【完結】残さず食べろ

麻田夏与/Kayo Asada

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5.暗転、そして

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 ふとマデュが目が覚めたとき、まだ真夜中だった。
(何だ?)
 身体が勝手に、最大級の警戒をしている。布団代わりのぼろぼろの布きれを跳ね飛ばす。立ち上がって、何が来てもいいように、身構えた。すると
「にゃあ」
 猫の鳴き声がした。
 まるで、こちらに懐くような。それでいて、馬鹿にしているような。
 ほとんど闇に沈んだ牢の中目を懲らすと、闇よりもっと黒い、痩せた黒猫がいた。
「……迷い猫、か?」
 咄嗟に警戒を解きかけるが、
「流石だな、マデュくん。僕の気配に気付くなんてね」
 どこかから声がした。少年のような、ハイトーンな声が。
 マデュは振り返り、四隅に目を遣って、周囲に誰もいないのを確認する。この声はどこから。まさか。
 猫の方から、ふふふ、と愉快そうな笑い声。改めてそちらに向くと。
「僕、猫のシャルーン。悪魔王やってます、よろしく」
「……何で猫が喋ってんだ」
「僕が凄いからだよ」
 えへへ、と人間のように笑う猫が奇妙で、なんだか寒気がした。
 それに『悪魔王』と。猫は名告った。悪魔王、それは、地獄を統べる王の名称ではないのか。何故そんなすごい存在が、マデュの前に現れるのだろう。
「時にマデュくん。君はもう、ここに来て一年だね。このままじゃ、消えちゃうよ、きみ」
「……言われなくても知ってるぜ。もう、最近諦め気味」
「そんなきみにいいことを教えてあげよう。本当の悪魔になれば、永遠に生きていられるよ」
 マデュの身の上を『悪魔王』はもう承知しているらしい。これが話に聞く、『悪魔からの誘惑』か。乗ってしまえば魂を食われると聞く。ここは拒絶するに限る。
「……そんなもん、興味ねえよ。俺はこんなところに落とされるくらいの悪人だぜ。消えちまった方が世の中のためだろ。それにお前、俺の魂を食う気だろ。そんな誘いにゃ乗らねえよ」
「魂を食べるなんて下品なことしないよ。僕は親切で言ってるんだ。きみの大好きなユイエにもう会えなくなるけど、本当にいいの」
 黒猫は。猫なのに、笑っているのが分かる表情をした。
 マデュは硬直する。
 この悪魔に心の底を撫ぜられた気がして。
「え?」
「きみ、本当はユイエのこと大好きだろ。ユイエもきみのことが好きだよ。きみが悪魔になりさえすれば、ふたりでこんな場所から逃げ出すこともできる。悪魔の翼があれば、ひとっ飛びだよ」
 心が、かき混ぜられる。
 寒い、と思うのに、頭だけ熱い。思考がぐるぐる回る。
 そんなはずはない、あのユイエが、マデュを好きなんて、そんなことがあるはずがない。
「嘘だ……ユイエが俺を好きだ、なんて」
「きみが好きなことは否定しないんだね」
 ふふっと笑った猫が、膝に乗ってくる。その言葉は、マデュの混乱を更なるものにした。
(俺がユイエを──好き)
 そんなのは困る。だというのに何故か、しっくりときた。あの無表情を思い浮かべると、切なくなる。胸の奥が言葉にならない何かを叫んで、ユイエのことしか考えられなくなる。
「どうする、マデュくん。僕なら、きみを悪魔にして、ユイエとふたりでしあわせにしてやることができる」
「……」
「答えは一度しか聞かないよ」
 ユイエ。
 憎いはずなのに。
 彼が、あの手が、もっと欲しい。
「…………俺を、悪魔にしてくれ」

*

 じとりと。
 這い寄るような嫌な気配があった。
 暗い、暗い。この空気は知っている。悪魔の纏うそれだ。
 またシャルーンかと思った。
 部屋で書物を読んでいたユイエは、部屋中を見回すのに、あの猫の姿はどこにもない。
 そのことに、何故か焦燥を感じた。何故だかマデュのことが気にかかって仕方がない。
 こんな時間だが、『飼育場』を見回ってこよう。そう思った瞬間だった。
(マデュ?)
 マデュの魂が別の色に染まったのを感じた。
 黒ではない。
 まるで、マデュの目の色のような、美しい紫紺だ。
 それが、『飼育場』から一瞬で消える。
「マデュ!?」
 彼の牢へと一足で飛ぶ。するとそこには、漆黒の猫だけが居た。けらけらと、こちらを嘲笑いながら。
「おまえの予想は外れたよ、ユイエ。マデュくんは悪魔になってくれた」
「嘘だ」
 マデュが、『悪』に染まることのなかったあの魂が、そんな愚挙を起こすはずはない。だが、この現実は。
「ふふっ、面白い。マデュくんもおまえと同じ事を言ったよ『嘘だ』ってさ」
「…………マデュに何を言った」
 あのマデュが惑うほどのことを、この口達者な悪魔は告げたのだろう。記憶のないマデュがそこまで執着するものがあると思えないのに。
「さてね。さあ、これでおまえは愛しのマデュくんと一緒に居られなくなった。それどころかさ、あの子、気付いてないんだ。もうあの魂、僕の思いどおりにしか動けないってことをさ。可笑しいよね」
 薄々、この悪魔の意図が分かってきた。マデュを餌にユイエを操るつもりなのだろう。こうなればユイエはもう、本来あまり好まない行動を取るしかない。
「マデュを返せ。消されたくなければ」
「お、実力行使ってやつ? いいけど、こんな場所で僕とおまえが戦ったら、ここいらの魂、全部潰れちゃうよ」
 けらけら、けらけら。
 響く哄笑が、周りの『魂の悪魔』の目を覚まさせた気配がある。そうして、それが恐怖に染まるのも。あと幾許もない魂とはいえ、理不尽に消してしまうのはユイエは嫌だった。
「とりあえず、僕の地獄へ招待するよ。来てくれるね」
 黒猫の後ろに、闇色の球体が浮かぶ。
 もう、選択肢は一つだ。ユイエは地獄へ続く道を潜った。

*

(……あれ、俺)
 目を覚ましたマデュは、ぼうっとする視界の黒に驚いた。
 あの飼育場より、地の底の果てより、暗い。
 こんな深い闇は見たことがない。
 ぞっとした。
 逃げたくなって、動こうとすると、違和感があった。
 手足、それに背中に生えた何かを全て、何かに絡め取られているような気がして、マデュは後ろを振り返った。
「ひっ……!」
 粘液。
 そうとしか言いようのない、黒と血の色の斑の粘液に、手足と、自分に生えているらしき悪魔の羽が浸かっている。藻掻こうとするが、動けば動くほど、粘液に絡め取られる。
(俺、本当に悪魔に……何でこんな場所にいるんだ)
 あの猫の言うことを聞いたのが間違いだったのだろうか。
 そう思った瞬間、黒い光が瞬いた。目を上げると。
「……ユイエ」
「マデュ」
 ユイエの綺麗な紺青の瞳が、こちらを見ていた。
 また会えたのが嬉しくて。こんな怖い場所にいるのに、何だかそれを忘れてしまいそうになった。
 でも、何故天使たるユイエが、こんな場所に姿を現したのだろう。
 マデュは。
 悪魔になって、そっとユイエを見守るつもりだった。『飼育場』のある地の底の果ては、天国領とはいえ、地獄に近い。だから、悪魔になれば、その姿を眺めながら、愛しながら、生きられるんじゃないかと思ったのだ。それが、どうして、彼はここに。
「おーい、王様ぼくを放ってふたりで会話しないでくれる?」
 真横から『飼育場』で聞いた猫の声がした。そちらを見れば、青白い皮膚に、髪と爪、纏うマントも真っ黒な少年がいた。
「シャルーン、マデュを解放しろ」
「嫌だよ。折角おまえをここまで連れ出せたのにさ。分かるよね? あのおまえの愛しい子は、このままじゃ粘液に溶かされて消えちゃうよ」
「は!? お前、永遠に生きられるって言った……」
 マデュの困惑に、少年は高笑いをした。
「本当に馬鹿だねえ、マデュくん。悪魔がそんな口約束、守ると思うの」
 嵌められた。それに気が付いたとき、さあっと体内の水が全て冷めたような気がした。
 マデュは利用されたのだろう。マデュには理解できない、何かのために。
 だから、ユイエだけでも逃がそうと、口を開きかけた、その次に。
「……分かった。マデュを離せ。悪魔になってやる」
 淡々としたユイエの声が地獄を震わせた。後悔がマデュを引き裂く。
「やった! 感謝するよ、お馬鹿なマデュくん」
 その瞬間、ユイエの背中に真っ黒なコウモリの形の羽が生えた。そこに生えているべきは天使の白い羽なのに。
 そう思った途端、ひどい頭痛をマデュを襲った。記憶がなだれ込んでくる。
 人間だった頃のこと。
 ユイエと出会い、暮らした日々のこと。
 彼を庇って死んだのに、まるで悔やむことがなかったこと。
 天国で彼と話したこと。
 三つ編み、花かんざし。
 本当は、会えるのがいつも嬉しかったこと。
 そして、マデュを天国へ送ったために、ユイエは背中の白い羽を剥奪されたこと。
 その、愚直なまでにマデュを守ってくれる彼をきっと、本能で愛してしまった。
 そして今、ユイエは悪魔にまで堕ちた。
 マデュの記憶が戻ったのはきっと、彼が『天使の力』を使っていたのが、悪魔となったことで効力を失ったのだろう。
 ユイエは、全てを失った。
 マデュの所為で。
「何で…………何でだよ!」
 泣きたくなる。今まで泣いたことなんてないのに。
 苦しいと思ったそのとき。
 ユイエが、見せたことのない表情を見せる。──笑ったのだ。困ったように、だが、はっきりと。
「お前が好きだ、マデュ」
 目の前で、星が弾けたような。そんな気がした。
 声が出ない。身体の底から、甘い何かがせり上がってきて、呼吸さえ殺す。好きだった杏より、ずっと甘い。
(ユイエが、俺を、好き?)
 そう思うと、動かないはずの身体が震えた。ぞくぞくとして、高熱で、それでいて優しい気持ちが降ってくる。
 それを浴びたマデュは、くらくらして。
 ユイエの指が、唇が恋しくてたまらなくなった。
 今すぐ抱き締めて欲しい。こんな、暗い暗い、地獄にいるのに。
 天国に居た頃よりも、ずっとしあわせだ。
「おーい、ちょっと。僕を放ってラブシーンとか、頭どうかしてるの?」
「……シャルーン、これで満足か」
「ああ、大満足だね。これであの憎いおまえの弟から、勢力を盛り返せる。もう用済みだ、きみは。さよなら、マデュくん」
 目は閉じなかった。ユイエを見ていたかったから。だから、歪んだ少年の笑顔が、疑問のようなそれへと変わったのが分かった。
「何で? 粘液が動かない……!」
「……単に、俺の力の方が上だったようだな、シャルーン。地獄が俺を選んだ。『地獄王』として」
 耳を疑う。
 だが、ユイエはどこまでも冷静に見える。焦っているのは、少年とマデュ。
「嘘だ! ここは僕の地獄だぞ! おまえの思いどおりになんかなるはずが」
「もう俺の地獄だ、シャルーン。お前は見誤ったな、俺の力を。俺の力はキリエと同等だ。覚えていないのか? お前がキリエに領土を取られたことを。めでたい頭だ」
 少年の肩ががくがくと揺れる。この少年がユイエにそしてマデュにしたことを後悔しているのかもしれない。ユイエがこの少年を殺すんじゃないかとマデュは思った。
「待てユイエ、さすがに殺すのは」
 言いかけたところで、地獄全体を震わすような声がした。ユイエの、静かな声。
「お前に感謝する。マデュを悪魔にするなど、俺にはできなかったからな。だがお前が勝手にマデュに永遠の命を与えてくれた。その礼だ。殺しはしない、大人しくしていろ」
 背中の粘液がぱっと消えた。落下するはずが、そのままユイエに抱き留められる。
 温かい。嬉しい。愛おしい。そんな感情が溢れて、止め処ない。
「マデュ」
 ぎゅっと、強い腕に抱き締められて眩暈がした。しかし、急に耐えられない程の浮遊感があった。
「うわ、ああああ!」
 叫んで目を瞑った。ぐんぐん昇る。どんどん、空気が変わる。
 ふと上昇が止まり、そっと目を開けると、見覚えのある空。
 人間界の、『地上』の満月の夜空が、そこにあった。
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