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第三章:成功と突然の終焉
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グルメライターとして独立して十年目。「グルメ放浪記」と題された健太の連載は、その独自の視点と多角的な情報収集力で、瞬く間に人気を博し、ベストセラーとなっていた。読者からは「健太さんの文章を読むと、まるで自分がその場にいるかのように、香りや味が伝わってくる」「今まで知らなかった食材の奥深さに感動した」といった声が多数寄せられ、彼の評価は不動のものとなっていた。
故郷の母、和子にも、健太の成功は伝わっていた。電話口で、和子はいつも嬉しそうに語った。「健太、テレビで見たよ。すごいね、健太は」「新聞にも載ってたよ。たくさん美味しいものを食べて、元気にしてるかい」。その声は、以前よりも少しだけゆっくりとしていたが、息子を誇りに思う気持ちがひしひしと伝わってきた。和子は、健太の書いた「グルメ放浪記」を大切に読み込み、切り抜きをファイルに綴じていた。そんな母の姿を想像すると、健太の胸には温かいものが込み上げた。しかし、成功という可視性に囚われ、多忙を極める日々に、故郷へ帰る時間はなかなか取れなかった。
そんなある日、健太は突然、経験したことのないような激しい腹痛に襲われた。脂汗が滲み、冷や汗が背中を伝う。(なんだ、この痛みは…ただの食べ過ぎじゃないよな…)昨晩食べた、フォアグラのソテーが原因だろうか、それとも、取材で連日続いた外食のせいだろうか。軽く考えていたが、痛みは増すばかりで、立っているすら困難になった。近くの総合病院で診てもらったところ、「詳しい検査が必要だ」と言われ、紹介状を手に、後日、大学病院で精密検査を受けた。
検査の結果が出るまでの数日間は、まるで生きた心地がしなかった。病院の白い壁を見つめながら、(まさか、悪い病気じゃないだろうな…)最悪の事態を想像し、眠れない夜を過ごした。隣のベッドから聞こえる、見知らぬ患者のうめき声が、健太の不安を 더욱 掻き立てた。悪い知らせではないかと、不安に押しつぶされそうになる夜もあった。そして、数日後、医師、佐々木から告げられた診断結果は、健太の人生を根底から覆す、あまりにも残酷なものだった。
「高橋さん、検査の結果が出ました。末期の膵臓がんです。残念ながら、余命は半年から一年といったところでしょう」
信じられなかった。(末期…?余命…?そんな馬鹿な…)まさか自分が、まだこんなにも若い自分が、これからもっと多くの美味しいものを味わい、それを言葉で伝えていくはずだった自分が、こんなにも早く人生の終わりを迎えることになるなんて。頭の中が真っ白になり、医師、佐々木の淡々とした声が、まるで遠くのスピーカーから聞こえてくるようだった。病室の白い壁が、まるで私を閉じ込める冷たい檻のように感じられた。目の前が歪み、足元がぐらつくのを感じた。(嘘だ…きっと、どこかの間違いだ…)健太は、自分の耳を疑った。まるで、他人事のように、医師の言葉を聞いていた。
病院からの帰り道、健太はぼんやりと見慣れたはずの空を見上げた。いつもと変わらない、どこまでも広がる青空が、今日に限ってはひどく残酷に思えた。まるで、自分の絶望を嘲笑うかのように、何の憂いもなく広がっている。電線に止まるスズメのさえずりも、行き交う人々の何気ない話し声も、まるで遠い世界の出来事のように聞こえた。(これから、どうすればいいんだ…?残された時間で、何をすれば…?)足取りは重く、まるで地面に吸い付くようだった。今まで追い求めてきた、数々の記憶に残る美食の数々が、頭の中で走馬灯のように駆け巡ったが、(そんなもの、今はどうでもいいんだ…)どれもが今 、どうでもいいことのように思えた。あの時感じた感動も、舌に残る味わいも、全てが色褪せて、遠い記憶の彼方へと消え去っていくようだった。
その夜、健太は一睡もできなかった。様々な思いが、まるで嵐のように頭の中を駆け巡った。これまで出会った人々、取材で訪れた美しい風景、そして、数えきれないほど味わってきた、色とりどりの料理の記憶……。華やかで贅沢な食事の記憶が次々と蘇ってきたが、(どれも、結局は他人事のような気がする…)なぜかどれもが遠い幻のように感じられた。まるで、自分の人生とは別の世界の出来事のように。成功を追い求め、忙殺される日々のなかで、本当に大切なものを見失っていたのかもしれない。(母さんの顔を、もっと見ておけばよかった…もっと、話をしておけばよかった…)後悔の念が、津波のように押し寄せてきた。
ふと、幼い頃の食卓の光景が、鮮明な色彩を帯びて蘇ってきた。薄暗い台所の隅で、静かに湯気を上げる土鍋。味噌汁の、どこか懐かしい優しい香り。和子が、愛情を込めて作ってくれた、質素だけれど温かいご飯。あの頃は当たり前だと思っていた、何気ない日常の風景が、今となっては、かけがえのない宝物のように思えた。(ああ、あの温かさに、もう一度触れたい…)あの時、もっと素直に「美味しい」と言えばよかった。もっと、和子の隣で一緒にご飯を食べる時間を大切にすればよかった。後悔の念が、胸の中にじんわりと広がっていった。和子の笑顔、温かい手の感触、そして、あの優しい眼差しが、鮮やかに思い出された。質素な食卓を囲みながら、和子が語ってくれた昔話や、学校であった出来事を、もっと真剣に聞いていればよかった。
その時、健太は心の底から、抑えきれないほどの強い希望を感じた。(ああ、もう一度、母さんのご飯が食べたい!)高級レストランの洗練された技巧が凝らされたフランス料理でも、世界中の珍味でもない。ただ、あの頃、毎日当たり前のように食卓に並んでいた、和子の温もりを感じる、シンプルで素朴なご飯が、今、何よりも食べたかった。健太の魂が、それを強く求めていた。それは、失われた時間を取り戻したいという、切実な願いだったのかもしれない。そして、それは、母への感謝の気持ちを、もう一度伝えたいという、心の叫びだった。
四章へ続く
故郷の母、和子にも、健太の成功は伝わっていた。電話口で、和子はいつも嬉しそうに語った。「健太、テレビで見たよ。すごいね、健太は」「新聞にも載ってたよ。たくさん美味しいものを食べて、元気にしてるかい」。その声は、以前よりも少しだけゆっくりとしていたが、息子を誇りに思う気持ちがひしひしと伝わってきた。和子は、健太の書いた「グルメ放浪記」を大切に読み込み、切り抜きをファイルに綴じていた。そんな母の姿を想像すると、健太の胸には温かいものが込み上げた。しかし、成功という可視性に囚われ、多忙を極める日々に、故郷へ帰る時間はなかなか取れなかった。
そんなある日、健太は突然、経験したことのないような激しい腹痛に襲われた。脂汗が滲み、冷や汗が背中を伝う。(なんだ、この痛みは…ただの食べ過ぎじゃないよな…)昨晩食べた、フォアグラのソテーが原因だろうか、それとも、取材で連日続いた外食のせいだろうか。軽く考えていたが、痛みは増すばかりで、立っているすら困難になった。近くの総合病院で診てもらったところ、「詳しい検査が必要だ」と言われ、紹介状を手に、後日、大学病院で精密検査を受けた。
検査の結果が出るまでの数日間は、まるで生きた心地がしなかった。病院の白い壁を見つめながら、(まさか、悪い病気じゃないだろうな…)最悪の事態を想像し、眠れない夜を過ごした。隣のベッドから聞こえる、見知らぬ患者のうめき声が、健太の不安を 더욱 掻き立てた。悪い知らせではないかと、不安に押しつぶされそうになる夜もあった。そして、数日後、医師、佐々木から告げられた診断結果は、健太の人生を根底から覆す、あまりにも残酷なものだった。
「高橋さん、検査の結果が出ました。末期の膵臓がんです。残念ながら、余命は半年から一年といったところでしょう」
信じられなかった。(末期…?余命…?そんな馬鹿な…)まさか自分が、まだこんなにも若い自分が、これからもっと多くの美味しいものを味わい、それを言葉で伝えていくはずだった自分が、こんなにも早く人生の終わりを迎えることになるなんて。頭の中が真っ白になり、医師、佐々木の淡々とした声が、まるで遠くのスピーカーから聞こえてくるようだった。病室の白い壁が、まるで私を閉じ込める冷たい檻のように感じられた。目の前が歪み、足元がぐらつくのを感じた。(嘘だ…きっと、どこかの間違いだ…)健太は、自分の耳を疑った。まるで、他人事のように、医師の言葉を聞いていた。
病院からの帰り道、健太はぼんやりと見慣れたはずの空を見上げた。いつもと変わらない、どこまでも広がる青空が、今日に限ってはひどく残酷に思えた。まるで、自分の絶望を嘲笑うかのように、何の憂いもなく広がっている。電線に止まるスズメのさえずりも、行き交う人々の何気ない話し声も、まるで遠い世界の出来事のように聞こえた。(これから、どうすればいいんだ…?残された時間で、何をすれば…?)足取りは重く、まるで地面に吸い付くようだった。今まで追い求めてきた、数々の記憶に残る美食の数々が、頭の中で走馬灯のように駆け巡ったが、(そんなもの、今はどうでもいいんだ…)どれもが今 、どうでもいいことのように思えた。あの時感じた感動も、舌に残る味わいも、全てが色褪せて、遠い記憶の彼方へと消え去っていくようだった。
その夜、健太は一睡もできなかった。様々な思いが、まるで嵐のように頭の中を駆け巡った。これまで出会った人々、取材で訪れた美しい風景、そして、数えきれないほど味わってきた、色とりどりの料理の記憶……。華やかで贅沢な食事の記憶が次々と蘇ってきたが、(どれも、結局は他人事のような気がする…)なぜかどれもが遠い幻のように感じられた。まるで、自分の人生とは別の世界の出来事のように。成功を追い求め、忙殺される日々のなかで、本当に大切なものを見失っていたのかもしれない。(母さんの顔を、もっと見ておけばよかった…もっと、話をしておけばよかった…)後悔の念が、津波のように押し寄せてきた。
ふと、幼い頃の食卓の光景が、鮮明な色彩を帯びて蘇ってきた。薄暗い台所の隅で、静かに湯気を上げる土鍋。味噌汁の、どこか懐かしい優しい香り。和子が、愛情を込めて作ってくれた、質素だけれど温かいご飯。あの頃は当たり前だと思っていた、何気ない日常の風景が、今となっては、かけがえのない宝物のように思えた。(ああ、あの温かさに、もう一度触れたい…)あの時、もっと素直に「美味しい」と言えばよかった。もっと、和子の隣で一緒にご飯を食べる時間を大切にすればよかった。後悔の念が、胸の中にじんわりと広がっていった。和子の笑顔、温かい手の感触、そして、あの優しい眼差しが、鮮やかに思い出された。質素な食卓を囲みながら、和子が語ってくれた昔話や、学校であった出来事を、もっと真剣に聞いていればよかった。
その時、健太は心の底から、抑えきれないほどの強い希望を感じた。(ああ、もう一度、母さんのご飯が食べたい!)高級レストランの洗練された技巧が凝らされたフランス料理でも、世界中の珍味でもない。ただ、あの頃、毎日当たり前のように食卓に並んでいた、和子の温もりを感じる、シンプルで素朴なご飯が、今、何よりも食べたかった。健太の魂が、それを強く求めていた。それは、失われた時間を取り戻したいという、切実な願いだったのかもしれない。そして、それは、母への感謝の気持ちを、もう一度伝えたいという、心の叫びだった。
四章へ続く
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