ソツのない彼氏とスキのない彼女

吉野 那生

文字の大きさ
14 / 50

仲違い〜北条〜

しおりを挟む

最初はほんの些細な言い争いだった。

けれど、互いの主張は見事なまでに平行線を辿り、遂には盛大な口論へと発展した。

別に相手を屈服させたい訳でも何でもないのだが…お互い頑として譲らない。


ヒートアップしていく口論に終止符を打ったのは悠香の方であった。

「もういいわ、これ以上話す事はない」

叩きつけるような勢いで千円札をテーブルに置き、振り向きもせずに出て行く悠香を俺は醒めた表情で見送った。


「何だってんだよ、…ったく」

ややあって、旧知の友人の好奇に満ちた視線に気付いた俺は苦々しげに呟いた。

馴染の店とはいえ、あの口論の後の気まずい雰囲気だけは払拭できそうにもない。

冷めてしまったマスター特製ブレンドを飲み干すと、カウンターの奥から面白そうに見つめている旧友・安藤に声をかけた。

何か言いた気なヤツを鋭い一瞥で牽制し、さっさと支払いを済ませる。

そのまま無言でドアに向かった背中越しに声がかかった。


「ちょっと待った、傘は持っているかね?」

黙って視線を窓に転ずると、外はかなり強めの雨が降っていた。

1つ溜息をつき—悪い事は重なるものだ—俺は振り向きもせずに言った。

「濡れて帰るさ」

「お得意様に風邪を引かせるのも忍びない。
持っていきたまえ」

奥から男物の大振りな傘を取ってくると、安藤は半ば強引に押し付けた。

なにやら含む所のありそうな安藤に一応礼を言い、早々に店を出た。


先程…といってもかれこれ2時間も前の事だが、店に来た時には降っていなかった雨が傘を叩く。

このまま真っすぐ家に帰りたい心境でもなかったので、行き付けのショットバーで一杯やろうと夜の雨がそぼ降る街を歩いた。

初夏とはいえ夜気はひんやりと冷たい。

しかもこの雨だ。

店を出た途端、むき出しになった腕に鳥肌が立った。


そういえば、悠香は傘を持っていないのではなかったか?と突然思い出す。

この雨の中、傘も持たずに飛び出した彼女の事が急に心配になってくる。

しかも悪い事に、安藤の店—オアシス—は悠香のマンションまで結構距離がある。

タクシーでも拾って、まっすぐ家に戻っていてくれれば良いのだが、と悠香の携帯の番号を呼び出した。

しかしいくら待っても虚しく呼び出し音が響くばかり。

まだ怒っているのかと舌打ちしたい気分と、まさかずぶぬれになって帰っている途中なのでは?という焦りが綯い交ぜになって、俺は雨の中走り出した。


殆ど全力疾走に近いスピードで走り、オートロックの自動ドアの前に立つ。

悠香の部屋番号を入力し、インターフォンを鳴らすが応答はない。

もう1度インターフォンを鳴らそうと手を伸ばしかけ、中が人が出てこようとするのに気付き、入れ違いで中に入った。

しかし1基しかないエレベーターは最上階まで上がっていて、なかなか降りてこない。

痺れを切らして俺は非常階段を一気に駆け上がった。

かなり無茶な走り方をしたので、少々上がった息を整えながら悠香の部屋の前に立ちベルを押す。

しかし部屋の中に彼女がいる気配はなかった。

見える範囲でだが、部屋の中の灯りが付いている様子もない。

ドアの前に濡れた足跡もないことから、悠香がまだ戻っていないと判断し踵を返した。


外に出ると雨は一層強まっており、寒いと言っていいほどの体感温度になっていた。

こんな雨の中、傘もないのに一体どこへ…?

とりあえず悠香を探そうと飛び出しかけて、フッとある考えが閃いた。

殆ど確信にも似た思いを胸に、一目散に駆け出す。

20分とかからずたどり着いた先で雨に濡れそぼった悠香の姿を見つけた時は、自分の勘が正しかった事に心底安堵した。


「悠香!」

ゆるゆると振り向いた顔には濡れた髪の毛が張り付き、電灯の下でよく見るとずぶ濡れの彼女の顔色は蒼白に近かった。

「北条…さん」

慌てて傘を差しかけ、抱いた肩の冷たさに俺は息を呑んだ。

「ずっとここにいたのか?」

「えぇ」


安藤の店を出て悠香のマンションに着くまで最低でも30分。

マンションで結構時間をくったし、ここに着くまで25分と見ても、少なくとも1時間以上は彼女は雨に打たれていた事になる。

歯の根もあわぬほど震えている悠香を抱き寄せ、とりあえず俺は部屋に戻った。

急いでバスタオルを取ってきて、ついでにバスタブに湯を張る。

悠香の濡れた頭を拭き、もう1枚のタオルを肩に掛けた。

「濡れちゃうわ」

玄関先で妙な遠慮をする彼女を無理やり中に上げ、有無を言わさずバスルームに連れ込む。

「タオルはこれ使って。
今着替え持ってくるから。
とりあえず風呂に入って温まる事!
分かったな」

念を押してバスルームを出ようとした手を、氷のような手が掴んだ。

「…悠香?」

「さっきは…ごめんなさい」

先手を打つかのようにパッと頭を下げた悠香は、おずおずと俺を見つめてきた。

俺も言いすぎたかなって思っていたから、彼女が落ち着いたらちゃんと謝ろうと思っていたのに、妙にタイミングを逃したような複雑な気分になる。

それでも怒ってるつもりは毛頭なかったのだが…。

「まだ怒って…る?」

躊躇いがちにかけられた声に、むくむくと悪戯心が沸き起こる。

「怒ってる」

少しだけ怖い顔を作ってわざと見下ろすと、悠香の視線が揺れる。

追い打ちをかけるように

「こんな雨の中、タクシーも拾わず傘も買わずに、しかも自分ちにも帰らずに外で、ずぶ濡れになりながら俺のこと待ってるなんて。
風邪でも引いたらどうするつもりなんだ」

言ってる傍から感情が抑えられなくなって、悠香をギュッと抱きしめる。


心配させて…と言葉の代わりに、いつもより抱きしめる腕に力を込めると、彼女の身体からフッと力が抜けた。

「…濡れるわよ」

「じゃあ一緒に風呂に入る」

憮然としている悠香のブラウスのボタンを外そうと手を伸ばすと、焦ったように
「ちょっ…!北条さん!
そんな事自分で出来るわ!
というか1人で入れるから!」

と大声で制止する悠香。

元からそんなつもりではなかったので、大人しく引き下がる。

「じゃあゆっくりどうぞ」

それでも人も悪い笑みを浮かべ振り返ると、彼女は慌てて俺をバスルームから追い出した。

悠香が風呂に浸かっている間に着替えの準備を済ませ、ついでに自分も濡れたワイシャツを脱ぐ。

ずぶ濡れになった服をまとめて洗濯機に放り込もうとして、さすがにスカートだけは皺になりそうなので、そのままハンガーに吊っておく事にした。

「悠香、湯加減はどう?
ぬるかったら「熱く」のボタン押したら少しだけ熱くなるから。
あと着替えここに置いとくぜ。
君の服はもう洗濯してるし」

声をかけた瞬間、湯の中で悠香が身じろぎする気配がした。

さっきの笑みはそういう意味じゃないんだけどな…。

それとも冗談を真に受けてたのか、と苦笑いをしながらバスルームを出た。


ダイニングに戻り冷蔵庫から缶ビールを取り出す。

1口呑んでから、そういえば悠香を家に上げるのは初めてだ、とフッと気付く。

今まで何度か「そういう雰囲気」になった事はあった。

お互い大人なんだし、据え膳食わぬは何とやら。

まして惚れた女だ。

しかし何故か「そういう関係」になるまでには至っていない。

せいぜいがキスどまりで、それ以上調子に乗ると至極真面目な顔で「セクハラです」なんて認定されちまうんだから始末が悪い。

まぁ職場で手を出す俺も悪いのかもしれないが。


それにしたって…このシチュエーション。


——もしかしなくても…これはチャンスなのか?

そう思った瞬間、悠香がひょこっと顔を出した。

たった今まで抱いていた不埒な思いに、まさか気付かれはしなかったかと様子を伺いながら

「何か呑む?」

と訊ねると

「そうね、じゃあ同じの貰おうかしら」

とビールを受け取った悠香は、遠慮がちにソファの端っこに腰掛けた。

その様子がどことなく緊張しているように見えて…ますます内心焦る。


——もしかして、悠香も同じ事考えてたり…する?

「取って食いやしないって。
少なくとも今は、ね」

せいぜい余裕を装って悠香の頬に軽くキスをすると、彼女は何ともいえない引きつった笑顔を返してきた。

「じゃ俺もシャワー浴びてくるから。
ま、テキトーにしてて」

バスルームに入り1人きりになった途端、不必要に高鳴っている鼓動を、イヤってほど意識してしまう。


——10代のガキか、俺は。

不覚にも耳まで真っ赤になってしまっているじゃないか。

我ながら情けないと思いつつ、リビングにいる筈の彼女の一挙一動が気になって仕方がない。

手早く頭と身体を洗うと、パジャマ代わりに使っている部屋着に着替えてリビングに戻る。 


そんな必要どこにもないのにそっとリビングに入ったその時、耳に飛び込んできたのは

「…ナニ、これ?」

キッチンにいる悠香から漏れた、呆れを含んだ驚きの声。

振り向いたそこに俺が立っていたので少しビックリしたようだったが、悠香は今度こそ本当に呆れたように

「あなた、一体どういう食生活を送っているの?」

と訊いてきた。

「まぁそれなりに」

肩を竦めてサラリと流すと、悠香は苦笑いしながら言い切った。

「こんな冷蔵庫、初めて見たわ」

少なくとも、家に入ってきた時と違って顔色もいいし、さっき感じた緊張感も感じられない。

「…落ち着いたようだな」

ホッとして言うと、彼女は僅かに表情を強張らせて

「さっきはごめんなさい」

と抱きついてきた。

「謝らないで良いって。
と言うかこっちこそごめんな、俺も言い過ぎた」

ふるふると首を振る悠香を軽く抱きしめると額にキスをした。


さっきはあんなに冷たかった身体が、今は熱いくらい火照っているのがダイレクトに伝わってきて、またしても煩いくらい鼓動が早くなってくる。

それに加えて悠香の髪から漂ってくる良い匂いと、胸に当たる何ともいえない柔らかい感触に、俺のなけなしの理性は焼き切れそうになっていた。

「北条…さん?」

おまけに掠れ気味な声で名前を呼ばれた挙句、心なしか潤んだ瞳で見上げられたりなんかしたら!


——どこかで何かが切れた音が聞こえた。


「…俺はいつまで北条さんな訳?」


待て待て!がっつくな、俺!

気を抜くと臨戦態勢に入りそうな自分に、待ったをかける為、捻り出したのは…案外欲望に忠実な台詞だった。

「…え?」

「いや、ここ俺んちだし、人目も気にしなくていいし。
名前で呼んでほしいかな~ってね」

冗談めかして言ったつもりのその願いは、言葉にした途端、切実なものに感じられた。


「…」

至近距離で見あげる悠香の瞳が困ったように揺れている。

「まさか、俺の名前知らない訳じゃないよな?」

「まさか!知ってます。
知ってはいるけど、ハードルが高いっていうか、いきなりはちょっと…」

「ちょっと…?」

心なしか頬を染めうつむく悠香。

「恥ずかしいというか、その…心の準備が、まだ」


——何だよ、それ。
可愛すぎるだろ、心の準備って。

「…じゃあ10数えるから、その間に準備して」

「短っ!」

「それ以上は待てない」


——結局、余裕なんて無いのか…。

きっぱりと言い切ると、悠香は驚いたように目を見張った。


「ほら、いくぜ。1.2.3…」

「ま、待って!」

「待たない。4.5.6.7…。
でもって、呼んでくれなきゃキスする」

ニヤリと笑って見せると、悠香はぱくぱくと口を開閉させた。


「8.9…」

「さ…智、さん」

目を潤ませた悠香の恥ずかしそうな表情に、か細い切羽詰まったような声に、神経が焼き切れるかと思った。


彼女の眼に映る余裕のない獣のような眼をした自分を嘲笑いつつ。

安堵の吐息を漏らす、その唇を塞いだ。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

思い出のチョコレートエッグ

ライヒェル
恋愛
失恋傷心旅行に出た花音は、思い出の地、オランダでの出会いをきっかけに、ワーキングホリデー制度を利用し、ドイツの首都、ベルリンに1年限定で住むことを決意する。 慣れない海外生活に戸惑い、異国ならではの苦労もするが、やがて、日々の生活がリズムに乗り始めたころ、とてつもなく魅力的な男性と出会う。 秘密の多い彼との恋愛、彼を取り巻く複雑な人間関係、初めて経験するセレブの世界。 主人公、花音の人生パズルが、紆余曲折を経て、ついに最後のピースがぴったりはまり完成するまでを追う、胸キュン&溺愛系ラブストーリーです。 * ドイツ在住の作者がお届けする、ヨーロッパを舞台にした、喜怒哀楽満載のラブストーリー。 * 外国での生活や、外国人との恋愛の様子をリアルに感じて、主人公の日々を間近に見ているような気分になれる内容となっています。 * 実在する場所と人物を一部モデルにした、リアリティ感の溢れる長編小説です。

大好きな背中

詩織
恋愛
4年付き合ってた彼氏に振られて、同僚に合コンに誘われた。 あまり合コンなんか参加したことないから何話したらいいのか… 同じように困ってる男性が1人いた

幸福を運ぶ女

詩織
恋愛
誰とも付き合いたくない。それは、ある噂が出てしまったことで…

シンデレラは王子様と離婚することになりました。

及川 桜
恋愛
シンデレラは王子様と結婚して幸せになり・・・ なりませんでした!! 【現代版 シンデレラストーリー】 貧乏OLは、ひょんなことから会社の社長と出会い結婚することになりました。 はたから見れば、王子様に見初められたシンデレラストーリー。 しかしながら、その実態は? 離婚前提の結婚生活。 果たして、シンデレラは無事に王子様と離婚できるのでしょうか。

夜の帝王の一途な愛

ラヴ KAZU
恋愛
彼氏ナシ・子供ナシ・仕事ナシ……、ないない尽くしで人生に焦りを感じているアラフォー女性の前に、ある日突然、白馬の王子様が現れた! ピュアな主人公が待ちに待った〝白馬の王子様"の正体は、若くしてホストクラブを経営するカリスマNO.1ホスト。「俺と一緒に暮らさないか」突然のプロポーズと思いきや、契約結婚の申し出だった。 ところが、イケメンホスト麻生凌はたっぷりの愛情を濯ぐ。 翻弄される結城あゆみ。 そんな凌には誰にも言えない秘密があった。 あゆみの運命は……

モテ男とデキ女の奥手な恋

松丹子
恋愛
 来るもの拒まず去るもの追わずなモテ男、神崎政人。  学歴、仕事共に、エリート過ぎることに悩む同期、橘彩乃。  ただの同期として接していた二人は、ある日を境に接近していくが、互いに近づく勇気がないまま、関係をこじらせていく。  そんなじれじれな話です。 *学歴についての偏った見解が出てきますので、ご了承の上ご覧ください。(1/23追記) *エセ関西弁とエセ博多弁が出てきます。 *拙著『神崎くんは残念なイケメン』の登場人物が出てきますが、単体で読めます。  ただし、こちらの方が後の話になるため、前著のネタバレを含みます。 *作品に出てくる団体は実在の団体と関係ありません。 関連作品(どれも政人が出ます。時系列順。カッコ内主役) 『期待外れな吉田さん、自由人な前田くん』(隼人友人、サリー) 『初恋旅行に出かけます』(山口ヒカル) 『物狂ほしや色と情』(名取葉子) 『さくやこの』(江原あきら) 『爆走織姫はやさぐれ彦星と結ばれたい!』(阿久津)

恋とキスは背伸びして

葉月 まい
恋愛
結城 美怜(24歳)…身長160㎝、平社員 成瀬 隼斗(33歳)…身長182㎝、本部長 年齢差 9歳 身長差 22㎝ 役職 雲泥の差 この違い、恋愛には大きな壁? そして同期の卓の存在 異性の親友は成立する? 数々の壁を乗り越え、結ばれるまでの 二人の恋の物語

ヒ・ミ・ツ~許嫁は兄の親友~(旧:遠回りして気付いた想い)[完]

麻沙綺
恋愛
ごく普通の家庭で育っている女の子のはずが、実は……。 お兄ちゃんの親友に溺愛されるが、それを煩わしいとさえ感じてる主人公。いつしかそれが当たり前に……。 視線がコロコロ変わります。 なろうでもあげていますが、改稿しつつあげていきますので、なろうとは多少異なる部分もあると思いますが、宜しくお願い致します。

処理中です...