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共犯者2
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周りの空気とあまりにも馴染まない彼女に、俺はすぐに気が付いた。煙草が吸えるそれだけで選んだ喫茶店だった。俺はゆっくりと一本を味わった後、席を立った。
近づいても、彼女は俺に気が付いていないようだった。窓の外をぼうっと見つめている。その先に誰かを探しているふうでもない。単に、時間を持て余しているという感じだった。
俺は彼女の向かいに腰を下ろした。
「理央さん」
名前を呼ばれ、弾かれたように彼女がこちらをみる。驚きの表情は一瞬だった。
「平井さん……偶然ですね」
「僕も驚きました。こんなところで、待ち合わせですか?」
そうではないだろう、と思いながら尋ねると、彼女は困ったように眉を下げた。
「いえ、丁度すっぽかされた所で……」
「颯介ですか?」
彼女は頷くと、手元のカップに口をつけた。
「今日ストックホルムから戻る予定だったんですけど、なんでもずっと会いたかった人とアポが取れたとかで……」
「それは酷いな。せめてもう少し早く連絡すればいいのに、あいつも」
俺の言葉に彼女はいいえ、と首を振った。
「連絡は、昨日には受けていたんです。でも、あの人が戻ると思っていたので、ランチにレストラン予約してしまって……。なかなか予約できないお店に無理を言ったものですから、いまからキャンセルするのも申し訳なくて」
俺は理央の指先をみつめていた。白い指、それを、彼女は堪えるようにキュッと握りしめている。
颯介の代わりに友人を誘ったが、みんな振られてしまって、と力なく言う声に、俺は直感的に嘘だろうと思った。
「俺でよければ、付き合いましょうか」
「え?」
理央は、ぽかんと俺を見つめる。俺はなんでもない事のように、軽くひとつ頷いた。
「あぁ、いえ。もちろん無理にとはいいませんけど」
いいながら、きっとこの女は断らないだろうと思っていた。理央は僅かに逡巡したが、すぐにふわりと目元を緩める。
「そんな、助かります。ありがとうございます」
□□□
これ、岡野くんに渡してほしいの。
そう言ってきたクラスメイトは、決して美人な類ではなかった。たしか成績はいいけれど、どちらかといえば地味で目立たない女だ。
俺はそれを快く引き受けた。受け取った手紙に几帳面に書かれた宛名。俺の友人の名前だ。
馬鹿なやつ、と俺は心の中で呟いた。颯介はお前に、微塵も興味はないよ。しかしそう伝えなかったのは、曲がりなりにも俺は生徒会役員で、この学校の中での役割を、それなりにこなす意思があったからだ。勉強ができて、人望があって、ついでに結構顔もいい俺みたいなやつは、クラスメイトにお願いごとをされて嫌な顔なんて絶対にしないものだ。
俺は放課後、図書館の書架の間でその封筒を開け、中身に目を通した。つまらないラブレターだ。凡庸で捻りがない。それに、颯介のことを何一つ分かってない。
俺はそれをビリビリに破いてゴミ箱に捨てた。
ああいう輩が一番嫌いだった。
内向的で友人すらまともに作れないくせに、勝手に自分と颯介は同類なのだと勘違いしている。
図書館の書架の間を抜けた先、壁際に並んだ机に見知った背中があった。
颯介は昨日髪を切ったらしい。項の後ろ髪は丁寧に揃えられていた。彼は本を開き、それを覗き込む姿勢のまま微動だにしていない。
俺はしばらく図書館の中をうろついていたが、本の背表紙を追うのにも飽きたので、彼の隣に座り、その横顔をみていた。窓から夕日がさして、彼の白い肌を色づかせる。紙が擦れる音。
ふいに颯介が、なにかに気がついたように顔を上げる。落ちていく夕陽のオレンジが遠くなり、時間の経過を自覚したようだ。本を閉じ横を向いて、そこで初めて俺に気がつく。
「平井」
俺はへらりと笑った。
「よぉ」
「声くらいかければいいのに」
「まったく、お前の集中力羨ましいよ」
俺はいいながら、立ち上がって鞄を持つ。
「それ、借りるの」
尋ねると、彼は表情を動かさず首を振った。
「家にあるから。どうしても気になるところがあって、読み返していただけ」
そういうと彼はその分厚い本を書架に戻し、図書館を出た。
遠くグラウンドから、運動部の掛け声が聞こえる。俺たちは連れ立って正門から外を出た。行き交う生徒の中に、さっき俺に手紙を渡してきた女生徒をみつけ、俺は一瞬だけ顔を顰めた。
彼女は何か言いたげな顔で俺を見つめている。その物ほしげな顔に、俺は嗤った。
「なあ、颯介、あの子、お前に話があるって」
俺が声をかけると、颯介が立ち止まってそちらをみる。女生徒が気がついて、俺たちに近づいてくる。
「岡野くん、あの、手紙……読んでくれた?」
あたりは少しずつ薄暗くなってきていたが、彼女の顔には赤みが差しているのが分かった。颯介は相変わらず無表情のまま、彼女の言葉に微かに首を傾ける。
「手紙……? というか、きみ、だれ?」
女は硬直していた。俺たちの特進クラスは三十人にも満たない。そのクラスメイトの顔でさえ、颯介はまともに覚えていないのだ。
俺は笑いを堪えるので必死だった。それも確か彼女は、クラスで十位以内には入る成績のはずだ。まさか、自分のことを知らないなどということがあるとは、思っていなかっただろう。
「ごめん、ぼくたち帰るから」
硬直する女に、颯介が一言そう告げて歩き出す。別に気まずいとさえ思っていないだろう。岡野颯介という男には、そういう他人に対する共感が欠落していた。
振り向くと、彼女はその場で立ち尽くして動かなかった。自分の恋心が、どれほど無謀で、身の程を知らなかったかようやく理解したらしい。
「颯介、お前、クラスメイトの顔くらい覚えた方がいいんじゃない?」
俺が思ってもないことを言うと、彼が視線を動かして俺を見る。
「なぜ?」
「なぜって……そうだな。もしかしたらその中に、未来の伴侶がいるかもしれないし」
俺の言葉に、彼は僅かに目元を緩めた。どうやら、俺の冗談は通じたらしかった。
「ミライノハンリョ」
彼はオウム返しに言うと、僅かに口の端を持ち上げた。
「古風な言い方をするね」
俺はこうして颯介と他愛ない言葉を交わす度、どうしようもなく満たされた気分になる。
いままで、何人も女の子と付き合ったことはあったが、誰にもこんな気持ちにはならなかった。これが恋心だというのなら、俺にとってこれが初恋だろう。
誰にも言えない、叶わない恋。
「そんなんじゃ、将来オッサンになっても独り身だぞ」
クラスメイトの顔くらい覚えろ、と笑いながら親友に忠告し、その実俺は自分の言葉で薄らと傷付いている。
俺とあの女生徒に、どんな差があるというのだろう。叶わないという意味ではまったく大差ないのだ。
「そうかもね」
颯介は興味なさそうに、同意だけ示した。
しかしそういっていた颯介は、一年前結婚した。その女が、いまは俺の向かいに座っている。
理央が予約したフレンチは、落ち着いていて、こじんまりとしたいい店だった。ランチのコースと、それに合わせたワイン。代官山の閑静な住宅地の中にあり、昼間だと言うのに、やけに静かだ。
大きな窓から、中庭が見える。中庭を囲うようにテーブルは並べられていて、そうしてみると窓が額縁のように、中庭で雨に優しく打たれる緑を切り取っていた。
理央はあまり食欲がないらしく、ぼんやりと庭を眺めている。
手入れの行き届いた艶やかな髪が、今日はアップにまとめられていた。白い首が、折れそうなほど細い。颯介と並ぶと、どちらも作り物めいている。お似合いのご夫婦ですね、と、二人で歩く姿に誰もが言った。それを聞くたびに、俺の中では怒りとも憎悪ともつかない感情が、ゆっくりと育ち続けていた。俺の中で長く長く押し固められていた恋心は、もう歪になっていたのだと思う。
食事を終えたあと、気分が良くないという理央を家まで送り、俺は、初めてこの女を抱いた。
□□□
颯介との結婚生活は、私にとって幸せとはいいがたかった。私は彼を愛していたが、彼は私など眼中に無いのだ。新婚当初、私が誘って幾度かセックスをしたが、彼はそういう行為をあまり好んではいなかった。そうして、半年後にはもう、私たちは口付けさえ交わさなくなったのだ。
彼を嫌いになれたらどれだけいいだろう。私を見ない男など、捨ててしまえばいい。
そう思っても、ある日、海外出張から戻った颯介が、少し困ったように小さな指人形を「お土産です」と手渡してくる時、ごく稀に彼が寝坊した朝、声をかけに行くとむにゃむにゃと寝ぼけて意味のわからない寝言を言っている時、私は彼のそばにいる幸せを噛み締めてしまう。指人形なんて、嬉しくもなんともないのに、私はいまだにそれを宝物のように、私だけが使う化粧台の引き出しに隠していた。
平井とどうしてセックスをしてしまったのか、私にはよく分からなかった。単に、颯介から愛されないさみしさを埋めたかったのかもしれないが、相手が平井なのは、自分でもどうかしていたと思う。
いや、平井だからしてしまったのか。
彼は私に似ていた。いつも笑顔の仮面をつけて、内心はほとんどの他人を馬鹿にしている。色んな面で、恐らくかなり恵まれている人種なのに、二人とも一番欲しいものが手に入らない。
とどのつまり、お互い、自己憐憫しているのだ。
平井はセックスも上手かった。彼が射精するとき、その目に微かに宿った暗い色をみて、私はこの男に、ある種のいとおしさを感じたのだ。私を抱いて、無意識に自己嫌悪する男が、私にはとても愛らしかった。
それまで私は彼が嫌いだった。ことある事に我が家に顔を出して、親しげに颯介に構う。私の持っていない欲しいものを、彼が持っていると思っていた。
しかし多分そうでは無いのだ。私は、彼の中の恋心を思う。きっと長い長い間温められたそれはもう、実ることなく腐り落ちている。そう思うと、一層憐れだった。
平井はセックスのあとは、いつもと違って酷く寡黙だった。ベッドに座って静かに煙草を吸う、その背中に私がつけた爪痕がある。私はシーツにくるまったまま、慣れない煙草の匂いを嗅いでいた。
私たちを繋ぐのは、ひとりの男への恋心だけだ。彼は私がそれに気づいているとは思ってないだろう。私はひっそりと笑った。平井はなにもしらないまま、私の共犯者になった。
近づいても、彼女は俺に気が付いていないようだった。窓の外をぼうっと見つめている。その先に誰かを探しているふうでもない。単に、時間を持て余しているという感じだった。
俺は彼女の向かいに腰を下ろした。
「理央さん」
名前を呼ばれ、弾かれたように彼女がこちらをみる。驚きの表情は一瞬だった。
「平井さん……偶然ですね」
「僕も驚きました。こんなところで、待ち合わせですか?」
そうではないだろう、と思いながら尋ねると、彼女は困ったように眉を下げた。
「いえ、丁度すっぽかされた所で……」
「颯介ですか?」
彼女は頷くと、手元のカップに口をつけた。
「今日ストックホルムから戻る予定だったんですけど、なんでもずっと会いたかった人とアポが取れたとかで……」
「それは酷いな。せめてもう少し早く連絡すればいいのに、あいつも」
俺の言葉に彼女はいいえ、と首を振った。
「連絡は、昨日には受けていたんです。でも、あの人が戻ると思っていたので、ランチにレストラン予約してしまって……。なかなか予約できないお店に無理を言ったものですから、いまからキャンセルするのも申し訳なくて」
俺は理央の指先をみつめていた。白い指、それを、彼女は堪えるようにキュッと握りしめている。
颯介の代わりに友人を誘ったが、みんな振られてしまって、と力なく言う声に、俺は直感的に嘘だろうと思った。
「俺でよければ、付き合いましょうか」
「え?」
理央は、ぽかんと俺を見つめる。俺はなんでもない事のように、軽くひとつ頷いた。
「あぁ、いえ。もちろん無理にとはいいませんけど」
いいながら、きっとこの女は断らないだろうと思っていた。理央は僅かに逡巡したが、すぐにふわりと目元を緩める。
「そんな、助かります。ありがとうございます」
□□□
これ、岡野くんに渡してほしいの。
そう言ってきたクラスメイトは、決して美人な類ではなかった。たしか成績はいいけれど、どちらかといえば地味で目立たない女だ。
俺はそれを快く引き受けた。受け取った手紙に几帳面に書かれた宛名。俺の友人の名前だ。
馬鹿なやつ、と俺は心の中で呟いた。颯介はお前に、微塵も興味はないよ。しかしそう伝えなかったのは、曲がりなりにも俺は生徒会役員で、この学校の中での役割を、それなりにこなす意思があったからだ。勉強ができて、人望があって、ついでに結構顔もいい俺みたいなやつは、クラスメイトにお願いごとをされて嫌な顔なんて絶対にしないものだ。
俺は放課後、図書館の書架の間でその封筒を開け、中身に目を通した。つまらないラブレターだ。凡庸で捻りがない。それに、颯介のことを何一つ分かってない。
俺はそれをビリビリに破いてゴミ箱に捨てた。
ああいう輩が一番嫌いだった。
内向的で友人すらまともに作れないくせに、勝手に自分と颯介は同類なのだと勘違いしている。
図書館の書架の間を抜けた先、壁際に並んだ机に見知った背中があった。
颯介は昨日髪を切ったらしい。項の後ろ髪は丁寧に揃えられていた。彼は本を開き、それを覗き込む姿勢のまま微動だにしていない。
俺はしばらく図書館の中をうろついていたが、本の背表紙を追うのにも飽きたので、彼の隣に座り、その横顔をみていた。窓から夕日がさして、彼の白い肌を色づかせる。紙が擦れる音。
ふいに颯介が、なにかに気がついたように顔を上げる。落ちていく夕陽のオレンジが遠くなり、時間の経過を自覚したようだ。本を閉じ横を向いて、そこで初めて俺に気がつく。
「平井」
俺はへらりと笑った。
「よぉ」
「声くらいかければいいのに」
「まったく、お前の集中力羨ましいよ」
俺はいいながら、立ち上がって鞄を持つ。
「それ、借りるの」
尋ねると、彼は表情を動かさず首を振った。
「家にあるから。どうしても気になるところがあって、読み返していただけ」
そういうと彼はその分厚い本を書架に戻し、図書館を出た。
遠くグラウンドから、運動部の掛け声が聞こえる。俺たちは連れ立って正門から外を出た。行き交う生徒の中に、さっき俺に手紙を渡してきた女生徒をみつけ、俺は一瞬だけ顔を顰めた。
彼女は何か言いたげな顔で俺を見つめている。その物ほしげな顔に、俺は嗤った。
「なあ、颯介、あの子、お前に話があるって」
俺が声をかけると、颯介が立ち止まってそちらをみる。女生徒が気がついて、俺たちに近づいてくる。
「岡野くん、あの、手紙……読んでくれた?」
あたりは少しずつ薄暗くなってきていたが、彼女の顔には赤みが差しているのが分かった。颯介は相変わらず無表情のまま、彼女の言葉に微かに首を傾ける。
「手紙……? というか、きみ、だれ?」
女は硬直していた。俺たちの特進クラスは三十人にも満たない。そのクラスメイトの顔でさえ、颯介はまともに覚えていないのだ。
俺は笑いを堪えるので必死だった。それも確か彼女は、クラスで十位以内には入る成績のはずだ。まさか、自分のことを知らないなどということがあるとは、思っていなかっただろう。
「ごめん、ぼくたち帰るから」
硬直する女に、颯介が一言そう告げて歩き出す。別に気まずいとさえ思っていないだろう。岡野颯介という男には、そういう他人に対する共感が欠落していた。
振り向くと、彼女はその場で立ち尽くして動かなかった。自分の恋心が、どれほど無謀で、身の程を知らなかったかようやく理解したらしい。
「颯介、お前、クラスメイトの顔くらい覚えた方がいいんじゃない?」
俺が思ってもないことを言うと、彼が視線を動かして俺を見る。
「なぜ?」
「なぜって……そうだな。もしかしたらその中に、未来の伴侶がいるかもしれないし」
俺の言葉に、彼は僅かに目元を緩めた。どうやら、俺の冗談は通じたらしかった。
「ミライノハンリョ」
彼はオウム返しに言うと、僅かに口の端を持ち上げた。
「古風な言い方をするね」
俺はこうして颯介と他愛ない言葉を交わす度、どうしようもなく満たされた気分になる。
いままで、何人も女の子と付き合ったことはあったが、誰にもこんな気持ちにはならなかった。これが恋心だというのなら、俺にとってこれが初恋だろう。
誰にも言えない、叶わない恋。
「そんなんじゃ、将来オッサンになっても独り身だぞ」
クラスメイトの顔くらい覚えろ、と笑いながら親友に忠告し、その実俺は自分の言葉で薄らと傷付いている。
俺とあの女生徒に、どんな差があるというのだろう。叶わないという意味ではまったく大差ないのだ。
「そうかもね」
颯介は興味なさそうに、同意だけ示した。
しかしそういっていた颯介は、一年前結婚した。その女が、いまは俺の向かいに座っている。
理央が予約したフレンチは、落ち着いていて、こじんまりとしたいい店だった。ランチのコースと、それに合わせたワイン。代官山の閑静な住宅地の中にあり、昼間だと言うのに、やけに静かだ。
大きな窓から、中庭が見える。中庭を囲うようにテーブルは並べられていて、そうしてみると窓が額縁のように、中庭で雨に優しく打たれる緑を切り取っていた。
理央はあまり食欲がないらしく、ぼんやりと庭を眺めている。
手入れの行き届いた艶やかな髪が、今日はアップにまとめられていた。白い首が、折れそうなほど細い。颯介と並ぶと、どちらも作り物めいている。お似合いのご夫婦ですね、と、二人で歩く姿に誰もが言った。それを聞くたびに、俺の中では怒りとも憎悪ともつかない感情が、ゆっくりと育ち続けていた。俺の中で長く長く押し固められていた恋心は、もう歪になっていたのだと思う。
食事を終えたあと、気分が良くないという理央を家まで送り、俺は、初めてこの女を抱いた。
□□□
颯介との結婚生活は、私にとって幸せとはいいがたかった。私は彼を愛していたが、彼は私など眼中に無いのだ。新婚当初、私が誘って幾度かセックスをしたが、彼はそういう行為をあまり好んではいなかった。そうして、半年後にはもう、私たちは口付けさえ交わさなくなったのだ。
彼を嫌いになれたらどれだけいいだろう。私を見ない男など、捨ててしまえばいい。
そう思っても、ある日、海外出張から戻った颯介が、少し困ったように小さな指人形を「お土産です」と手渡してくる時、ごく稀に彼が寝坊した朝、声をかけに行くとむにゃむにゃと寝ぼけて意味のわからない寝言を言っている時、私は彼のそばにいる幸せを噛み締めてしまう。指人形なんて、嬉しくもなんともないのに、私はいまだにそれを宝物のように、私だけが使う化粧台の引き出しに隠していた。
平井とどうしてセックスをしてしまったのか、私にはよく分からなかった。単に、颯介から愛されないさみしさを埋めたかったのかもしれないが、相手が平井なのは、自分でもどうかしていたと思う。
いや、平井だからしてしまったのか。
彼は私に似ていた。いつも笑顔の仮面をつけて、内心はほとんどの他人を馬鹿にしている。色んな面で、恐らくかなり恵まれている人種なのに、二人とも一番欲しいものが手に入らない。
とどのつまり、お互い、自己憐憫しているのだ。
平井はセックスも上手かった。彼が射精するとき、その目に微かに宿った暗い色をみて、私はこの男に、ある種のいとおしさを感じたのだ。私を抱いて、無意識に自己嫌悪する男が、私にはとても愛らしかった。
それまで私は彼が嫌いだった。ことある事に我が家に顔を出して、親しげに颯介に構う。私の持っていない欲しいものを、彼が持っていると思っていた。
しかし多分そうでは無いのだ。私は、彼の中の恋心を思う。きっと長い長い間温められたそれはもう、実ることなく腐り落ちている。そう思うと、一層憐れだった。
平井はセックスのあとは、いつもと違って酷く寡黙だった。ベッドに座って静かに煙草を吸う、その背中に私がつけた爪痕がある。私はシーツにくるまったまま、慣れない煙草の匂いを嗅いでいた。
私たちを繋ぐのは、ひとりの男への恋心だけだ。彼は私がそれに気づいているとは思ってないだろう。私はひっそりと笑った。平井はなにもしらないまま、私の共犯者になった。
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