下させて老体を揺らしていた。神依が労るように指先で背をなでれば、鼠軼は少し落ち着いたようにゴクリと息を呑み、しかしすぐに切羽詰まった様子で――声を張り上げた。
「早う――早うどこかへ身を隠すのじゃ!! 鼠英と蜘蛛神はもう隠した、龍の子よ、お主もはよ水に紛れよ!」
「え――」
まるで何かを威嚇するように全身の毛を硬くして歯を剥き出す様は、普段の鼠軼からは考えられず、子龍は鼠軼の手の動きとともに弾かれたように神依の腕から跳びそのまま池に落ちる。
神依と禊もあまりに尋常ではない鼠軼の振る舞いに、その空気を変え目配せを交わした。
雲海も浮島も、庭から見える景色は何も変わらず長閑な様ではあったが――しかし禊には、何か神にしか感知できない災禍が近づいているのだとすぐに察せられた。
その瞬間頭に過ったのは月読の一件で、禊は慌てて神依の肩を抱くと庭の奥へと進む。
(しかし――)
しかし身を隠すにも、ここは家と庭があるだけの小さな孤島。神依一人隠すにも奥には風呂しかないし、家ではそれこそ稚児の遊びと変わらない程度の場所しかない。
辺りを見回し逡巡している禊に、いまだ状況が理解できていない神依はうろたえながら手のひらに乗る鼠軼を見る。鼠軼はまじないを唱えるように何事かを呟き、尾に巻いていた珠を強く抱きしめていた。
「鼠軼様……一体なにが……」
「――来てはならぬ……来てはならぬ……。絶対に来てはならぬ者が、淡島からこちらに向かっておる……儂の言霊など効かぬ――。あれは――」
「……え?」
しかし必死で紡がれていた言葉はなかばで途切れ、……その後すぐ、何が起きたか神依にはわからず、ただ呆然とその場に固まった。
「……み……そぎ」
「っ……」
自身の手の上で、何が起きたのか――神依の頭は見たものを見たままに理解することを、瞬間的に拒んでしまった。
――だって、こんなことはありえない。ありえないのだから。
これは現実ではなくきっと悪い夢を見ているのだとそう告げてほしくて、いつものように傍らにいた従者にそれを求めて、理解することから逃避した。
しかし禊すらそれを見た瞬間に思考が凍り、何をも言葉に表すことはできなかった。
先程、子龍に酒を注いであげていたときと同じように丸くしていた手のひらに溜まる、黒い塵の山。
鼠軼の小さな体は瞬時に白い炎にまかれて干物のようにひしゃげ、断末魔の叫びを上げる間すらなく、尾に巻いた珠ともども黒い塵となって神依の手に崩れ落ちてしまった。
やがて一粒の雪を乗せた風が、その鼠軼だったものを神依の手からはらはらと浚っていく。
「――あ――あぁぁ」
「神依様――」
神依は消えていく塵の山を眺め、留めることも振り払うこともできず喉を震わせる。最後に残ったのは、手の深い皺に入り込んだ塵だけ。
歳を重ねた手のような、固さを帯びた白い毛の感触も、ほんわりとした生命のぬくもりも、もうそこにはない。小さくてもその神たる威を誇るかのようにあった長い髭、そして珠を巻いた細長い、器用に動く尻尾ももう見られない。まるで孫に接するかのように優しく目を細め、たくさんのことを教えてくれたその神はもういない。神依の前で一瞬で黒い塵となって、その焼かれた臭いすら残さず消えてしまった。
死んでしまった。
そしてようやくそれを理解した神依は、
「――いやあぁぁっ!! あああぁぁ!! 鼠軼様あっ、鼠軼様ぁあっ!!」
ただ、叫んだ。それをすれば、再び思い描いた姿で鼠軼が蘇るとでも言わんばかりに残った塵を両手で守り、絶叫した。
「神依様――」
そのまま地に崩れ落ちる神依を支える禊でさえ青ざめた顔色で、祠が破壊される以上のただならぬ事態にもはや思考することさえままならず、自身もまた神依の存在を拠り所にその体を支えていた。それがなかったらおそらく身動ぎすらできないほどの、瞬きの惨事だった。
そして顔を真っ青にしてがくがくと体を震わせ、牡丹雪のような涙をこぼしながら己の手を眺め声を上げる神依に、禊はきつく歯を噛みむりやりその手を下ろさせる。
「やめてぇッ! 鼠軼様――鼠軼様が落ちちゃう――!!」
「落ち着いて……落ち着いてください、神依様……」
「だって……だって!! なんで……どうしてこんなっ!! あああぁぁっ!」
塵は土に紛れ、しかし神依はそれを追い、かき集めるかのように地に伏せて泣きじゃくった。
鼠軼が自分の手の上で瞬きの間に死んでしまったこと、それを目の当たりにしてしまったこと――それは頭で、出来事として理解できても心が処理をしてくれない。
混線したまま、その線を掻きむしって引き剥がすかのように喚く神依の元に、しかしそれをぱっつりと裁ち切る声が割り入ったのは……それからすぐのことだった。
「――なんとも、やかましい娘よのぅ」
「……ッ!? ……?」
神依の頭上から降ってきたその声と声色は、この凄惨たる状況においてはあまりに似つかわしくない……まるでコルリがさえずるような、高く、愛らしいもの。
最近あの秘密の社で聞いたような、少しおませな女の子の声によく似ており――さらにわけがわからなくなった神依は、禊に続いて、おそるおそる顔を上げた。
「だ……だれ……?」
「ほう、わらわに平然と口を利くか。さすが、小うるさい鼠の巫女なだけはある。獣も人も、地を這いずるだけの四つ足が神を名乗るなど――おこがましいにも程があろうに」
そう言いながらにこりと笑むのは、やはり子供。
少女――否、童女と言っても過言ではない。気位の高そうな、一人の童女だった。
呆けたように問う神依に、童女は小馬鹿にするようにくすくす笑ってその細い肩を揺らす。しかしそんなたちの悪い振る舞いの中にあっても、その童女はいかな我儘をも押し通せるような、存分の可愛らしさを持ち合わせていた。
ぱっちりと丸い目、人形のようにちょんとある鼻も愛らしい。悪戯そうに笑む小さな唇にも円やかな頬にも子供ながらに紅が差され、まるで水蜜桃のよう。この童女が大人になったらきっと一つの笑みと涙だけで男を突き崩し国を追い込むような、絶世の美女になるに違いなかった。
そして子供特有の艶のある黒髪には、赤や緋の織物紐と金細工の、小さいながらも凝った作りの飾りが結ばれ、その頬をくすぐっている。纏う着物も見るからに上等な、織り目の詰まった布を存分に重ね、余らせ……その柄も、この冬野の中、春と夏と秋を一人占めして織らせたような、鮮やかな花々が繚乱する豪奢なものだった。
またその背後には裳裾の如く、多くの巫女やその禊を引き連れており……その集団の異様なまでに圧倒的で好戦的な雰囲気を感じ取った禊は、ただ神依を背にかばうことしかできず絶句した。
背後に付き従う巫女たちは皆、嫉妬や憎悪、そして嘲笑の念を瞳に宿して、それをこちらに向けるに何のためらいもない。
ともにある禊たちは……様々だったが、禊にはそのあらゆる感情が理解できて、しかしだからこそ、自身が背に纏う少女を晒すわけにはいかなかった。
事態を飲み込めない――場慣れしていない神依だけが置いてきぼりをくらったまま、空気を壊して口を開く。
「……だれ? なんで……どうして、こんなこと……っ!」
「およし」
しかしそれを制止したのもまた、思いもよらない人物だった。巫女たちの垣根が割れ、その間から悠然と前に歩み出たその人物は、やはりひときわ美しく、気高くあって、芯の通った声で神依に語りかける。
「――およし、神依。この御前は、お前など端の巫女が気安く口を利いていいお方ではない」
「あっ……! ……?」
聞き慣れた声に、強張った表情を一度はほころばせる神依。
その声の持ち主はいつだって自分を嬉しそうに迎えてくれて、優しく寄り添い、穏やかに、また真摯にたくさんのことを語りかけてくれた。美しいばかりではなく聡明で、だから今起こっている何もかもを、どうにかしてくれるのではないかと思った。
記憶にはない、けれど母のように。
だから神依は嬉しさから思わず立ち上がりかけて、けれども次の瞬間には、その母とも慕った女性から刃のように鋭い眼差しを浴びせられ、その姿勢のまま固まってしまった。
気位の高そうな童女の傍らにひかえた女性は無言のまま、凍みた瞳で戸惑う神依を見下ろす。
しかし神依には、それが信じられない。あの美しい瑠璃杯を見せてくれたときのような、頬を抱いてくれたときのような、語りかけてくれたときのような、頭をなでてくれたときのような、……今目の前に立つ女性は、あらゆる記憶の中で笑むその女性と姿形は同じなはずなのに、何か違うものの心と魂を放り込んで閉ざし、造られたもののようだった。
「洞主……様……?」
だけれどそんなはずはないと、神依は悪さをした子が母を窺うような眼差しと声音とで、確かめるようにその存在を口にする。
もう、何度もそうして呼びかけてきた。そのたびに彼女は笑んで、迎えてくれた。
けれども洞主……否、玉衣は何か穢らわしいものでも見るかのように顔をしかめ袖で口元を隠すと、その切れ長の目をいっそう吊り上げて、冷酷な瞳を神依に向けてきた。
(……どうして)
それでみるみる表情を変えた神依に、童女が性悪な笑みを深める。そして周りにいた巫女たちも倣うように、その美しい花顔を歪め、嗤う。
繚乱する花群れと鋭利な葉。
咲う女たちを従えた玉衣はさながら、花に引き寄せられた人の手を裂き血を滴らせるような、割れた色硝子でできた葉のようだった。
もう神依を想ったりしない。絶対にしない。そしてそれを顕示するかのように――
(どうして……それを)
――玉衣は神依がいつか見たあの若穂色の衣――日嗣の衣を纏い、まるで今しがたその男との情交を果たしてきたかのように日嗣の香りを匂わせて、そこにあった。
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