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「記録官は風に舞う」
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風は、春を連れてやってくる。
都の空にふわりと流れる桃花の香り。
朱塗りの宮門を過ぎれば、街路に溢れる笑い声と、季節の絵を思わせる華やかな衣装たちが迎えてくれる。
だが、春の陽気は、戦の地には届かない。
その日、城塞の外れにある軍の司令幕には、緊張が立ち込めていた。
副官が息を切らせて将軍の元に駆け寄る。
「将軍、陛下の使いより、勅命にて……新たな任官が」
「誰だ」
「記録官がひとり、軍へ派遣されます」
将――**杜若(とじゃく)**は、黙って使者を見やる。
長身で鋭い眼差し、戦場で数え切れぬ勝利を収めた寡黙な武将だ。
その名は都でも恐れとともに知られていた。
「記録など、戦場には不要だ」
「されど陛下のご意向です。“戦もまた歴史なり”と……」
しばしの沈黙の後、杜若は低く言った。
「好きにさせろ。ただし、命の保証はしない」
⸻
軍営に現れたその記録官――
名を**黎花(れいか)**という。
淡い山吹色の衣に、静かにまとめた黒髪。
女でありながら朝廷の記録官にまで上がった稀有な才を持つと、都では話題だった。
「はじめまして、将軍殿。黎花と申します。本日より、記録官としてお仕えいたします」
「女か」
「はい。女でも、筆は取れます」
「戦の記録など……命のやりとりだ。筆で綴るには生々しすぎる」
「それでも、誰かが記さなければ、“死”は風に消えていく。
この戦が、ただの数字にならぬよう、私はここに参りました」
杜若は、その言葉の奥に、ふと目を細めた。
「筆で、死者を慰めるつもりか」
「いいえ。慰めではなく――証です。
生きたことの、証を残すために」
風が吹いた。黎花の袖が揺れる。
その姿に、杜若は何か忘れかけたものを見た気がした。
⸻
日が暮れると、黎花は簡素な仮舎で、筆をとる。
戦況の推移、兵の配置、補給の状況。
だが、彼女の筆先はそれだけにとどまらなかった。
「兵の一人が、亡き子を想い、戦旗に願いを縫い込んだ――」
そんな細やかな人の想いを、彼女は書き留めていた。
杜若がそれを知ったのは、偶然のことだった。
夜半、視察から戻った彼は、小さな灯の下で筆を走らせる黎花を見た。
「……何をしている」
「今日の出来事を記しています」
「それだけではあるまい。余計なことも書いている」
「兵の一人が旗を縫っていました。
亡き我が子の名を。
将軍、それを記すことは……余計でしょうか?」
沈黙が落ちた。
「……否。だが、それを読む者が、どう思うかは別だ」
「読み手に委ねるのが、記録というものです」
夜は更け、炎は静かに揺れる。
杜若はしばらく彼女の筆先を見つめていたが、やがて一言だけ呟いた。
「貴女の筆が、誰かの魂を残せるなら――それは剣とは別の、戦だな」
⸻
その日、戦が起きた。
敵の小隊が夜陰に紛れて接近し、杜若はすぐさま出陣の命を下した。
黎花もまた筆を置き、軍に随行する。
「来なくてよい」と言われても、彼女は毅然と答えた。
「書かずして、真実は伝わりません。
私が目で見て、心で感じなければ、それは“記録”ではないのです」
――死を前にしても、筆を握る覚悟。
杜若は、その凛とした佇まいに、心の奥で何かが揺れるのを感じていた。
戦はすぐに終わった。少数の襲撃だったため、こちらに大きな被害はない。
だが、黎花は倒れた兵の側に膝をつき、手を合わせていた。
「記録官よ、情に溺れるな」と誰かが言った。
だが、彼女は答えた。
「情なくして、人は歴史を語れません。
ただの数字にするのは、死者への冒涜です」
⸻
その夜。
仮舎の灯りの中、杜若は再び黎花を訪ねた。
「一つ、聞きたい」
「はい」
「貴女は、記録の先に何を見る?」
黎花は少し考えてから、筆を止めた。
「……誰かが、“この時代を生きた者がいた”と知ってくれることです。
名を知らぬ者が、名を得ることなくとも。
ただ、この時代に生きたと――その痕跡が残れば、それでいい」
しんとした夜の中、杜若はしばらく何も言わなかった。
けれどその目に、確かにひとつの理解が宿っていた。
記録とは、剣では守れぬものを、守るための戦なのかもしれない――と。
そして、黎花という風変わりな記録官が、
これから先、自らの軍と、自らの心に何を刻んでいくのか――
その答えを、彼は無言のまま見つめ始めていた。
都の空にふわりと流れる桃花の香り。
朱塗りの宮門を過ぎれば、街路に溢れる笑い声と、季節の絵を思わせる華やかな衣装たちが迎えてくれる。
だが、春の陽気は、戦の地には届かない。
その日、城塞の外れにある軍の司令幕には、緊張が立ち込めていた。
副官が息を切らせて将軍の元に駆け寄る。
「将軍、陛下の使いより、勅命にて……新たな任官が」
「誰だ」
「記録官がひとり、軍へ派遣されます」
将――**杜若(とじゃく)**は、黙って使者を見やる。
長身で鋭い眼差し、戦場で数え切れぬ勝利を収めた寡黙な武将だ。
その名は都でも恐れとともに知られていた。
「記録など、戦場には不要だ」
「されど陛下のご意向です。“戦もまた歴史なり”と……」
しばしの沈黙の後、杜若は低く言った。
「好きにさせろ。ただし、命の保証はしない」
⸻
軍営に現れたその記録官――
名を**黎花(れいか)**という。
淡い山吹色の衣に、静かにまとめた黒髪。
女でありながら朝廷の記録官にまで上がった稀有な才を持つと、都では話題だった。
「はじめまして、将軍殿。黎花と申します。本日より、記録官としてお仕えいたします」
「女か」
「はい。女でも、筆は取れます」
「戦の記録など……命のやりとりだ。筆で綴るには生々しすぎる」
「それでも、誰かが記さなければ、“死”は風に消えていく。
この戦が、ただの数字にならぬよう、私はここに参りました」
杜若は、その言葉の奥に、ふと目を細めた。
「筆で、死者を慰めるつもりか」
「いいえ。慰めではなく――証です。
生きたことの、証を残すために」
風が吹いた。黎花の袖が揺れる。
その姿に、杜若は何か忘れかけたものを見た気がした。
⸻
日が暮れると、黎花は簡素な仮舎で、筆をとる。
戦況の推移、兵の配置、補給の状況。
だが、彼女の筆先はそれだけにとどまらなかった。
「兵の一人が、亡き子を想い、戦旗に願いを縫い込んだ――」
そんな細やかな人の想いを、彼女は書き留めていた。
杜若がそれを知ったのは、偶然のことだった。
夜半、視察から戻った彼は、小さな灯の下で筆を走らせる黎花を見た。
「……何をしている」
「今日の出来事を記しています」
「それだけではあるまい。余計なことも書いている」
「兵の一人が旗を縫っていました。
亡き我が子の名を。
将軍、それを記すことは……余計でしょうか?」
沈黙が落ちた。
「……否。だが、それを読む者が、どう思うかは別だ」
「読み手に委ねるのが、記録というものです」
夜は更け、炎は静かに揺れる。
杜若はしばらく彼女の筆先を見つめていたが、やがて一言だけ呟いた。
「貴女の筆が、誰かの魂を残せるなら――それは剣とは別の、戦だな」
⸻
その日、戦が起きた。
敵の小隊が夜陰に紛れて接近し、杜若はすぐさま出陣の命を下した。
黎花もまた筆を置き、軍に随行する。
「来なくてよい」と言われても、彼女は毅然と答えた。
「書かずして、真実は伝わりません。
私が目で見て、心で感じなければ、それは“記録”ではないのです」
――死を前にしても、筆を握る覚悟。
杜若は、その凛とした佇まいに、心の奥で何かが揺れるのを感じていた。
戦はすぐに終わった。少数の襲撃だったため、こちらに大きな被害はない。
だが、黎花は倒れた兵の側に膝をつき、手を合わせていた。
「記録官よ、情に溺れるな」と誰かが言った。
だが、彼女は答えた。
「情なくして、人は歴史を語れません。
ただの数字にするのは、死者への冒涜です」
⸻
その夜。
仮舎の灯りの中、杜若は再び黎花を訪ねた。
「一つ、聞きたい」
「はい」
「貴女は、記録の先に何を見る?」
黎花は少し考えてから、筆を止めた。
「……誰かが、“この時代を生きた者がいた”と知ってくれることです。
名を知らぬ者が、名を得ることなくとも。
ただ、この時代に生きたと――その痕跡が残れば、それでいい」
しんとした夜の中、杜若はしばらく何も言わなかった。
けれどその目に、確かにひとつの理解が宿っていた。
記録とは、剣では守れぬものを、守るための戦なのかもしれない――と。
そして、黎花という風変わりな記録官が、
これから先、自らの軍と、自らの心に何を刻んでいくのか――
その答えを、彼は無言のまま見つめ始めていた。
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