4 / 7
3.
大好きな人に、嫌われていた。
最初からずっと、嫌われていた。
エトは、王宮内の自分の部屋に引き籠もり、絶え間なく涙を流している。
海の中では、涙は海水とすぐに混じってしまう。だからもうエトは、悲しいのか悔しいのかすら、分からなくなっていた。
(ユーリさん、笑ってくれてたのに)
それが全て嘘だった訳だ。
大好きな笑顔は偽りで、エトに本当に笑ってくれたことなんて、きっと一度もなかった。
最初に花をくれたのも、気紛れだったに違いない。エトが勝手に勘違いをして恋に落ちただけだ。
だから、ユーリは何も悪くないのだ。
今ちゃんと思い返してみれば、交尾の時はいつも、ユーリはエトを嘲笑っていた。
あれが、本音だったのだろう。
『無様でみっともない』と。
それがエトに抱いている感情の全てだったのだという気がした。
それなら抱くなんてしないでくれれば良かったのにと思い、そうしたら記憶が蘇ってきた──彼は『復讐だ』と言ったのだ。
(人魚の王族を、恨んでるって……言ってたな)
どういうことなのか、分からなかった。人魚が獣人に何かしたという話は聞いたことがない。
だがユーリは、『獣人は皆人魚の王族に恨みを抱いている』というような言い方をした。深海に引き籠もっていたエトが知らなくても、二族の間に何かあった可能性はある。
人魚王にも恨みを伝えておけとユーリは言った。
だから父に直接問い質そうかと思ったが、そこにエネリが入ってきた。
「エト、どうしたの……? ずっと、泣き声が響いてて、心配になって見に来ちゃった」
「エネリ姉さん……ありがとう」
エトはできるだけの笑顔を姉に向けた。エネリが表情を歪ませる。
「そんな、無理して笑わないでよ。何があったのか……聞いてもいい?」
「……うん」
エネリに全てを話した。
話している途中でやっぱり涙が出たけど、エネリが肩を抱いていてくれたので、正直に言葉にできた。
そうして、最後にユーリが『獣人は人魚の王族を恨んでいる』と。『復讐だ』と言われたことを告げる。
「姉さん、父上は、何か恨まれるようなことをしたの? ぼく、何も知らなくて……」
「そうね……きっと『魔族狩り』で母上が殺された後、人間に、人魚族だけは襲わないなよう圧力をかけたから、だと思うわ」
姉はひどく気まずそうにこちらを見た。そうして、手を握ってくれる。強く。
「エト。ここからはあなたにとって、とても辛い話になるわ。それでも聞きたい?」
「……うん。ぼく、ユーリさんのこと、全部知りたいから」
まっすぐに姉を見て、エトは頷いた。そんなエトに、エネリは項垂れながら、話を始めた。
「『魔族狩り』が始まった後、全ての人魚は王宮に避難するように父上が指示したの。集まってくる間にも沢山殺されたわ……それでも、ばらばらに殺されるよりはきっとましだった。でもエト、あなたとあなたの主治医だけは例外だったでしょう。深海に居なければいけなかったから」
エトの手を握った姉の手が、更に強くなる。そうして、その目が辛そうに、伏せられた。
「人間があなたのことを知ったのは、『魔族狩り』に遭った人魚を拷問して、離れて暮らしている王族が居ることを掴んだから、みたいね。あなたは狙われたわ。それを母上が聞いて……それで、王宮を飛び出してしまったの。そうして……すぐに殺されたわ」
エトに、まるで岩場に打ち付けられたような衝撃が走る。身体が動かなくて、深海の水に浸されているみたいに、寒い。
「嘘だ……」
エトにとって、他人のようだった『母』が、初めてかたちを持った。こんなときじゃなくたっていいのに。
「じゃあ、母上は、ぼくの所為で殺されたの……!?」
「あなたのせいじゃない! そうね……母上も迂闊だったのよ。きっと人間は、あなたが狙われている情報を故意に流して、私たちを罠に陥れるために」
「でも……でも……それは」
寒気が止まらない。だって、姉の言っていることはつまり。
「このことは、あなたが責任を感じるだろうと思って、今まで誰も話さなかったの。でも、本当に。エト、あなたの所為じゃないわ」
はっきりとそう告げてくるエネリだが、悔しげに唇を噛みしめた。
エトはもう、相槌も打てない。ただ、自分を責める気持ちだけが生じて、肩を押しつぶす。
「母上を殺されたのを知った父上は、これ以上なくお怒りだったわ。訃報を聞いた瞬間、玉座を離れて人間の議会に乗り込むくらいにはね。そうして……怒りのままに、父上は人魚族を守るための通告を言い渡したわ。それが……他の種族への『狩り』をひどくするなんて、そのときは思わなかったの」
その言葉を聞き終わったとき、エトは震えだした。凍ってしまいそうだ、心も身体も。
「ぼくの、所為で、……他の種族のみんなが?」
「エト、そうじゃないわ」
「ぼくの所為だろ! だからユーリさんはぼくを……ぼく、を……」
泣き崩れたエトを、エネリが抱き締めてくれる。
だが、涙は止まらないし、自責の気持ちもどうにもならなかった。
今すぐユーリに謝りたい。他の種族たちにも。
エトが深海で安楽の中療養していたときに、エトのせいで殺された者がたくさんいたのだ。
「ユーリさん……ユーリさんに、謝らなきゃ」
それだけ、脳裏に浮かんだ。
きっとユーリはこのことを知っていたから、エトに復讐をしたのだ。
だったら謝りたい。許してくれると思わない。だが、せめて謝罪だけは。
エトは水鏡の前に行き、魔法でユーリの姿を映す。
すると、ユーリが大勢の人間に囲まれて、引き攣った顔をしているところだった。見たこともない、ぎこちなさ。そして、何処か必死に見えた。
「ユーリ、さん?」
見ていたら、数人の人間が、売り物の花を水路に投げ入れ始めた。
(何が起きてるんだ!?)
今、呼びかけて声が届く魔法を使っては、不審に思われるだろう。
だからエトは、すぐに人間に変身して、ユーリのもとへ飛んだ。
*
あの人魚に復讐を遂げたのに、何となく晴れない気分だ。
しかし、仕事がある。いつも通りに祖父に運んでもらった花を準備をして、開店した。
「いらっしゃいませ!」
笑顔でそう呼び込みをして、いつものように売れる。
だが、一時間ほどしたときだった。客足が変化したのは。
声を掛けようとした馴染みの客が、隣の店に行く。最初に違和感を持ったのはそこだった。
そして次に、並びに店を構える知り合いの店員の男がやって来た。
「ユーリさん、もしかしてさ、隠してること、ない?」
作ったような笑顔で、そう訊いてきた。
ぴりぴりとした空気を感じる。悪意、疑念、そんなものを隠している気配がした。だからユーリは、とびっきりの笑顔で返した。
「特に思い当たりませんけれど」
しらばっくれたのに、相手が苛立ったのが分かる。すると。
「ユーリさんがさ、獣人だって噂、聞いたんだけど」
まさか。
咄嗟にエトのすがたが浮かんだ。
(あの人魚──俺のことを告げたな……!)
このタイミングで急に噂が広がるなんて、あの人魚に正体を知られたからとしか考えられない。まずいと思う。だが、確証がないからこの男は尋ねているのだろう。だから。
「そんなことはないですよ。僕はれっきとした人間です」
そう笑顔で突き放した。
「そうか。噂は所詮噂か。邪魔してすまなかったな」
男がすぐに引き下がったので、そのときは、すぐに大事になるだなんて考えなかった。今日だけは祖父母の花を売って、明日からしばらく姿を消すしかないと、そう思っていたのに。
午後になって、浮花市の市場長がやってきた。背後に市場の店主たちを連れて。想定外の自体に、ユーリの背中に冷や汗が伝う。だがそれを悟られる訳にはいかない。
「おや、市場長さん、どうかなさいましたか」
「いえね。ユーリさんが獣人、しかも兎の獣人族だという噂が広がっていましてね」
勿体振る男に苛々する。それに、『兎』が特に取り沙汰されたのは不愉快にもほどがある。
言いたいことは分かっている。『兎の獣人』は性欲が強い。そのため、謂れもなく性犯罪者のような目で見られるのだ。こちらにも、性交をする者を選ぶ権利くらいあるのに。
「……そんな事実はありません。何か証拠でもあるのですか」
「そうですね……昨日の晩は満月でしたか。ユーリさんは何処で何をなさってましたか?」
「家で寛いでいましたよ」
何でもないように首を傾げると、男が仔細ありげに笑った。
「満月の日に、決まって店を早じまいする理由は?」
「それは……」
長年言い訳を考え続けているが、今でもそれらしい回答を思い付かない箇所を突かれた。獣人は皆これに苦慮するのだ。
答えられずにいたのを良いことに、市場長はにたにたと笑みを湛えて、そうして突きつけてきた。
「こういう疑惑がある以上、人間だという証明ができるまで、店を閉めてくれないでしょうか」
「……今日だけはいいでしょう。売り物がありますし。祖父母が作った大事な花なんです」
「許されません。すぐに店を閉めなさい」
市場長の言葉を合図に、背後に控えていた店主たちが、店の花を水路へと投げた。怒りが突沸する。ユーリは投げた人間を引っ掴んで、「やめろ」と叫んだ。すると。
「こんなに野蛮なのは、獣人に違いありませんな。ここから出て行きなさい」
「そうだ! 乱暴な獣人は山へ帰れ!」
「兎なんて、生殖欲の塊だろ? いつ誰が強姦されるかわかったもんじゃない」
口々にそう言われる。
悪意。悪意。悪意。
流れ込んでくるそれに窒息しそうになる。
その中には、
「ユーリが何をしたってんだ。何もしてないのに一方的に追い出すなんて、野蛮なのはどっちだよ」
と大声を張ってくれる者もいた。だが、ほとんどの者はユーリに敵意を向けている。頭がぐらぐらとしてくる。しかし、そこに。
「そのひとは獣人じゃありません!」
少年のハイトーンな声が、騒ぎを引き裂くように響いた。
「昨日の夜、ぼくはそのひとと一緒に居ました。僕が証人になります。そのひとから手を離してください」
人垣を掻き分ける、声の方を見れば。
「エト君……」
どうしてここに彼が居るのだろう。
彼がこの騒ぎの出元だと思ったのに、当のその顔が、怒りに満ちている。
あの純粋な少年が自分を偽れる訳はない。
(エトが噂を流したんじゃないのか……?)
エトの登場でその場はざわざわと意見が二分される。「何処の誰かも分からない子供の意見を聞くのか」という声。「証人がいるのに疑う訳にはいかないだろう」という声。騒然として、誰もが誰もを疑っている。
その騒ぎを収めようとしたのだろう、更に声を張り上げようと口を開いたエトに、殴りかかった者がいた。
「……ミレ!」
「何でてめえがここにいるんだよ、人魚! てめえが全部悪いんだろ!」
ミレに顔を、腹を殴られて身体を縮こめているエトに、ユーリは混乱する。
周りの人間は「人魚?」「人魚だと!?」と大騒ぎだ。
何が起きている、そう思った時に。──ふと気が付いた。
道路に倒れ伏したエトを踏み、ミレが目の前にやって来る。
「ユーリ、俺と逃げようよ。もうこんな場所嫌になっただろ。俺と他の国に行って花屋やろうよ」
「……お前か、ミレ。噂を流したのは」
エト以外にユーリの正体を勘付いている者。ミレしか考えられない。
「違う! あの人魚が……」
もう彼の言葉に耳は貸さない。それに、ユーリの心は決まった。
大騒ぎの中、ミレや人間たちを押しのけて、エトの側に寄る。
「ユーリ、さん……ごめんなさい、ぼくの所為で」
痣のできてしまいそうな腫れた顔だ。ユーリはひどく悲しくなった。
何か言いかけた少年を腕に抱き上げて、走り出した。当てなんかないけれど、遠くへ。
別に、エトを好きになった訳じゃない。
でも、恩を受けたまま返さないのでは、兎の獣人の王子の名が廃る。
自分の名誉を守るための行動だとユーリは自分に言い聞かせて、走り、走り、走った。
最初からずっと、嫌われていた。
エトは、王宮内の自分の部屋に引き籠もり、絶え間なく涙を流している。
海の中では、涙は海水とすぐに混じってしまう。だからもうエトは、悲しいのか悔しいのかすら、分からなくなっていた。
(ユーリさん、笑ってくれてたのに)
それが全て嘘だった訳だ。
大好きな笑顔は偽りで、エトに本当に笑ってくれたことなんて、きっと一度もなかった。
最初に花をくれたのも、気紛れだったに違いない。エトが勝手に勘違いをして恋に落ちただけだ。
だから、ユーリは何も悪くないのだ。
今ちゃんと思い返してみれば、交尾の時はいつも、ユーリはエトを嘲笑っていた。
あれが、本音だったのだろう。
『無様でみっともない』と。
それがエトに抱いている感情の全てだったのだという気がした。
それなら抱くなんてしないでくれれば良かったのにと思い、そうしたら記憶が蘇ってきた──彼は『復讐だ』と言ったのだ。
(人魚の王族を、恨んでるって……言ってたな)
どういうことなのか、分からなかった。人魚が獣人に何かしたという話は聞いたことがない。
だがユーリは、『獣人は皆人魚の王族に恨みを抱いている』というような言い方をした。深海に引き籠もっていたエトが知らなくても、二族の間に何かあった可能性はある。
人魚王にも恨みを伝えておけとユーリは言った。
だから父に直接問い質そうかと思ったが、そこにエネリが入ってきた。
「エト、どうしたの……? ずっと、泣き声が響いてて、心配になって見に来ちゃった」
「エネリ姉さん……ありがとう」
エトはできるだけの笑顔を姉に向けた。エネリが表情を歪ませる。
「そんな、無理して笑わないでよ。何があったのか……聞いてもいい?」
「……うん」
エネリに全てを話した。
話している途中でやっぱり涙が出たけど、エネリが肩を抱いていてくれたので、正直に言葉にできた。
そうして、最後にユーリが『獣人は人魚の王族を恨んでいる』と。『復讐だ』と言われたことを告げる。
「姉さん、父上は、何か恨まれるようなことをしたの? ぼく、何も知らなくて……」
「そうね……きっと『魔族狩り』で母上が殺された後、人間に、人魚族だけは襲わないなよう圧力をかけたから、だと思うわ」
姉はひどく気まずそうにこちらを見た。そうして、手を握ってくれる。強く。
「エト。ここからはあなたにとって、とても辛い話になるわ。それでも聞きたい?」
「……うん。ぼく、ユーリさんのこと、全部知りたいから」
まっすぐに姉を見て、エトは頷いた。そんなエトに、エネリは項垂れながら、話を始めた。
「『魔族狩り』が始まった後、全ての人魚は王宮に避難するように父上が指示したの。集まってくる間にも沢山殺されたわ……それでも、ばらばらに殺されるよりはきっとましだった。でもエト、あなたとあなたの主治医だけは例外だったでしょう。深海に居なければいけなかったから」
エトの手を握った姉の手が、更に強くなる。そうして、その目が辛そうに、伏せられた。
「人間があなたのことを知ったのは、『魔族狩り』に遭った人魚を拷問して、離れて暮らしている王族が居ることを掴んだから、みたいね。あなたは狙われたわ。それを母上が聞いて……それで、王宮を飛び出してしまったの。そうして……すぐに殺されたわ」
エトに、まるで岩場に打ち付けられたような衝撃が走る。身体が動かなくて、深海の水に浸されているみたいに、寒い。
「嘘だ……」
エトにとって、他人のようだった『母』が、初めてかたちを持った。こんなときじゃなくたっていいのに。
「じゃあ、母上は、ぼくの所為で殺されたの……!?」
「あなたのせいじゃない! そうね……母上も迂闊だったのよ。きっと人間は、あなたが狙われている情報を故意に流して、私たちを罠に陥れるために」
「でも……でも……それは」
寒気が止まらない。だって、姉の言っていることはつまり。
「このことは、あなたが責任を感じるだろうと思って、今まで誰も話さなかったの。でも、本当に。エト、あなたの所為じゃないわ」
はっきりとそう告げてくるエネリだが、悔しげに唇を噛みしめた。
エトはもう、相槌も打てない。ただ、自分を責める気持ちだけが生じて、肩を押しつぶす。
「母上を殺されたのを知った父上は、これ以上なくお怒りだったわ。訃報を聞いた瞬間、玉座を離れて人間の議会に乗り込むくらいにはね。そうして……怒りのままに、父上は人魚族を守るための通告を言い渡したわ。それが……他の種族への『狩り』をひどくするなんて、そのときは思わなかったの」
その言葉を聞き終わったとき、エトは震えだした。凍ってしまいそうだ、心も身体も。
「ぼくの、所為で、……他の種族のみんなが?」
「エト、そうじゃないわ」
「ぼくの所為だろ! だからユーリさんはぼくを……ぼく、を……」
泣き崩れたエトを、エネリが抱き締めてくれる。
だが、涙は止まらないし、自責の気持ちもどうにもならなかった。
今すぐユーリに謝りたい。他の種族たちにも。
エトが深海で安楽の中療養していたときに、エトのせいで殺された者がたくさんいたのだ。
「ユーリさん……ユーリさんに、謝らなきゃ」
それだけ、脳裏に浮かんだ。
きっとユーリはこのことを知っていたから、エトに復讐をしたのだ。
だったら謝りたい。許してくれると思わない。だが、せめて謝罪だけは。
エトは水鏡の前に行き、魔法でユーリの姿を映す。
すると、ユーリが大勢の人間に囲まれて、引き攣った顔をしているところだった。見たこともない、ぎこちなさ。そして、何処か必死に見えた。
「ユーリ、さん?」
見ていたら、数人の人間が、売り物の花を水路に投げ入れ始めた。
(何が起きてるんだ!?)
今、呼びかけて声が届く魔法を使っては、不審に思われるだろう。
だからエトは、すぐに人間に変身して、ユーリのもとへ飛んだ。
*
あの人魚に復讐を遂げたのに、何となく晴れない気分だ。
しかし、仕事がある。いつも通りに祖父に運んでもらった花を準備をして、開店した。
「いらっしゃいませ!」
笑顔でそう呼び込みをして、いつものように売れる。
だが、一時間ほどしたときだった。客足が変化したのは。
声を掛けようとした馴染みの客が、隣の店に行く。最初に違和感を持ったのはそこだった。
そして次に、並びに店を構える知り合いの店員の男がやって来た。
「ユーリさん、もしかしてさ、隠してること、ない?」
作ったような笑顔で、そう訊いてきた。
ぴりぴりとした空気を感じる。悪意、疑念、そんなものを隠している気配がした。だからユーリは、とびっきりの笑顔で返した。
「特に思い当たりませんけれど」
しらばっくれたのに、相手が苛立ったのが分かる。すると。
「ユーリさんがさ、獣人だって噂、聞いたんだけど」
まさか。
咄嗟にエトのすがたが浮かんだ。
(あの人魚──俺のことを告げたな……!)
このタイミングで急に噂が広がるなんて、あの人魚に正体を知られたからとしか考えられない。まずいと思う。だが、確証がないからこの男は尋ねているのだろう。だから。
「そんなことはないですよ。僕はれっきとした人間です」
そう笑顔で突き放した。
「そうか。噂は所詮噂か。邪魔してすまなかったな」
男がすぐに引き下がったので、そのときは、すぐに大事になるだなんて考えなかった。今日だけは祖父母の花を売って、明日からしばらく姿を消すしかないと、そう思っていたのに。
午後になって、浮花市の市場長がやってきた。背後に市場の店主たちを連れて。想定外の自体に、ユーリの背中に冷や汗が伝う。だがそれを悟られる訳にはいかない。
「おや、市場長さん、どうかなさいましたか」
「いえね。ユーリさんが獣人、しかも兎の獣人族だという噂が広がっていましてね」
勿体振る男に苛々する。それに、『兎』が特に取り沙汰されたのは不愉快にもほどがある。
言いたいことは分かっている。『兎の獣人』は性欲が強い。そのため、謂れもなく性犯罪者のような目で見られるのだ。こちらにも、性交をする者を選ぶ権利くらいあるのに。
「……そんな事実はありません。何か証拠でもあるのですか」
「そうですね……昨日の晩は満月でしたか。ユーリさんは何処で何をなさってましたか?」
「家で寛いでいましたよ」
何でもないように首を傾げると、男が仔細ありげに笑った。
「満月の日に、決まって店を早じまいする理由は?」
「それは……」
長年言い訳を考え続けているが、今でもそれらしい回答を思い付かない箇所を突かれた。獣人は皆これに苦慮するのだ。
答えられずにいたのを良いことに、市場長はにたにたと笑みを湛えて、そうして突きつけてきた。
「こういう疑惑がある以上、人間だという証明ができるまで、店を閉めてくれないでしょうか」
「……今日だけはいいでしょう。売り物がありますし。祖父母が作った大事な花なんです」
「許されません。すぐに店を閉めなさい」
市場長の言葉を合図に、背後に控えていた店主たちが、店の花を水路へと投げた。怒りが突沸する。ユーリは投げた人間を引っ掴んで、「やめろ」と叫んだ。すると。
「こんなに野蛮なのは、獣人に違いありませんな。ここから出て行きなさい」
「そうだ! 乱暴な獣人は山へ帰れ!」
「兎なんて、生殖欲の塊だろ? いつ誰が強姦されるかわかったもんじゃない」
口々にそう言われる。
悪意。悪意。悪意。
流れ込んでくるそれに窒息しそうになる。
その中には、
「ユーリが何をしたってんだ。何もしてないのに一方的に追い出すなんて、野蛮なのはどっちだよ」
と大声を張ってくれる者もいた。だが、ほとんどの者はユーリに敵意を向けている。頭がぐらぐらとしてくる。しかし、そこに。
「そのひとは獣人じゃありません!」
少年のハイトーンな声が、騒ぎを引き裂くように響いた。
「昨日の夜、ぼくはそのひとと一緒に居ました。僕が証人になります。そのひとから手を離してください」
人垣を掻き分ける、声の方を見れば。
「エト君……」
どうしてここに彼が居るのだろう。
彼がこの騒ぎの出元だと思ったのに、当のその顔が、怒りに満ちている。
あの純粋な少年が自分を偽れる訳はない。
(エトが噂を流したんじゃないのか……?)
エトの登場でその場はざわざわと意見が二分される。「何処の誰かも分からない子供の意見を聞くのか」という声。「証人がいるのに疑う訳にはいかないだろう」という声。騒然として、誰もが誰もを疑っている。
その騒ぎを収めようとしたのだろう、更に声を張り上げようと口を開いたエトに、殴りかかった者がいた。
「……ミレ!」
「何でてめえがここにいるんだよ、人魚! てめえが全部悪いんだろ!」
ミレに顔を、腹を殴られて身体を縮こめているエトに、ユーリは混乱する。
周りの人間は「人魚?」「人魚だと!?」と大騒ぎだ。
何が起きている、そう思った時に。──ふと気が付いた。
道路に倒れ伏したエトを踏み、ミレが目の前にやって来る。
「ユーリ、俺と逃げようよ。もうこんな場所嫌になっただろ。俺と他の国に行って花屋やろうよ」
「……お前か、ミレ。噂を流したのは」
エト以外にユーリの正体を勘付いている者。ミレしか考えられない。
「違う! あの人魚が……」
もう彼の言葉に耳は貸さない。それに、ユーリの心は決まった。
大騒ぎの中、ミレや人間たちを押しのけて、エトの側に寄る。
「ユーリ、さん……ごめんなさい、ぼくの所為で」
痣のできてしまいそうな腫れた顔だ。ユーリはひどく悲しくなった。
何か言いかけた少年を腕に抱き上げて、走り出した。当てなんかないけれど、遠くへ。
別に、エトを好きになった訳じゃない。
でも、恩を受けたまま返さないのでは、兎の獣人の王子の名が廃る。
自分の名誉を守るための行動だとユーリは自分に言い聞かせて、走り、走り、走った。
あなたにおすすめの小説
その首輪は、弟の牙でしか外せない。
ゆずまめ鯉
BL
養子ゆえに、王位継承権を持たないオメガで長男のレイン(24)は、国家騎士団として秘密裏に働き、ただ義弟たちを守るためだけに生きてきた。
第一継承権を持つアルファで次男のリオール(19)は、そんな兄に「ごく潰し」と陰口を叩く連中を許せなかった。自分を犠牲にしてまで守る価値はないと思っていた。なにかと怪我の多い国家騎士団を辞めさせたかった。
初めて訪れた発情期のとき。約束をすっぽかされたリオールが不審に思い、兄の部屋へ行くと、国家騎士団の同僚──グウェンソード(28)に押し倒されるところを目撃して激高する。
「今すぐ部屋から出ろ!」
独占欲をあらわにしたリオールは、グウェンソードを部屋から追い出し、兄であるレインを欲望のままに抱いた。
翌朝、差し出されたのは特注の首輪──外せるのはリオールのみ。
「俺以外に触らせるな」
そう囁かれたレインは、何年も首輪と弟の執着に縛られ続けてきた。
弟には婚約者がいるのに、こんな関係を続けてもいいのか。
本当にこのままでもいいのか。
ひたすら執着して独占したがる弟と、罪悪感に苛まれる兄。
その首輪は、いつか弟の牙で血に染まるのか──。
どうにかしてレインを落としたいリオールと、弟との関係に悩むレインのオメガバースです。
リオール・グランケット(19)×レイン・グランケット(24)
※この作品は2015年頃に本文を書き、2017年頃にオメガバースに改稿、さらに2026年に手直しした作品になります。読みにくいかもしれません。ご了承ください。
三人称ですが攻めだったり受けだったり視点がよくかわります。攻め視点多めです。
番を拒み続けるΩと、執着を隠しきれないαが同じ学園で再会したら逃げ場がなくなった話 ――優等生αの過保護な束縛は恋か支配か
雪兎
BL
第二性が存在する世界。
Ωであることを隠し、平穏な学園生活を送ろうと決めていた転校生・湊。
しかし入学初日、彼の前に現れたのは――
幼い頃に「番になろう」と言ってきた幼馴染のα・蓮だった。
成績優秀、容姿端麗、生徒から絶大な信頼を集める完璧なα。
だが湊だけが知っている。
彼が異常なほど執着深いことを。
「大丈夫、全部管理してあげる」
「君が困らないようにしてるだけだよ」
座席、時間割、交友関係、体調管理。
いつの間にか整えられていく環境。
逃げ場のない距離。
番を拒みたいΩと、手放す気のないα。
これは保護か、それとも束縛か。
閉じた学園の中で、二人の関係は静かに歪み始める――。
氷の婚約者様に破談を申し出たら号泣された
楽矢
BL
目が覚めると、レースの牢獄のような天蓋付きベッドの上だった。
何も覚えていない出来損ない下級貴族ミラ。無能だクズだと冷酷な罵詈雑言を浴びせてくる氷の騎士セティアス。
記憶喪失から始まる、2人のファンタジー貴族ラブコメディ。
----------
※注)
かっこいい攻はいません。
タイトル通りそのうち号泣しますのでご注意!
貴族描写は緩い目で雰囲気だけお読みいただけると幸いです。
ハッピーエンドです。
激重感情をこじらせた攻→受な関係がお好きな同志の方、どうぞよろしくお願いします!
全16話 完結済み/数日おきに予定
他サイトにも同作品を投稿しています。
様子を見ながらそのうち統合するかもしれません。
初めての一次創作でまだよく分かっておらず、何かおかしなことをしでかしていたら申し訳ないです!
やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。
毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。
そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。
彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。
「これでやっと安心して退場できる」
これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。
目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。
「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」
その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。
「あなた……Ωになっていますよ」
「へ?」
そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て――
オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。
完結·助けた犬は騎士団長でした
禅
BL
母を亡くしたクレムは王都を見下ろす丘の森に一人で暮らしていた。
ある日、森の中で傷を負った犬を見つけて介抱する。犬との生活は穏やかで温かく、クレムの孤独を癒していった。
しかし、犬は突然いなくなり、ふたたび孤独な日々に寂しさを覚えていると、城から迎えが現れた。
強引に連れて行かれた王城でクレムの出生の秘密が明かされ……
※完結まで毎日投稿します
番に見つからない街で、子供を育てている
はちも
BL
目を覚ますと、腕の中には赤ん坊がいた。
異世界の青年ロアンとして目覚めた「俺」は、希少な男性オメガであり、子を産んだ母親だった。
現世の記憶は失われているが、
この子を守らなければならない、という想いだけははっきりと残っている。
街の人々に助けられ、魔石への魔力注入で生計を立てながら、
ロアンと息子カイルは、番のいない街で慎ましく暮らしていく。
だが、行方不明の番を探す噂が、静かに近づいていた。
再会は望まない。
今はただ、この子との生活を守りたい。
これは、番から逃げたオメガが、
選び直すまでの物語。
*本編完結しました
竜帝陛下の愛が重すぎて身代わりの落ちこぼれ薬師は今日も腰が砕けそうです 〜呪いを解いたら一生離さないと宣言されました〜
レイ
BL
「死ぬ覚悟はできています。でも、その前に……お口、あーんしてください」
魔力を持たない「無能」として実家で虐げられていた薬師のエリアン。
彼に下されたのは、触れるものすべてを焼き尽くす「死の竜帝」ヴァレリウスへの、身代わりの婚姻だった。
宰相閣下の執愛は、平民の俺だけに向いている
飛鷹
BL
旧題:平民のはずの俺が、規格外の獣人に絡め取られて番になるまでの話
アホな貴族の両親から生まれた『俺』。色々あって、俺の身分は平民だけど、まぁそんな人生も悪くない。
無事に成長して、仕事に就くこともできたのに。
ここ最近、夢に魘されている。もう一ヶ月もの間、毎晩毎晩………。
朝起きたときには忘れてしまっている夢に疲弊している平民『レイ』と、彼を手に入れたくてウズウズしている獣人のお話。
連載の形にしていますが、攻め視点もUPするためなので、多分全2〜3話で完結予定です。
※6/20追記。
少しレイの過去と気持ちを追加したくて、『連載中』に戻しました。
今迄のお話で完結はしています。なので以降はレイの心情深堀の形となりますので、章を分けて表示します。
1話目はちょっと暗めですが………。
宜しかったらお付き合い下さいませ。
多分、10話前後で終わる予定。軽く読めるように、私としては1話ずつを短めにしております。
ストックが切れるまで、毎日更新予定です。