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共犯者 1
しおりを挟む一目見て、私には分かってしまった。
だって、あの人は私と同じ目で彼を見ていたから。
それは小さな催しだった。当時私と颯介は婚約していて、控えめなお披露目でもあった。
平井はまるで保護者のように颯介の傍らに立って、私に握手を求めた。
「お話は、かねがね」
嘘だ。颯介が私の話など、誰かにするわけもない。しかし私はそれをお首にも出さず、平井の手を握った。
「ええ、私もうかがっています、平井さん、ですよね?」
事前にゲストのことは把握していた。私の言葉に彼は微笑んだ。
よく見る人種だ。処世術を知っている、颯介とは対極の男。不自然だと思った。颯介のような人間と、過ごすようなタイプではない。
しかしその理由を私は直ぐに理解した。
颯介は父と話していた。多分、私には分からない数学の話だ。平井は招待客の女性と言葉を交わしていた。今日知り合ったばかりだろうに、イヤに親密な雰囲気だ。カーテンの影、出窓の前だった。
彼は微笑んだまま女に相槌をうつと、窓の向こうを見た。
中庭の真ん中、颯介が父に何か話している。数学の話をする時だけ颯介は饒舌だ。周りの目などまるで気にする様子もない。父はときどき、軽く頷くだけだった。
視線を動かすと、平井はじっと颯介の横顔をみつめていた。無表情だったが、冷たくはなかった。あの愛想笑いからは想像できないほど、私はその平井の表情がうつくしいと思った。
だからすぐに分かった。
愛してるのだ。
先生ったら、私はいいってお断りしたのよ。それなのに、ぜひこれで幸せな新婚生活を彩って欲しい、ですって。パリの蚤の市で手に入れたものみたいなんだけど、アンティークなんて……。どうやって手入れしたらよいか分からないですって言ったら、たいしたものじゃあないんだから、ダメになったら処分していいのよ、なんておっしゃるの。私、困ってしまって。
夫との食卓はいつも静かで、私はその空白を埋めるために必死におしゃべりをしなければならなかった。颯介はいつも、一言も発しはしない。私の言葉を疎ましがる様子もないが、まともに聞いているとはとても思えなかった。それでも私は必死に口を動かす。それ以外に、どうやって彼の気を引けば良いのか私には分からなかったのだ。
「へえ~、フランスの陶器って、もっと柄のある可愛らしいものかなと思いましたけど以外と地味ですね」
平井が大袈裟にいって、目の前の耐熱皿を眺める。たしかに、くすんだオリーブ色の四角い皿はそうだと言われれば納得はできるけれど、とても200年前の食器には思えない。ただのお祖母様からのお古といった風体だった。
「それで……なんていう料理なんでしたっけ?」
平井はおどけたように続ける。私はゆったりと微笑んだ。
「アッシ・ド・ブフ・パルマンティエ、ですわ。フランス語、苦手なんですね」
「ええ、第二外国語はドイツ語でした」
平井はそういって、パルマンティエを口に運ぶ。先日料理教室で習ってきたフランスの家庭料理は、見た目は地味だけれど味は格別だ。細かく切った牛肉とジャガイモをオーブンで焼き上げる、フランスのいわばおふくろの味として親しまれる料理は、きっと颯介の子供舌にもあうと思った。
私はほとんど平井のほうへ視線を動かさず、颯介の手元を見ていた。美味い、と一言すら言わない颯介だったが、いつも皿の食べ物を残すことは無かった。その食事は、生きていく上で義務のひとつだとでも思っているらしかった。
それでも私は、その綺麗に空になった器に充足感を覚えた。颯介はほとんど音も立てず、綺麗に平らげてくれる。それがその料理の出来とはなんら関係がないのだと気がついたあとも、しかしやはり私には喜びだった。
私が作った食べ物が、彼の肉体を作る。
それは私には、なにかの奇跡のように思えたのだ。
「ごちそうさま」
私と平井の会話になどまるで頓着なく、颯介が立ち上がった。
「少し、ミーティングがあるんだ。悪いけど先に失礼するよ」
私の夫はちらりと平井をみやってそう告げ、答えも待たずに食卓を離れた。
階段を登る足音は小さい。ゆっくり、等間隔で離れてゆくその音を聴きながら、私はため息をついた。
「ごめんなさいね、折角平井さんが遊びに来てくださったのに、あのひとったら」
私の言葉を平井が遮る。
「いいえ、いつものことですよ。慣れていますから」
ナプキンで口を拭い、平井は言った。丁寧に撫でつけられた髪、その前髪が落ちるひと房まで、たぶん彼は分かっているのだろう。
私はそういう平井の振る舞いに、安心感すら覚えていた。私の知ってる人種。颯介とはかけ離れた、どう他人に見られているかをどこまでも意識した、俗っぽい人間味。
「それに、少し顔を見に来ただけです。元気そうで安心しました」
「ええ、もちろん」
私は笑顔を崩さずに応える。
平井は夫の、高校からの友人だった。他人に一切関心のない颯介なので、まともに友人と呼べるのはおそらくこの平井ただ一人だろう。結婚式にはやまほど高校、大学、大学院の頃の知り合いが来ていたが颯介のスマートフォンに連絡先が入っているのは平井だけだ。颯介にとって平井が特別に親しいというわけではないだろうが、数学以外のあらゆることに関心がない彼が、少なからずまともに生きてこられたのは彼の友情によるものが大きいと、短い付き合いである私にも分かる。
いつも食事を終えると自室にこもってしまうので、平井が来訪したとき、私たちはしばらく二人きりで過ごさなければならなかった。平井は面白い男だ。話も上手いし、顔だってきれいだ。
でも私には、彼との時間が苦痛で仕方がなかった。
「フランスといえば、大学のサークル旅行で行ったことがあります」
彼は夏野菜のテリーヌをフォークでつつきながらいった。
「颯介のやつ、活動にはまったく顔を出さないくせに、フランスに行くって話したらどういうわけだか乗り気だったんです」
私は口元に笑みを張り付かせたまま、ワイングラスを手に取った。かすかに、ワインの水面が揺れる。
「あの颯介が旅行を楽しみにしてるなんておかしいぞ、と思ってはいたんですけど蓋を開けてみたら、空港に到着した途端用事があるから、なんて言ってさっさと抜けてしまって。なんでもグランゼコールに在籍しているフランス人とメル友で、そいつに会いに行きたかった、というだけのことで」
彼の言葉は私の心を鋭く掠めていく。私は笑みを崩さない。しかし、胸の内では吐き気を堪えるので必死だった。
私の知らない颯介の話、そんなもの聞きたくもない。
心配でついていったんですけど、アイツ、フランス語出来ないくせに……。
私は大きな風船をふくらませるイメージをする。赤色の風船はどんどん膨らんで、中の私と外の私を隔ててくれる。私は現実逃避をするように、平井の胸元を眺めた。
今日の平井はアイスブルーのネクタイを締めていた。色は明るいけれど生地が落ち着いていて嫌味がない。その真ん中にブランドのマークが小さく刺繍されていて、それに気がついた瞬間私は立ち上がっていた。
「……どうしました?」
「い、え……。そういえば、デザートにと思ってケーキも焼いたんです。タルトタタン……お嫌いでないといいんですけれど」
平井はまた愛想笑いを浮かべた。この男は案外甘いものが好きだ。私は答えを待たず、キッチンに入った。
あのロゴをみたことがある。颯介のクローゼットだ。たしか濃紺の。鳥肌がたった。聞いたことはないが、たぶん平井が渡したのだ。
タルトタタンを切り分けて皿に盛る。冷凍庫からアイスクリームを取り出し、テーブルスプーンですくおうとして、固すぎて上手くいかないことに苛立つ。
ガスコンロの火をつけ、スプーンを炙る。ステンレスの銀色に、赤い炎がちらちらと映っていた。
妻は私だ。あの人の、隣に立つことができるのは私だけ。
歯を食い縛らなければ、大きな声を出してしまいそうだった。それなのに、私の感じている敗北感はなんなんだろう。こんなものは、私の人生とは無縁だった。誰もが私のことを羨んでいた。私にとっては、そんなことは全然たいしたことではなかったし、嬉しくもなかった。美しい母と教養人の父との間に生まれた私は、それが当然として育った。嫌味ではない。しかし、そう振舞えと教わってきたのだ。
そういう生き方しか知らなかった。
スプーンを持つ指先が鋭く痛み、私は反射的にスプーンを床に落とした。
私は床に膝をついて、呆然とそれを見つめた。馬鹿なことをしている。そう思ったら体から力が抜けてしまった。
惨めだ。こんなのは。あまりにも。
それでも私は手放せない。あの時、初めて岡野颯介という男と出会った瞬間から。
父親から会えと言われた男性は三人目だったが、待ち合わせのラウンジに来なかったのは颯介が初めてだった。三十分待っても連絡ひとつなかったから、私は席を立った。
別に怒りはなかった。彼になにかあったのかもしれないし、なかったのかもしれないが、私は単に父に言われて来ただけだ。
だから、ホテルを出てすぐ、タクシー乗り場のベンチに当該の男が座って本を読んでいるなんて、私は予想もしなかった。
男は長い前髪をたらしたまま、顔をうつ向けて一心に活字を追っている。私は怒ればよいのか呆れればよいのか分からず、隣に座って本を覗き込んだ。大きなハードカバーの本は英字で、どうやら数論についての話のようだが、専門的すぎて内容まではよく分からなかった。
どれくらいそうしていただろう。私は、彼の横顔を眺めていた。眼鏡の向こうの切れ長の目。長いまつ毛が伏せられている。瞼が僅かに震える、その律動。
私の時間が、止まっているような錯覚をする。
ハイヒールの音で我に返った。ベンチの前を、ヒールの女性が横切っていく。私は無意識に視線を動かし、女性の背中を見送ったあと颯介に目をやり硬直した。
颯介が私を見ていた。
顔に血が上る。どうしよう、と思ったがすぐに口が動かなかった。
颯介は無表情だったが――今思えば驚くべきことだけれど――一瞬だけバツが悪そうに口の端を持ち上げ、
「……面目無い」
と、一言告げた。
それが私の初恋だった。
「理央さん、どうかしました?」
リビングから平井の声がする。私はつとめてゆっくり立ち上がり、拾ったスプーンをシンクに出した。
「いえ、なんでもないです」
私は微笑んでいた。人差し指と親指の腹が、ひりひりと痛む。火傷している。しかし、冷やす気にはならなかった。
私は新しいスプーンでアイスクリームをすくいあげ、タルトタタンに添えた。アイスクリームは少しだけ溶け、とろりとクリーム色がとろける。
なにも、なにひとつ焦ることなんてないのだ。彼の妻は私一人なのだから。
私は皿を持って、ひとつ大きく息を吸った。胸を張り、口角を引き上げる。
「おまたせしてごめんなさい」
これが私なのだ。
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