ショクザイのヤギ

煤原

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その6

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 ◇


「キラキラ!」

 マシロにもらった黒い石は、少女のお気に召したようだった。この石がツチノコの成れの果てだという荒唐無稽な設定も、少女はすんなりと受け入れてくれた。
 彼女にとってツチノコは愛猫を攫った仇ではあるが、今はただのきれいな石だ。猫が帰ってきたことで、ツチノコへの恐怖はずいぶんと薄れたらしい。

「みんなには内緒だよ」

 粟島は少女に目線を合わせ、口の前で人差し指を一本立てる。少女も真似して「しーっ」と言いながら、愛猫と写っていた写真と同じような笑顔を粟島に向けた。

「ありがとう、お兄ちゃん!」

 少女は粟島に礼を告げ、ツチノコ退治依頼は無事終了した。


 ◇


 事務所に戻ると、粟島は冷蔵庫から缶チューハイを一本取り出してソファに座った。
 ふたを開け、一息に飲み干す。空いた缶を机に置いて、粟島はソファにもたれかかった。
 天井を仰ぐ。変わらぬ日常がそこにあった。町も人も、粟島の周囲はマシロや物怪もののけを知る前と同じ姿でそこにある。変わったのは粟島の認識だけだ。

「猫探しを依頼されただけなのに……」

 粟島はソファのクッションに顔を埋めた。
 物怪は退治すると黒い塵になる。それは江戸時代の古記録と日ノ池ひのいけの証言で知っていた。けれど実際目の当たりにすると、やはり覚悟していた以上の衝撃があった。これまでの常識を覆されたのだから、当然といえば当然だ。

 日ノ池が持っていた写真に写っていたのは間違いなくマシロだ。他人の空似という可能性もあるにはある。けれどマシロもまた、日ノ池のことを知っているような口振りだった。古記録に猟師の特徴は記されていなかったが、おそらく江戸の旅人を助けたのもマシロだろう。

 ちなみに、日ノ池の写真は自撮りだった。スマホならいざ知らず、昭和のカメラで自撮りに成功しているのは奇跡だったのではないだろうか。

 粟島は土産にもらった猪の干し肉に手を伸ばす。味付けは塩味のみだが、非常にうまい。知り合いの酒飲みどもに渡せば一瞬でなくなってしまうだろう。粟島は目を閉じて、ゆっくりと肉を噛み締めた。

 マシロが語った儀式についての文献はいまだ見つけられていないが、彼が嘘を言っていたとも思えない。実際、物怪に関する記述は見つかったのだ。きっとどこかにはあるはずだ。
 マシロは『交代の儀』と言っていた。十年ごとに行われていたそれはいつしか途絶えて、町の資料にも記憶にも残らなかった。
 山の神の機嫌をなだめ、物怪を狩る世話係。その役目を、マシロは継いでいるのだろうか。マシロが最後で、誰も引き継がなかったから、今でもマシロが世話係の任に就いていると。

「……ファンタジーか?」

 シラフでは無理だと判断してアルコールをあおったが、これはこれで発想が突飛な方向にいってしまう。
 粟島は足を上げ、ソファに寝転んだ。
 体勢を変えて見上げても、天井は何も変わらない。マシロもそうだ。たぶん、ちょっと、いやだいぶ長生きなのだ。物怪がいるなら、不老長寿の妙薬もあったっていいだろう。

 江戸時代から生きていようがマシロはマシロだ。ファンシーなものが好きで、優しくて、親切で、甘いものが好き。落ち着いた雰囲気をまとっていて、けれど笑った顔はずいぶんと幼い。料理も狩りもできて、家庭菜園だってできる。

「……ただの優良物件じゃん」

 町に来たら絶対にモテる。機械には疎そうなのでオフィス勤めは難しいかもしれないが、主夫なら完璧にこなしてくれるだろう。料理教室の先生というのも似合いそうだった。
 システムキッチンに立つマシロは少しだけ浮いていて、けれど人に囲まれている姿はしっくりきた。やはりマシロと言えば和装なので、ビブエプロンよりは割烹着だろうか。
 冷蔵庫から肉を取り出し「では、昨日獲ってきた鹿を調理します」と台に置くマシロを想像して、粟島は吹き出した。まず一般家庭で用意できない。

 ひとしきり笑ってから、粟島は小さくため息を吐いた。
 マシロは、いつからあの山にいるのだろう。いつからあの山を離れていないのだろうか。
 マシロの話や古記録の内容からすれば、ずいぶんと長く籠っているのはたしかだった。けれどわかるのはそれだけで、いくら考えたって粟島にその答えがわかるはずがない。知っているのはマシロだけだ。ならば本人に直接聞けばいい。
 マシロは、羽か羽毛ならどちらが好きだろうか。

「布団……二組買ったら迷惑かな……」

 酔った頭はまともな思考回路をしていない。論理的な思考も、正常な判断もできるはずがなかった。
 粟島は五人兄弟の末っ子で、自他ともに認める図々しさを誇った。ここまで恥を晒せばもう今更だ。
 二種類買って、マシロに好きな方を選んでもらおう。
 そう決めて粟島はスマホを取り出し、布団の選定をはじめた。


 ◇


 マシロとツチノコ退治をしてから三週間後。山に入った粟島は、やはりマシロの家には辿り着けなかった。
 以前マシロに連れられたのと同じ道を通っているはずなのに、どうしてもあの薮のトンネルを見つけられない。
 日ノ池も、いくら歩き回っても見つけられなかったと言っていた。彼が再びこの山を訪れたときには、マシロと出会ってから十年以上が経過していたので、日ノ池はマシロが猟師を辞め山を下りたのだろうと考えていた。

 もし、もしもマシロが超常の存在だというのなら。麓近くで音もなく消えてしまう理由も、どれだけ歩いても家を見つけられない理由も、説明できるのではないだろうか。

「……馬鹿馬鹿しいな」

 粟島はかぶりを振り、まだ決定打に欠けると、結論を先送りにして山を登る。
 ただの長生きでは片付けられないことも、他人の空似でないこともわかりきっていた。なのに粟島はその結論を拒んでいる。

 超常に憧れはあった。ツチノコもサンタも、どうせならいた方が楽しいに決まっている。けれど幼い粟島はある日、ふと思ったのだ。サンタが空想の存在でよかったと。
 もしもサンタが現実にいたら。もしも粟島がその立場であったなら。きっとその孤独に耐えられなかっただろうから。

「……マ、マシロさん!」

 粟島は声を張り上げる。

「いたら、返事をしてもらえませんか!」

 木々がざわめき、鳥が飛び立つ。人の気配はしなかった。
 山は相変わらず薄暗くて、すぐそこに暗闇が広がっている。なにが潜んでいたっておかしくはない。なのにたった一人で取り残されたような気分になる。恐怖と不安が粟島を襲う。こんなところ、十年だって一人きりで暮らせやしなかった。

 ふと、粟島の視界に鮮やかな木の実が映る。同時に、人としては最悪な方法を思いついた。

「俺、今、迷子で! あとお腹も空いてます!」

 実際、二時間も山を彷徨い続けているので、腹が減っているのは事実だった。

「あ、これとかおいしそうだなァ!」

 棒読みのまま、粟島は木の実に近付いていく。粟島は学校の演劇会などでセリフを覚えるのは得意だったが、情感を込めて読み上げるのは苦手だった。

 前回のマシロによる食用講座を悪用する形で、粟島は木の実に手を伸ばした。胸が痛む。最悪なことをしている自覚はある。それでも粟島はマシロに会いたかった。

 これは賭けだ。粟島が崖下に転がっているのを、マシロが発見したのは偶然だった。けれど粟島がカエンタケに手を伸ばしたとき、マシロに慌てた様子はなかった。走り寄る音を聞いた覚えもない。

 きっと近くにいたのだ。あのときも、今も。

 粟島は木の実を摘んで、ぷちりと引きちぎった。食べた場合に引き起こされる症状はめまい、嘔吐。最悪の場合は呼吸困難。粟島はごくりと唾を飲み、覚悟を決めて木の実を口元へ運ぶ。けれどそれが粟島の舌に乗ることはなかった。

 マシロの手が、粟島の腕を掴んで止めている。見ればマシロは悲しそうな表情を浮かべていて、ズキリと粟島の胸が痛んだ。マシロは粟島の手から木の実を取り上げると、地面に埋めた。

「見知らぬものを無闇に食すのは危ないですよ」
「すみません……」

 マシロは膝についた土を払って立ち上がる。

「また、何かのお仕事ですか?」

 マシロは顔を上げるが、視線は合わない。やはり怒っているのだろうか。粟島なら絶対怒る。当分顔も見たくないし口も聞きたくないだろう。それでも、ここまでやって引き下がるわけにはいかなかった。

 粟島は退治依頼の顛末を報告した。協力してもらったのだ。結果を伝える義務がある。マシロは話を遮ることなく最後まで聞いてくれた。

「そうですか……」

 結果を聞いたマシロは安堵の息を漏らした。見たことも会ったこともない少女の平穏を、心から喜んでいる。

「無事に戻れて、なによりです」

 その安堵の表情の中に、少しの寂しさを見た気がした。

「マシロさん」

 粟島は一歩前に出て、逃がすまいとマシロの手を取った。

「羽と羽毛、どっちが好きですか?」
「ハネトウモウ……?」

 脈絡もないし、なんか余韻が台無しだな、とも思ったが、そんな悠長なことを言っている場合ではなかった。

最中もなかも持ってきました。いらないなら持って帰ります。でも……」

 粟島は一枚の画用紙を取り出した。そこには拙い字で書かれた「ありがとう」という文字と、猫の肉球スタンプがあった。

「これだけは、どうか受け取ってください」

 少女はそれを、治療のお礼だと言って粟島に手渡した。
 約束通り、少女たちにマシロのことは伝えていない。それでもこれは、これだけは絶対に、マシロに渡すべきだと思った。
 マシロはためらいながらも紙を受け取った。少女の文字をそっとなぞって、猫の肉球を撫でる。

「猫の怪我はすっかり治って、元気に走り回ってるそうですよ」

 今回の件で学んだのか、猫の脱走はずいぶんと減ったらしかった。代わりにこれでもかと室内を走り回るので、ソファやカーテンのいくつかを買い替えることになったらしい。

 マシロはふふ、と笑みをこぼした。
 マシロが保護していたときでさえ、猫はマシロが目を離した隙をついて屋内を徘徊していたと、マシロは言う。体の痛みをより好奇心が勝つのだろうか。

「どうも隙間が気になるようで。定期的に修繕していたつもりでしたが、ずいぶんと穴を指摘していただきました」

 壁にあいた小さな穴に、決して小さくはない体躯をねじ込もうとする猫の姿を想像する。獲物がいると思ったのかもしれない。もしくは入れると思ったのか。どちらにせよシュールな光景だったことだろう。少し見てみたかった。

「お疲れでしょう。簡単なものでよろしければ、お出ししますよ」

 そう言ってマシロは歩き出す。結局視線は合わせてもらえないままだった。
 マシロの後に続けば、あれだけ迷ったのが嘘のようにあっさりとマシロの家にたどり着いた。マシロは戸を開けて粟島を招き入れる。
 中に入ると、マシロは少女のお礼状を丁寧に棚にしまった。

 粟島は客間で待つよう言い渡されて、手伝いの許しは出なかった。しばらくして供されたのはお茶と和菓子だ。

「甘いものがお好きだとおっしゃっていたので」

 以前と同じ、紅色の和紅茶。菓子はくずきりで、きなこがかけられていた。便利な設備もない中、これを作るのにいったいどれほどの手間がかかったことだろう。

 向かいに座るマシロの前には何も置かれていなかった。粟島は持参した最中もなかを取り出そうとリュックに手を伸ばす。

「知っていらしたんですか?」

 問いの意図がわからず、粟島は手をとめて顔を上げた。

UMAゆーまやつちのこを頑なに否定していらした割には、あなたは物怪が灰になる様を見ても動揺されませんでした」

 マシロはまっすぐに粟島の目を見つめていた。粟島はとっさに答えられず目が泳ぐ。マシロはそれで納得したようだった。

 何か言わなければと思うのに、粟島の頭は真っ白でなんの言葉も出てこない。腕時計の秒針音が耳につく。膝の上で握った拳はひどく汗をかいているのに、口の中はカラカラだった。

「…………マシロさんは、いつから……ここにいるんですか?」

 ようやく絞り出した声は情けなく震えて、ずいぶんと掠れていた。
 ずっと聞きたくて、聞けなかったこと。知ってしまえばもう後戻りはできない。けれど知らないままでは、きっとマシロとの関係も終わってしまう。

 粟島は意を決してマシロの目を見た。山中も屋内も薄暗い。けれどツチノコの生息域には明るい陽が差し込んでいた。普段は黒々とした、しかし日に当たれば赤く輝く瞳と視線が合う。

 マシロは柔らかく微笑んで言った。

「少し、昔話に付き合っていただけますか」
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