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第二話 運命の日
しおりを挟む朝を迎えた御屋敷では、誰もが忙しなく見合いの準備に追われていた。
使用人たちが行き交い、廊下では花瓶の花を取り替える音や、装飾品を飾りたてる物音が響き渡っている。
結月は黙々と掃除をしていた。
銀髪を隠すように、頭には黒い覆い布を纏っている。
それが御屋敷で過ごす間の決まりごとだった。
広い廊下を雑巾で拭いていると、綺麗に着飾られた紗和が通りかかるのが視界に入った。
結月は反射的に手を止め、廊下の端へと身を寄せる。
すぐに退かなければ、また嫌味や皮肉を浴びせられるに違いない。
なるべく関わらないようにと、視線は廊下に向けたままにしていた。
だがやはり、紗和は絡んできた。
「今日が最後の日なんですから、精々綺麗に磨き上げてくださいね」
柔らかい笑みを浮かべながら、結月の方に目を落とす。その笑顔には底意地の悪い侮辱が混ざっていた。
紗和は着物の裾を押さえながら、丁寧に膝を折る。
動作こそ上品だが、赤褐色の瞳は獲物を捉えたように鋭く、容赦のない光を宿している。
覆い布に視線を定めた紗和は小さく顔を傾げ、さらに結月に近づいた。
「くれぐれも霧生院家の方々の前で、その布を取らないように」
その声は低く、どすを利かせたものへと変わっていた。
視界に映るのは、艶やかな赤い着物。一本の後れ毛もない髪は美しく結い上げられ、十五歳らしい薄化粧は彼女の幼さと可憐さを際立たせている。
そんな姿から発せられた声だとは思えないほどだった。
言葉を返せずにいると、紗和がゆっくりと立ち上がった。
そして、廊下の隅に置かれた桶へと歩み寄る。
「ここもお願いしていいかしら?」
彼女は桶に軽く足を掛けた。
桶から水がこぼれ、先ほど拭き上げたばかりの廊下を水浸しにしていく。
「なんだかここ、汚れてたみたいで。もう一度掃除してくれない?」
涼やかな声で言い放ちながら、紗和は再び笑みを浮かべる。
まったく悪意を隠そうとしない笑顔だ。
「……かしこまりました」
絞り出すような声で返事をすると、紗和は満足そうに背を向け、颯爽と廊下を歩いて行った。
一通りの掃除を終え、結月は物置小屋へと戻った。
頭を覆う布は通気性が悪く、すぐに蒸れてしまう。汗が頭に溜まり不衛生で、気持ちも落ち着かない。
布を取り替え額の汗を拭くため、小屋に立ち寄ったのだ。
──この物置小屋で過ごすのも、今日が最後ね……。
両親を失ったあの日、御屋敷から物置小屋へと突き放されるように追いやられた。
最初は恐怖と孤独に押しつぶされそうだった。
泣いても誰も助けてはくれず、夜は心細さで眠れなかった。
けれど月日が経つうちに、この狭くて薄暗い小屋に不思議な居心地のよさを感じるようになっていた。
冷たい現実から自分を守ってくれるような気がしたのだ。
そして、この世界で自分はたった一人なのだと諦めもついた。
覆い布を外すと、銀髪がふわりと広がりながら肩に落ちた。
胸下にかかる髪は母と同じくらいの長さにまで伸びていた。
十二歳の時、叔母に「目障りな髪だ」と無理やり切られた記憶がよみがえる。
巫女一族の中でも特に強大な力を持っていた母が死に、何も力を持たない自分だけがこの世に残されてしまった。
母の死後、約一年間、叔母はずっと苛立ちを抱えていたに違いない。
その苛立ちを晴らすために、自分の髪を切ったのだろう。
それでも叔母の苛立ちは収まらず、覆い布を被るようにと命じられたのだった。
「遥香の娘だから仕方なく置いてやっているのよ。紗和が嫁ぐ時には、さっさと出ていってもらいますから。女なら、その身体一つでどうとでも出来るでしょう?」
叔母が冷たく嘲笑った顔が、今も鮮明に記憶に焼き付いている。
当時は意味がわからなかったその言葉も、今なら理解できるようになっていた。
覆い布を手に取ると、結月は静かにため息をつく。
ふと叔母の顔が脳裏をよぎる。
嫌な予感がしたその刹那、小屋の扉が軋む音と一緒に叔母が姿を現した。
「相変わらず辛気臭い髪ね」
着物で口元を隠すようにして、すぐに蔑んだ言葉を投げつける。
結月は慌てて覆い布を手早く頭にかぶせ、その目線を避けた。
叔母はそのまま歩み寄ると懐から乱雑に畳まれた紙を取り出し、結月に差し出す。
「これ、絶縁状よ。今日から貴女はうちの子じゃなくなるの。ここまで忌み子をかくまっていたんだもの、感謝してほしいくらいだわ」
嘲るような笑みを浮かべたその顔は、どこか紗和に似ていた。やはり親子なのだと、嫌でも実感させられる。
結月が受け取るよりも先に、叔母は絶縁状を投げ捨てるように手放す。
そして、それ以上は何も言わず、足早に小屋を後にした。
叔母が現れたのは、正午が近づく頃だった。
それは霧生院家が見合いに訪れる時間。屋敷の中は一層騒がしくなっていた。
きっと叔母は、あえてこのときを選んだのだろう。
御屋敷にいる皆が見合いの準備に追われている。
仮に結月が抗議したところで、誰かが耳を貸すはずもない。
これ以上ないほど、都合のいい瞬間だったのだ。
小さく息を吐き、結月は巫女装束に着替えることにした。
冠婚葬祭の際には、巫女装束で身を纏うのがしきたりとなっている。
もっとも、結月が表舞台に立つことはないだろう。
それでもしきたりに倣って巫女装束を取り出したのは、『巫女である』という彼女なりの尊厳の現れだった。
──簪、今日だけは胸にしまっておこう。
箪笥の奥からそっと母の形見を取り出し、指先でなぞる。
淡く光を反射しているそれを、ぎゅっと握りしめた。
正門から賑やかな声が響いてくる。
霧生院家が到着したようだった。
──✩₊⁺⋆☾⋆⁺₊✧──
巫女一族──紫明野家の正門前に馬車が二台ついた。
手綱を握っていた男が二人、すぐに馬車から降りてきた。その後、二台の馬車から現れたのは男四人。
合計六人の男たちが、正門前に姿を現した。
全員が深い藍色を基調とした軍服風の装いをしており、腰にはしっかりと刀を差している。
その姿勢は隙のない正しさを感じさせた。
滅妖師──霧生院家の到着を告げる合図だった。
巫女と同様、滅妖師にも冠婚葬祭の際には軍服に身を包むしきたりがある。
見合いという名の婚約の場、そのしきたりに則った服装で現れるのは当然のことだった。
そこに特別、絢爛なマントを纏っている男が一人。
男は紺桔梗色の髪を首の後ろで一つにまとめている。
その髪は肩下まで届くほどの長さで、手入れの行き届いた艶やかな髪は日差しを受けてわずかに輝いていた。
黒曜石のような黒い瞳と切長な目は、どんなあやかしにも怯まない力強さを感じさせる。
どこか神秘的でありながら、世の女性たちを魅了する整った美しさを持っていた。
その男を先頭に、他の男たちは彼の後ろで背筋を伸ばし、かしこまっている。
「予定より十分も早いのだが?」
マントを払って腕組みをした男は、指先で自分の腕を軽く叩きながら、側近である眼鏡をかけた男に問いかけた。
「藤仁、時間は無限じゃないぞ?」
「十分前行動ですよ。暁生様」
藤仁は一歩後ろで、微笑みながら答える。
その冷静で几帳面な態度は、機械的な精度さえ感じさせた。
「藤仁……お前、本当に真面目だよな」
暁生は軽くため息をつきながら、少し呆れたように言う。
「ええ、これも暁生様のおかげです」
にこりと笑いながら嫌味っぽく返す藤仁に、暁生は薄ら笑って「けっ」と短く答えた。
霧生院暁生。
彼こそが滅妖師の名門、霧生院家の次期当主であり、紗和の見合い相手。
「俺も結婚とは。本当は、まだ遊んでたいんだがな」
暁生は軽く肩をすくめ、少し憂いを帯びた表情をしてみせる。
だが、その瞳の奥には次期当主としての覚悟が隠されているようにも感じられた。
「暁生様ももう十九。身を固めなければならないご年齢ですよ」
「お前だって同じだろう? そっちはどうなんだ?」
「そうですね。いずれ、その時が来たら。今は暁生様のお世話で手一杯ですから」
眼鏡を直し、肩を下ろしながら言った藤仁に暁生はつっかかる。
「それ、結婚できないのは俺のせいって言ってるのか?」
藤仁は「さあ、どうでしょう」と答え、ふっと笑った。
後ろにいる四人の護衛の男たちは、口を挟むことなく二人を見守っている。
その穏やかな表情から察するに、こうしたやり取りが日常茶飯事であることがうかがえた。
「有名な巫女一族って言ってもな。どうせ、その辺の巫女と変わらないだろう?」
暁生は正門に貼ってある真新しい結界の札を横目で見やった。
今朝、紗和が「この日のために」とわざわざ古いものから張り替えた結界札である。
「それはどうでしょう? もしかしたら、すごい力を秘めているかもしれませんよ」
「他人事だからって、お前は気楽でいいよな」
暁生は胸ポケットから一枚の白札を取り出し、それを折り畳んで両手で包み込む。
青白い光がわずかに手のひらから漏れ出し、手を開くと、その光を纏った一頭の蝶がひらりと現れた。
「……暁生様、また良からぬことをしようとしてますね?」
「さすが藤仁。式神で先に巫女の姿でも見てやろうと思ってな。とりあえず、神力が若くて強い巫女へと向かわせればいいだろう。それが見合い相手に決まっている」
暁生の言葉には余裕と遊び心が漂っていたが、その瞳は真剣でたった。
「私は知りませんからね。それに時間もないですし、手短にしてください」
「問題ない。俺の式神はバレない」
自信たっぷりに言った暁生に、藤仁は軽く肩をすくめ呆れた顔で応じた。
幻想的に輝いた蝶はひらひらと舞い、条件の主の元へと飛んでいった。
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