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イェナン王国の王都・ラニを象徴する凱旋門より続く大通りには、秋の気配を感じさせる涼やかな季節風が吹いていた。それは短い夏の終わりを知らせるもので、王都の住人にやがて来る冬への心構えを始めさせる、強い風だった。
だが、王国の民の正装である刺繍入りのロングコートとベストを纏うリュカ・レバノンには、少し暑いくらいの気温だ。父の代理でギルド集会へ代理出席した帰り、リュカは煉瓦の道の端っこを、早足で歩いている。
本当は家の外になど出るつもりもなかったのだが、父にどうしてもと申しつけられた用事を断る訳にもいかなかったリュカだ。
(早く帰ろう──他人の目も鬱陶しいし)
オメガ性特有の中性的な美を一身に集めたようなリュカは人目を惹きやすく、振り返ってこちらを見る視線も少なくない。その中には邪な考えを抱いている者もいるのではないかという恐怖が、いつもリュカにはある。オメガ性だったための嫌な思いなど、幾らでもしてきた。
オメガ性の男性はこの国では疎んじられている存在だ。『男性でも子を産める』という奇矯な体質は『男のなり損ない』として差別されている。その一方で、容貌の美しさから見世物小屋や娼館では引く手数多という矛盾もある。
豪商の家に生まれたリュカは、父や兄の部下として生きる道があるが、そんな幸運なオメガは非常に稀だ。しかしその将来には今、暗雲が掛かっている。リュカが大通りに怯える理由のひとつがそれだ。
(ああ、思いだしたくもない)
リュカは今、この国で一、二を争うほどの有名人なのだ。顔は公表されていないものの、万が一こんな大通りで正体がばれたならと思うと冷や汗が出そうだ。
(王国の第一王子・ダイセルの見初めた、運命のオメガが僕、だなんて)
信じがたいが、それがリュカの今の立場だ。
王宮の正式発表はない。だが、王子の取り巻きをしている貴族が面白可笑しく「ダイセル王子がオメガに惚れた」とそこかしこでふれ回ったため、王都はおろか、国土中にその噂が広まっていると聞く。あのことも知れ渡っているようで、リュカを見る周囲の目はがらっと変わってしまった。「王子を誑かす淫売め」と。
当のリュカは。第一王子のことを思い出すだけで、憎しみと恐怖が込み上げてくる。あのひどい仕打ちは人生の汚点であり、これ以上ないほどの屈辱だった。だが、リュカを支配する感情は、それだけではなかった。──運命の番である王子への、本能的な熱情。それがリュカの心を引き裂いて仕方がない。
この愛憎の嵐に生涯囚われ続けるなんて、真っ平だ。だから、王子の顔など二度と見たくない。
だというのに。
ふと、人垣が割れた。ざわめきが広がり、何だろうとリュカが振り返ると。そこに国章である百合の刻印の入った馬車がいた。王宮付きの馬車だ。
咄嗟に膝をつき、頭を下げる。高貴なる人物が降りてくるのは想像に難くない。嫌な予感がする。軽い足音と共に、リュカの前へとブーツの足がやってくる。威厳のある声が、その場に響く。
「国王陛下からの勅命である。リュカ・レバノン、その方をダイセル・イェナン第一王子殿下の第四妃とする」
王宮からの使者の告げたその勅命は、リュカの全身を黒い雷で砕いたようだった。
(嫌だ。嫌だ、嫌だ……!)
絶望が頭の中を行ったり来たりする。こうなる予想は付いていたのに、何もできずに、ついに王命を受けるに至ってしまうなんて。
だが、勅命であっても、リュカは受け入れるつもりはない。
「恐れながら。このオメガの身には相応しくないと愚考致します。辞退させて──」
「お前の言い分は聞いていない」
リュカの腕は引っ張られ、あれよあれよという間に馬車へと乗せられた。最悪だと思うが、このまま王の許へ連れて行かれたならば、いっそ向こうから命令を覆したくなるような振る舞いをして、逃げ出せばいい。そう思ったのに。
王宮に到着した途端、衛兵に両手首を掴まれて自由を奪われる。
「何をする!」
リュカの抗議にも衛兵は反応しない。そこから先、連れて行かれた部屋は見覚えのあるもので、目の前が暗くなる。
「ここは……」
思い出したくもない、第一王子の閨だ。
二ヶ月と少し前、リュカが第一王子とその取り巻きに、輪姦された場所。
(ああ──)
どんどんと呼び起こされていく記憶に、リュカの身体は勝手に震え出す。運命の番たる王子の身体に悦びを覚えて受け入れた自分。どんどん伸びてくる男たちの手。朝日の差すまで、男娼よりひどい扱いを受けた。中に出されたのは三人目まで覚えているが、それ以上は心が麻痺し、何もかも諦めてしまった。
それを「俺のオメガは可愛いだろう」と喜んで見ていた男が今また、ここにいる。
乱れ一つない金髪の長髪と、輝く緑の瞳の立派な体格の青年、すなわちダイセル王子は既に、天蓋付きのベッドの上で待っていた。囚人でも扱うかのように、衛兵にベッドに放られたリュカを、たくましい腕が受け止めた。その肌の熱に、ぞわりとした。
「よく来てくれた。今日からお前の部屋はここだ」
機嫌良く笑う王子の腕の中、リュカはもがき、呻き声のような拒否を突きつけた。
「王子殿下、僕は妃になりに来たのではありません。お断り申し上げようと」
「そのような世迷い言は知らん。運命の番を逃がす訳がないだろう。父上も母上もオメガのお前を娶ることに反対なさったが、俺が説き伏せた。さあ、また俺の手で乱れてくれ」
艶を帯びた彼の笑みに、血液が沸騰するのと凍るのとを、両方感じる。
オメガとしての本能が身体をざわめかせる。子宮が疼き、王子の精が欲しいとわめきたくなる。王子の温かい腕に身体を任せてしまいたい。
だが、人間としての理性は、また傷つけられる前に逃げろと悲鳴を上げた。
リュカの身体を巡った二つの声は、心の傷を庇うことを選んだ。運命の番だからこそ、あんな目に遭わせたことをリュカは恨んだ。
「この……っ!」
身を捩って逃れようとするのを王子の腕が阻み「愛い反応をする」とキスをされた。
(ああ……気持ち、いい)
脳が蕩けそうになる。この身体は不自由すぎる。そんな自分を、変えたい。
「僕から、離れろ!」
足を高く蹴り上げると、幸運にも王子の顎を捉えた。腕と彼の気が緩んだから、閨を飛び出す。
「行くな、リュカ!」
「……ごめんなさい」
まだ彼を求める身体を自ら引き千切るような思いで、リュカは走り出した。鎧に身を包んだ衛兵が駆け寄ってくるが、装備が重いためかリュカの足の方が速い。何とか王宮を脱出し、再び大通りへと身を投じる。人混みに紛れれば捜索も容易ではないだろう。家へ戻れば、傭兵に守ってもらえる。だから、リュカは足がどれだけ痛くても、足を止めない。
(ちくしょう、オメガ性なんてもうたくさんだ!)
リュカは己のオメガ性を、第二次性徴の始まった十四歳のときから、ずっと厭っている。リュカのフェロモンは他のオメガよりもずっと強いようで、ベータ性の者でさえも誘惑した。実家の財力に任せて、ヒート時期には非常に高価である発情抑制剤を飲んだ上で、屋敷に魔術師を呼び、フェロモンを漏らさない密閉魔法をかけてもらい、難を逃れてきた。
だが、最初のヒートが街中で起こったときは、それはもう大騒ぎになった。隣に兄が居なければ、家に帰ることすらできなかっただろう。
初恋も、オメガ性の所為で破れた。
淡い恋を抱いていた少年と二人きりになったとき無意識に発情したリュカを、その少年は欲情の目で見、押し倒したのだ。
「ごめん、リュカ。でも、こんな香りで誘われたら……我慢できない」
今の今まで優しく接してくれていた相手が、こんな風に変わってしまうなんて、信じられなかった。リュカは大きな傷を心に負い、そして這々の体で少年から逃げた。最悪な思い出だ。
あの王子も何を考えているのだか。差別対象である男オメガを、第四とはいえ妃にしようとするなど、正気の沙汰ではない。
(男とするのが気に入ったのかな。何にせよ、僕は慰み者だ)
生家の屋敷に辿り着き、見慣れた傭兵たちに門を開けさせるように命じたが、無表情で彼らはリュカを見下ろした。
「リュカ様を中に入れるなと、お父上からのご命令です。王宮にお戻りください」
暑かったはずの気温が、一気に冬になったように感じた。彼らの言うことはつまり、父が、リュカを人身御供としたということだ。
「どうして、父上、どうして!」
「お送りします。門をお放しください」
傭兵が肩を掴むのを、振りほどけない。屈強な肉体に敵うはずもないのを悟るが、それでも足掻くのだけは止められない。
「離せ! 王宮なんて行かない!」
「リュカ」
耳慣れた母の声がリュカを呼んだ。震えて、今にも泣き出しそうに。邸宅の大扉に縋り付く彼女の眦からは、大粒の涙が溢れていた。
「リュカ、遠くへ逃げなさい。今すぐに」
「母上、どうして……!」
「お父様はあなたを王子殿下に差し出すおつもりです」
その言葉を言うや否や、母が足蹴にされ、地面に倒れ伏すのを見た。
「母上!」
「余計なことをするな、シェイナ」
「あなた……」
その足の持ち主は父だった。リュカから血の気が引いていく。暴力など振るったことのない父が、こんなことをするなんて。
だが、こちらを睨み付けた父の目には凶暴なものが宿っていて、うそ寒くなる。
父に敬礼した傭兵の腕からは逃れられたが、崩れ落ちたリュカに力は入らない。
「リュカ。オメガのお前をここまで育ててやったのはこの日のためだ。王子殿下の子を産み、レバノン家に尽くせ」
父の独断専行な態度に、リュカは思考を必死に巡らせて、ようやく気付く。
「今まで僕を育ててくれたのは、アルファに……王家や貴族に、僕自身を捧げるためですか」
「ようやく分かったのか。オメガは愚かだ」
「だからあのパーティーに、僕を……」
リュカが王子たちに陵辱されたのは、王家主催のパーティーに貢ぎ物を許された、父の代理を任されたからだった。何故父や兄が行かないのだろうと疑問に思ったけれど、王子や身分の高いアルファにリュカを見初めさせて、親類としての繋がりを持とうとしたのだろう。
血の気が引いた。
世界が青ざめて見える。
「父上……あの日、犯された僕に堕胎の魔法が使える高位魔術師を呼んでくれたのも、僕のためじゃなかったんですね」
「誰の子とも知らぬ子を宿したオメガなど、王家は寄りつかんからな。抵抗もしないお前が悪いのだ、大枚使わせよって」
リュカはやっと理解した。婚約の申し出があれから二ヶ月経った今であるのも、妊娠していないことを明白にするため。そして、王子の子を確実に産ませるためなのだろう。
王子には既に多くの妃がいるが、まだ誰も子を産んでいない。運命の番たるリュカに、国母たることを期待しているのだ、この国の王家は。
(嫌、だ)
なのにもう逃げ場はない。
「折角外へ出して捕らえさせる計画が、ここまで逃げて来よって。──連れて行け」
抵抗する母を引きずり、父が扉の中に入ってしまう。何度父を呼んでも振り返らない。ばたんと閉じた大扉に、リュカは顔色を失った。
このまま王子の籠の鳥として生きるしか、道はないのか。そう思ったとき、ふと、春先のような爽やかな香りの風が吹いた。
「そなた、何やら素晴らしい香りをしているな」
顔を上げ振り返ると、背の高い褐色の肌の男が、こちらを面白そうに見下ろしていた。
だが、王国の民の正装である刺繍入りのロングコートとベストを纏うリュカ・レバノンには、少し暑いくらいの気温だ。父の代理でギルド集会へ代理出席した帰り、リュカは煉瓦の道の端っこを、早足で歩いている。
本当は家の外になど出るつもりもなかったのだが、父にどうしてもと申しつけられた用事を断る訳にもいかなかったリュカだ。
(早く帰ろう──他人の目も鬱陶しいし)
オメガ性特有の中性的な美を一身に集めたようなリュカは人目を惹きやすく、振り返ってこちらを見る視線も少なくない。その中には邪な考えを抱いている者もいるのではないかという恐怖が、いつもリュカにはある。オメガ性だったための嫌な思いなど、幾らでもしてきた。
オメガ性の男性はこの国では疎んじられている存在だ。『男性でも子を産める』という奇矯な体質は『男のなり損ない』として差別されている。その一方で、容貌の美しさから見世物小屋や娼館では引く手数多という矛盾もある。
豪商の家に生まれたリュカは、父や兄の部下として生きる道があるが、そんな幸運なオメガは非常に稀だ。しかしその将来には今、暗雲が掛かっている。リュカが大通りに怯える理由のひとつがそれだ。
(ああ、思いだしたくもない)
リュカは今、この国で一、二を争うほどの有名人なのだ。顔は公表されていないものの、万が一こんな大通りで正体がばれたならと思うと冷や汗が出そうだ。
(王国の第一王子・ダイセルの見初めた、運命のオメガが僕、だなんて)
信じがたいが、それがリュカの今の立場だ。
王宮の正式発表はない。だが、王子の取り巻きをしている貴族が面白可笑しく「ダイセル王子がオメガに惚れた」とそこかしこでふれ回ったため、王都はおろか、国土中にその噂が広まっていると聞く。あのことも知れ渡っているようで、リュカを見る周囲の目はがらっと変わってしまった。「王子を誑かす淫売め」と。
当のリュカは。第一王子のことを思い出すだけで、憎しみと恐怖が込み上げてくる。あのひどい仕打ちは人生の汚点であり、これ以上ないほどの屈辱だった。だが、リュカを支配する感情は、それだけではなかった。──運命の番である王子への、本能的な熱情。それがリュカの心を引き裂いて仕方がない。
この愛憎の嵐に生涯囚われ続けるなんて、真っ平だ。だから、王子の顔など二度と見たくない。
だというのに。
ふと、人垣が割れた。ざわめきが広がり、何だろうとリュカが振り返ると。そこに国章である百合の刻印の入った馬車がいた。王宮付きの馬車だ。
咄嗟に膝をつき、頭を下げる。高貴なる人物が降りてくるのは想像に難くない。嫌な予感がする。軽い足音と共に、リュカの前へとブーツの足がやってくる。威厳のある声が、その場に響く。
「国王陛下からの勅命である。リュカ・レバノン、その方をダイセル・イェナン第一王子殿下の第四妃とする」
王宮からの使者の告げたその勅命は、リュカの全身を黒い雷で砕いたようだった。
(嫌だ。嫌だ、嫌だ……!)
絶望が頭の中を行ったり来たりする。こうなる予想は付いていたのに、何もできずに、ついに王命を受けるに至ってしまうなんて。
だが、勅命であっても、リュカは受け入れるつもりはない。
「恐れながら。このオメガの身には相応しくないと愚考致します。辞退させて──」
「お前の言い分は聞いていない」
リュカの腕は引っ張られ、あれよあれよという間に馬車へと乗せられた。最悪だと思うが、このまま王の許へ連れて行かれたならば、いっそ向こうから命令を覆したくなるような振る舞いをして、逃げ出せばいい。そう思ったのに。
王宮に到着した途端、衛兵に両手首を掴まれて自由を奪われる。
「何をする!」
リュカの抗議にも衛兵は反応しない。そこから先、連れて行かれた部屋は見覚えのあるもので、目の前が暗くなる。
「ここは……」
思い出したくもない、第一王子の閨だ。
二ヶ月と少し前、リュカが第一王子とその取り巻きに、輪姦された場所。
(ああ──)
どんどんと呼び起こされていく記憶に、リュカの身体は勝手に震え出す。運命の番たる王子の身体に悦びを覚えて受け入れた自分。どんどん伸びてくる男たちの手。朝日の差すまで、男娼よりひどい扱いを受けた。中に出されたのは三人目まで覚えているが、それ以上は心が麻痺し、何もかも諦めてしまった。
それを「俺のオメガは可愛いだろう」と喜んで見ていた男が今また、ここにいる。
乱れ一つない金髪の長髪と、輝く緑の瞳の立派な体格の青年、すなわちダイセル王子は既に、天蓋付きのベッドの上で待っていた。囚人でも扱うかのように、衛兵にベッドに放られたリュカを、たくましい腕が受け止めた。その肌の熱に、ぞわりとした。
「よく来てくれた。今日からお前の部屋はここだ」
機嫌良く笑う王子の腕の中、リュカはもがき、呻き声のような拒否を突きつけた。
「王子殿下、僕は妃になりに来たのではありません。お断り申し上げようと」
「そのような世迷い言は知らん。運命の番を逃がす訳がないだろう。父上も母上もオメガのお前を娶ることに反対なさったが、俺が説き伏せた。さあ、また俺の手で乱れてくれ」
艶を帯びた彼の笑みに、血液が沸騰するのと凍るのとを、両方感じる。
オメガとしての本能が身体をざわめかせる。子宮が疼き、王子の精が欲しいとわめきたくなる。王子の温かい腕に身体を任せてしまいたい。
だが、人間としての理性は、また傷つけられる前に逃げろと悲鳴を上げた。
リュカの身体を巡った二つの声は、心の傷を庇うことを選んだ。運命の番だからこそ、あんな目に遭わせたことをリュカは恨んだ。
「この……っ!」
身を捩って逃れようとするのを王子の腕が阻み「愛い反応をする」とキスをされた。
(ああ……気持ち、いい)
脳が蕩けそうになる。この身体は不自由すぎる。そんな自分を、変えたい。
「僕から、離れろ!」
足を高く蹴り上げると、幸運にも王子の顎を捉えた。腕と彼の気が緩んだから、閨を飛び出す。
「行くな、リュカ!」
「……ごめんなさい」
まだ彼を求める身体を自ら引き千切るような思いで、リュカは走り出した。鎧に身を包んだ衛兵が駆け寄ってくるが、装備が重いためかリュカの足の方が速い。何とか王宮を脱出し、再び大通りへと身を投じる。人混みに紛れれば捜索も容易ではないだろう。家へ戻れば、傭兵に守ってもらえる。だから、リュカは足がどれだけ痛くても、足を止めない。
(ちくしょう、オメガ性なんてもうたくさんだ!)
リュカは己のオメガ性を、第二次性徴の始まった十四歳のときから、ずっと厭っている。リュカのフェロモンは他のオメガよりもずっと強いようで、ベータ性の者でさえも誘惑した。実家の財力に任せて、ヒート時期には非常に高価である発情抑制剤を飲んだ上で、屋敷に魔術師を呼び、フェロモンを漏らさない密閉魔法をかけてもらい、難を逃れてきた。
だが、最初のヒートが街中で起こったときは、それはもう大騒ぎになった。隣に兄が居なければ、家に帰ることすらできなかっただろう。
初恋も、オメガ性の所為で破れた。
淡い恋を抱いていた少年と二人きりになったとき無意識に発情したリュカを、その少年は欲情の目で見、押し倒したのだ。
「ごめん、リュカ。でも、こんな香りで誘われたら……我慢できない」
今の今まで優しく接してくれていた相手が、こんな風に変わってしまうなんて、信じられなかった。リュカは大きな傷を心に負い、そして這々の体で少年から逃げた。最悪な思い出だ。
あの王子も何を考えているのだか。差別対象である男オメガを、第四とはいえ妃にしようとするなど、正気の沙汰ではない。
(男とするのが気に入ったのかな。何にせよ、僕は慰み者だ)
生家の屋敷に辿り着き、見慣れた傭兵たちに門を開けさせるように命じたが、無表情で彼らはリュカを見下ろした。
「リュカ様を中に入れるなと、お父上からのご命令です。王宮にお戻りください」
暑かったはずの気温が、一気に冬になったように感じた。彼らの言うことはつまり、父が、リュカを人身御供としたということだ。
「どうして、父上、どうして!」
「お送りします。門をお放しください」
傭兵が肩を掴むのを、振りほどけない。屈強な肉体に敵うはずもないのを悟るが、それでも足掻くのだけは止められない。
「離せ! 王宮なんて行かない!」
「リュカ」
耳慣れた母の声がリュカを呼んだ。震えて、今にも泣き出しそうに。邸宅の大扉に縋り付く彼女の眦からは、大粒の涙が溢れていた。
「リュカ、遠くへ逃げなさい。今すぐに」
「母上、どうして……!」
「お父様はあなたを王子殿下に差し出すおつもりです」
その言葉を言うや否や、母が足蹴にされ、地面に倒れ伏すのを見た。
「母上!」
「余計なことをするな、シェイナ」
「あなた……」
その足の持ち主は父だった。リュカから血の気が引いていく。暴力など振るったことのない父が、こんなことをするなんて。
だが、こちらを睨み付けた父の目には凶暴なものが宿っていて、うそ寒くなる。
父に敬礼した傭兵の腕からは逃れられたが、崩れ落ちたリュカに力は入らない。
「リュカ。オメガのお前をここまで育ててやったのはこの日のためだ。王子殿下の子を産み、レバノン家に尽くせ」
父の独断専行な態度に、リュカは思考を必死に巡らせて、ようやく気付く。
「今まで僕を育ててくれたのは、アルファに……王家や貴族に、僕自身を捧げるためですか」
「ようやく分かったのか。オメガは愚かだ」
「だからあのパーティーに、僕を……」
リュカが王子たちに陵辱されたのは、王家主催のパーティーに貢ぎ物を許された、父の代理を任されたからだった。何故父や兄が行かないのだろうと疑問に思ったけれど、王子や身分の高いアルファにリュカを見初めさせて、親類としての繋がりを持とうとしたのだろう。
血の気が引いた。
世界が青ざめて見える。
「父上……あの日、犯された僕に堕胎の魔法が使える高位魔術師を呼んでくれたのも、僕のためじゃなかったんですね」
「誰の子とも知らぬ子を宿したオメガなど、王家は寄りつかんからな。抵抗もしないお前が悪いのだ、大枚使わせよって」
リュカはやっと理解した。婚約の申し出があれから二ヶ月経った今であるのも、妊娠していないことを明白にするため。そして、王子の子を確実に産ませるためなのだろう。
王子には既に多くの妃がいるが、まだ誰も子を産んでいない。運命の番たるリュカに、国母たることを期待しているのだ、この国の王家は。
(嫌、だ)
なのにもう逃げ場はない。
「折角外へ出して捕らえさせる計画が、ここまで逃げて来よって。──連れて行け」
抵抗する母を引きずり、父が扉の中に入ってしまう。何度父を呼んでも振り返らない。ばたんと閉じた大扉に、リュカは顔色を失った。
このまま王子の籠の鳥として生きるしか、道はないのか。そう思ったとき、ふと、春先のような爽やかな香りの風が吹いた。
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