恋いろ神代記~縁離の天孫と神結の巫女~

嘉月まり

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第15章 白日の下

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 神依は不自然な体勢のまま、呆然と玉衣を見上げる。涙はいつの間にか止まり、知らないうちに喉や唇が乾いていた。
 想いを通わせていた男神の衣を、別の女が纏っている――その事実に頭の中が灼けついて、なのにひやりと冷たいものが流れた気がした。
 しかもその女性は、母のように思って信頼を寄せていた女性。この淡島の中にあって、唯一神依を慈しんでくれた女性であった。
 ただ目の前には禊が立ちはだかって、その女性と自分を隔てている。あんなにも心安く、あんなにも優しくあったはずの女性から、自分を遠ざけようとしている。
 それは、もう、明らかな決別だった。
 一方で、禊はその女と背後にひかえる巫女や禊たちの想いを正しく理解し、何が起きるか、自分がどうなるか知った上で、自身の主であり――想い人である少女を護るよう、それだけを心の軸に彼女たちの前に立ちはだかっていた。
 かつて慕った兄はもはや、生気を宿さず現を映さぬ目でそんな自分を眺めている。けれどもすべての〝禊〟を束ねる禊、〝大兄〟として、主たる玉衣の傍らにひかえ、またその背で〝禊〟たちを護るようにそこにあった。これから彼らが犯すであろうあらゆる罪を背負うように、そこに在った。
 身動きできない神依と、それを護る最後の砦――ひどくもろい砦となっている忠厚き禊に、童女は見せ物を観ているようにふふと笑い、その黄とも緑ともつかぬ衣から離れてとたとたと神依と禊に駆け寄る。
「……ッ」
童女は愛くるしい笑みを浮かべていたが、しかし通り過ぎざま、その大きな瞳に捉えられた禊はその物言わぬ覇気にあてられて指一本動かせなくなった。その指一本でも動かそうものなら、一瞬で鼠軼と同じ黄泉路よみじを辿る気がして身動き一つ取れない。嫌な汗が額ににじんで、童女が通り過ぎるのを目だけで追うのが精一杯だった。
 それは童女の目が、決して笑ってなどいなかったからかもしれない。童女の纏う威圧的なそれは異様なほど静かで、熱いほどに彩度が失せていく炎のようだった。
 しかし童女はそんなことは気にも留めず、ひらひらと袖や紐飾りを楽しそうに翻し、膝をついた神依を見てはくるくるとその回りを跳ねた。
「――ふむ、お前がくだんの巫女、神依か。うーむ……間近で見ても特に言うべきことも見つからぬが、わらわの予想どおりの阿呆面を晒して面白き娘じゃ。――いや待て、なんとも久方ぶりに見る古式ゆかしい巫女服の着こなし、わらわは嫌いではないぞ。よく見れば髪もつやつやで綺麗じゃのう。肌も悪くない。のう、髪に触れてもよいか?」
「な……なに……?」
この場にふさわしくない異質な無邪気さに、ようやく神依の本能が警告を始める。何かおかしい。この子はただの、子供ではない。
 それはわかるが、しかしではこの子は何なのだろうという得体の知れない恐怖がじわじわと湧き上がり、童女の手が自らに伸びてきた瞬間、神依は反射的にその手を振り払い拒んだ。
 童女は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに歪んだ笑みを浮かべるとそのなまめかしくも見える唇を動かす。
「わらわを拒むか」
「……あなたは、なに? ……誰なの……?」
ようやくしぼり出したような小さな声で問う神依に、童女は不遜に笑むとまたくるりと舞うように庭先に躍り出る。
 それを機に空の薄い雲が流れ、そのわずかな隙間から光の梯子はしごが雲海に幾筋も差し込んだ。遥か遠く――その空と海の境界にまでそれは続き、白い糸となって次々と世界を織っていく。太陽のはた
 虹が出そうな天気だと神依は思ったが、その光は眩いばかりに白く輝き、またこの小島をも照らした。
 童女はその美しい世界のすべてを纏い、一度気持ち良さそうに空を仰ぐと、いっそう鮮やかに浮かび上がる赤き衣に風を孕ませる。空から降り注ぐ光と海の水面みなもに照り返す光がその輪郭を形取り、そのあまりに壮麗な光景に、神依はみるみる目を見開いた。
 目に映る世界すべてに光のころもを纏わせ、明度の上がった白の世界に君臨する赤い日輪の花。
 衣を浮かび上がらせていた風が通り抜けると、童女は満足そうに口角を上げ、ゆっくりと神依に向き直る。そして子供らしい残酷な、美しい笑みを浮かべて――
「我が名は、天照アマテラス
――ついに、告げた。
「わらわはこの世界を成した、掛まくも畏き伊邪那岐大神イザナギノオオカミを父に持ち、さらなる上天の神々の巫女として、高天原を委任された三貴子の一柱。そしてそなたが頬に誇る月の神の姉であり、たぶらかしたという日嗣の祖母でもある」
「……!?」
 その言葉に、神依は息を呑んで童女を見つめる。
 たしかに、大きくなったらあの月の神のように美しくなるだろう整った目鼻立ちだが――その年齢はどう見ても童と同じか、もう少し下程度だ。
 それが姉を名乗り、祖母を名乗るとは――とそこまで思い、不意にその月の男神が語っていたことを思い出す。

 〝――ともに生まれた姉上でさえ、父を慕い死の穢れを嫌って常若とこわかの生を望み、私を心から理解してはくださらない〟

 それは見事にこの童女を――天照という女神を表し、嘆く言葉であった。
 神依は彼女がなぜその姿で在るのか理解して、またこの世界に来て初めて聞いたその名に、あの原初の男神……そして、女神を想う。
「あ……あなたが……、あなたが天照様というなら……あなたの、お母様は」
「母じゃと? ――我が父神は偉大なる天つ大神ぞ。神を生むにその御身おんみの手振り、御声一つで十分じゃ」
「……」
天照は一瞬不機嫌そうな顔をして、しかしすぐに自慢気にそう語る。それは、そう言われてしまえばそうかもしれないが……すでにその母神と言葉を交わしてしまった神依には、とても悲しい言葉だった。命と性とを拒む言葉。それどころか、彼女は全身でもってそれを表現している。
 形容し難い表情で黙ってしまった神依に、しかし天照は気にしたふうもなく、あざといくらい可愛い仕草で彼女を招き寄せしゃがむように言った。
「……」
神依は大人しくそれに従い、禊にはそれを見守ることしかできない。ゆっくりと立ち上がり、気持ち裳裾もすその土を払って天照の傍らに進んで背丈を合わせるよう膝を折れば、天照はとんと一歩その距離を詰めた。
「――まこと、そなたのような芋娘の何が気に入ったのか……あやつらの考えていることは、わらわにはさっぱりわからぬ。そもそも奴らは、女心に疎くていかん」
「……奴ら?」
「……」
天照は答えず、神依の頬に自らの頬を寄せると、まるで女の子同士の内緒話でもするかのように両手で口元を包み、心なしかその声音を変えて神依に告げた。
「……しかし、日嗣はわらわの可愛い孫。大事な孫じゃ。たとえ誰であろうと、妻の座に生まれもわからぬ淡島の巫女など召し上げさせるわけにはいかぬ。――いずれ傷が癒えた頃、わらわはあれにふさわしい、あれの好きそうな清廉で見目も美しい女神を遣わすつもりであった。いや、そうでなくとも――あれに神たる嫡妻ちゃくさいがおることを、お前が知らぬとは言わせぬぞ。お前はそれを、何も思わなんだのか」
「あ……」
神依は彼女の言わんとすることを察し、きゅっと唇を結んで眉を下げてうつむく。それは……この世界を統べる神であり、〝日嗣ぎ〟の祖母としてなら、そうだろう。そうしたいだろう。そう言うだろう。きっと……その点においては、自分がどうこう言える立場ではない。
 ただ彼女は明らかに日嗣と自分のことを知り、それを責めるように告げていた。
 そして、
「それとも何か――お前は日嗣との契りが叶わなんだゆえに、月読に手を出したのか……?」
「え――」
続く言葉に……その途端に低く恨みがましくなった声に、神依はビクリと肩を震わせた。
 わずかに頭を横に向ければ、真黒い瞳が瞬きもせず自分を見ていた。そこで初めて、神依の背筋に寒気が走る。
「あ――あの……」
「……弟に妻がおらぬなど、笑わせてくれる。あれはわらわと横並ぶことを許された唯一の者ぞ……昼と夜とに分かたれながら、互いに互いの美しさを知り、もっとも穢してはならぬものとしてその愛で方をわきまえ、頂の孤独を二人ひそかに舐め合うもの――。わらわたちは肉体を超えてともにあり、二柱であったからこそ、陰陽のしるしの如く完全なる円をなすものだった。……ふむ。お前は先程、母を語ったな。であれば、お前にもわかるようにわらわも語ろう。……対なる二で一たる円をなす、でなければこの国はどうやって生まれたのじゃ。わが父母は夫婦であり……また兄妹であった」
「あ……っ、あなたたち、まさか」
「……よくもわらわのものを盗ってくれたな……」
天照の可愛らしい顔が、途端に憎しみに歪む。
 耳すら噛み千切られそうな牙めいた気配に、神依は慌てて立ち上がり、彼女から離れ違うと細く呟くが、もはやその訴えが神の耳に届くことはなかった。
「待って……待ってください、わたし……!!」
「この……泥棒猫。鼠ともども焼かれてね」
「違う……わたしは……!!」
「――やれ」
激昂するこの女神を止められる者などこの世界にはいない。その怒り荒ぶる魂は天の神々でさえも焼き尽くし、そうでなければ生きたまま肉体を、魂を干からびさせて、永劫の渇きに封じることさえためらいはしない。
 天照は月の神より遥かに短い言葉ひとつで、数多あまたの女たちを煽り、命じる。自らと同じ怒りを抱えた女たちを手足として、使役する。
 そしてそれを請けた大兄を始めとする何十人もの神のしもべが、神依と禊……たった二人の前に、立ちふさがった。
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