懐かしの記憶、最後の晩餐

小乃 夜

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第四章:最後の帰郷と母の味

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翌朝、健太はすぐに実家に電話をかけた。久しぶりに聞く母、和子の声は、少しだけ掠れていたけれど、いつものように優しさに溢れていた。「もしもし、母さん? 健太だよ。久しぶり」。「あら、健太? どうしたの、急に」。健太は、震える声で、自分が病気であること、そして、どうしても和子の作ったご飯がもう一度食べたいと伝えた。電話の向こうで、和子はしばらく言葉を失っていた。静寂が、受話器越しにも伝わってきた。そして、ようやく絞り出すような、震える声で言った。「……そうか。わかった。いつでも帰ってきなさい」。その短い言葉には、計り知れないほどの優しさと、深い悲しみが込められているように感じた。和子の心も、健太と同じように、張り裂けそうになっているのだろうか。想像すると、胸が締め付けられた。
数日後、健太は故郷の駅、信濃大町駅のホームに降り立った。見慣れたはずの駅舎、駅前のロータリー、そして、どこまでも広がる北アルプスの雄大な山々の風景が、どこか懐かしく、そして、過ぎ去った時間への寂しさを、より一層強く感じさせた。空気は澄んでいて、春の土の匂いが鼻をくすぐった。改札を出ると、和子が、遠くからでもわかる心配そうな顔で立っていた。以前よりも皺の増えた顔、少し小さくなった背中。それでも、健太には、世界で一番優しくて、温かい笑顔だった。「おかえり、健太」。「ただいま、母さん」。短い言葉を交わしただけで、胸の奥が熱くなり、目頭が熱くなった。和子の顔を見た瞬間、張り詰めていた心が、ふっと緩んだ気がした。まるで、長い旅から帰ってきた迷子が、ようやく故郷の灯を見つけたような、安堵感に包まれた。
実家に戻ると、あの頃と変わらない、温かい空気が、ゆっくりと健太を包み込んだ。玄関のドアを開けた瞬間、台所からは、懐かしい味噌汁の香りがふわりと漂ってきた。(ああ、この匂いだ…この、実家の匂い…)古くなった木製の床が、歩くたびに少しきしむ音も、昔と変わらない。部屋の隅に置かれた、使い込まれた裁縫箱や、壁に飾られた家族写真。どれもが、健太の記憶の中の風景と、寸分変わらない。時が止まったかのように、あの頃のままの空間が、健太を迎えてくれた。
その日の晩餐は、健太にとって、生涯忘れられないものになった。食卓には、湯気を上げる白いご飯、豆腐とわかめの味噌汁、丁寧に煮込まれたひじきの煮物、鮮やかな緑色のほうれん草のおひたし、そして、パリパリとした白菜の浅漬け。幼い頃から食べ慣れた、何の飾り気もない、けれど、和子の愛情がたっぷりと込められた料理が、静かに並んでいた。「はい、めしあがれ」。和子はそう言って、健太の前に、湯気の立つ白いご飯が入ったお茶碗を置いた。その一粒一粒が、まるで小さな宝石のように、愛おしく感じられた。米の甘い香り、湯気の温かさ、それら全てが、健太の心にじんわりと染み渡っていくようだった。
健太は、久しぶりに和子の作った味噌汁を口にした。じんわりと体に染み渡るような、滋味深く、優しい味わい。豆腐の滑らかな舌触り、わかめの磯の香り。(ああ、この味だ…この、何十年も変わらない、懐かしい味が、俺の体の中に染み渡っていく…)ひじきの煮物は、甘辛い味が懐かしく、噛むほどにじんわりと旨味が広がる。ほうれん草のおひたしは、シャキシャキとした歯ごたえが心地よく、素材そのものの清らかな味わいが口の中に広がった。白菜の浅漬けは、塩加減が絶妙で、口の中をさっぱりとさせてくれた。
どれも、高級な食材を使っているわけではない。凝った調理法で作られているわけでもない。けれど、その一つ一つの料理から、和子の深い愛情が、ひしひしと伝わってきた。「美味しい……本当に、美味しいよ、母さん」。健太は、心からの言葉でそう伝えた。和子は、少し照れたように、目を細めて微笑んだ。その笑顔は、何よりも美しかった。その瞬間、健太は、自分がどれだけ長い間、本当に大切なものを見失っていたのかを、痛烈に感じた。高級レストランで味わった、どんなに美しい料理も、この温かい家庭料理の前に 、色褪せてしまうように感じた。

五章へ続く


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