『春よ、君を守りたし ―中華恋絵巻―』の番外編

文字の大きさ
2 / 11

無言の花

しおりを挟む
春の終わり、風は微かに湿り気を帯び始める。
戦の地には、季節の移ろいさえも遅れてやってくる。

黎花が軍に加わってから三十日。
その名はすでに兵の間でも知られ始めていた。

「記録官さまが書いた話、あれ、読んだか? あの黄砂の日の戦……」

「おお、読んだとも。“兵の叫び、天に届かず”――ってやつだろ。泣けたぜ」

黎花の記録は、命のやりとりをただの勝敗に還元するのではなく、
そこに確かに生きた人間の姿を記し続けた。

それは、戦に心を失いがちな兵たちにとって、ある種の救いだった。

ただ一人を除いて――杜若を、除いて。



「将軍。昨日の記録を、お目通しいただければ」

黎花が手渡した紙片を、杜若はただ目で追った。
彼は言葉少なに目を通し、やがて言った。

「余計な情が多い」

「事実を、丁寧に記したまでです」

「事実とは、数字と動きだけで十分だ」

「それでは、亡くなった兵士の想いは?」

「想いで戦は動かん」

ふたりの会話は、いつも正面から噛み合わない。

けれど、どちらも譲らない。
それが、いつしか周囲にとっても“日常”になっていた。

「……将軍」

「何だ」

「あなたは、死者を恐れますか?」

杜若の目が一瞬揺れた。だがすぐ、静かに返す。

「恐れはせぬ。ただ、死んだ者の言葉が、生きている者の判断を曇らせるのが怖いだけだ」

「では私は、その“曇り”の役割なのですね」

「……どうだろうな」



その日の午後、杜若は一通の報告を受けた。

「将軍、前線の森で斥候がひとり消息を絶ちました」

「捜索隊を出せ」

だが、森は危険だった。
雨が降り、ぬかるみに足を取られる。敵兵が潜む可能性も高い。

それでも、杜若は自ら森へ向かった。
――いつものように、黎花が後を追うとは、この時は思ってもみなかった。



「黎花!」

「斥候が行方不明と聞き、記録のため同行いたします」

「命を賭けてまで書く必要があるのか?」

「将軍、命を賭けずに綴れる“生”など、ありません」

やれやれ、と杜若は息を吐いたが、それ以上は言わなかった。
結局、ふたりはともに森を進んだ。

雨が降り始め、木々の間を冷たい風が吹き抜ける。

やがて、一人の男が倒れているのを見つけた。
足に傷を負い、意識は朦朧としていたが、生きていた。

「よく耐えたな」

杜若が背負い、引き返す。

そのとき、黎花がふと立ち止まった。

「この木……」

桃の花が、一輪だけ咲いていた。
この時期、この地に桃の花があるのは珍しい。

「――この兵士、ここで春を見たのかもしれません」

「春、か」

「人は、最後に見るものを選べません。
けれど、この花が、彼の最後でなければいいと思うのです。
将軍、私はこの木のことも、記します」

「……ならば、それは“花の記録”ではないな」

「“命の記録”です」

その日、黎花は血に染まった兵士の名とともに、一輪の桃花を記した。



戻って数日後、杜若は黎花に声をかけた。

「……あの花は、もう散った」

「花は散ります。でも、記された言葉は残ります」

杜若はふっと目を細めた。
その瞳に、戦場で見ることのなかった“温度”が宿る。

「黎花、貴女の筆は……剣とは違うが、確かに何かを守っているな」

「はい。私は、名もなき者の魂を、守りたいのです」

ふたりの間に、言葉のいらぬ時間が流れる。

春の終わり、
無言の花が、ふたりの距離をそっと縮めていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

完結 愚王の側妃として嫁ぐはずの姉が逃げました

らむ
恋愛
とある国に食欲に色欲に娯楽に遊び呆け果てには金にもがめついと噂の、見た目も醜い王がいる。 そんな愚王の側妃として嫁ぐのは姉のはずだったのに、失踪したために代わりに嫁ぐことになった妹の私。 しかしいざ対面してみると、なんだか噂とは違うような… 完結決定済み

側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、孤独な陛下を癒したら、執着されて離してくれません!

花瀬ゆらぎ
恋愛
「おまえには、国王陛下の側妃になってもらう」 婚約者と親友に裏切られ、傷心の伯爵令嬢イリア。 追い打ちをかけるように父から命じられたのは、若き国王フェイランの側妃になることだった。 しかし、王宮で待っていたのは、「世継ぎを産んだら離縁」という非情な条件。 夫となったフェイランは冷たく、侍女からは蔑まれ、王妃からは「用が済んだら去れ」と突き放される。 けれど、イリアは知ってしまう。 彼が兄の死と誤解に苦しみ、誰よりも孤独の中にいることを──。 「私は、陛下の幸せを願っております。だから……離縁してください」 フェイランを想い、身を引こうとしたイリア。 しかし、無関心だったはずの陛下が、イリアを強く抱きしめて……!? 「離縁する気か?  許さない。私の心を乱しておいて、逃げられると思うな」 凍てついた王の心を溶かしたのは、売られた側妃の純真な愛。 孤独な陛下に執着され、正妃へと昇り詰める逆転ラブロマンス! ※ 以下のタイトルにて、ベリーズカフェでも公開中。 【側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、陛下は私を離してくれません】

貴方の側にずっと

麻実
恋愛
夫の不倫をきっかけに、妻は自分の気持ちと向き合うことになる。 本当に好きな人に逢えた時・・・

もう一度貴方と

麻実
恋愛
大学時代に付き合った男と別れて結婚した舞子。だけども結婚生活は味気なかった。そして・・。

捨てられた妻は悪魔と旅立ちます。

豆狸
恋愛
いっそ……いっそこんな風に私を想う言葉を口にしないでくれたなら、はっきりとペルブラン様のほうを選んでくれたなら捨て去ることが出来るのに、全身に絡みついた鎖のような私の恋心を。

婚約破棄ブームに乗ってみた結果、婚約者様が本性を現しました

ラム猫
恋愛
『最新のトレンドは、婚約破棄!  フィアンセに婚約破棄を提示して、相手の反応で本心を知ってみましょう。これにより、仲が深まったと答えたカップルは大勢います!  ※結果がどうなろうと、我々は責任を負いません』  ……という特設ページを親友から見せられたエレアノールは、なかなか距離の縮まらない婚約者が自分のことをどう思っているのかを知るためにも、この流行に乗ってみることにした。  彼が他の女性と仲良くしているところを目撃した今、彼と婚約破棄して身を引くのが正しいのかもしれないと、そう思いながら。  しかし実際に婚約破棄を提示してみると、彼は豹変して……!? ※『小説家になろう』様、『カクヨム』様にも投稿しています

暴君幼なじみは逃がしてくれない~囚われ愛は深く濃く

なかな悠桃
恋愛
暴君な溺愛幼なじみに振り回される女の子のお話。 ※誤字脱字はご了承くださいm(__)m

行き場を失った恋の終わらせ方

当麻月菜
恋愛
「君との婚約を白紙に戻してほしい」  自分の全てだったアイザックから別れを切り出されたエステルは、どうしてもこの恋を終わらすことができなかった。  避け続ける彼を求めて、復縁を願って、あの日聞けなかった答えを得るために、エステルは王城の夜会に出席する。    しかしやっと再会できた、そこには見たくない現実が待っていて……  恋の終わりを見届ける貴族青年と、行き場を失った恋の中をさ迷う令嬢の終わりと始まりの物語。 ※他のサイトにも重複投稿しています。

処理中です...