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無言の花
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春の終わり、風は微かに湿り気を帯び始める。
戦の地には、季節の移ろいさえも遅れてやってくる。
黎花が軍に加わってから三十日。
その名はすでに兵の間でも知られ始めていた。
「記録官さまが書いた話、あれ、読んだか? あの黄砂の日の戦……」
「おお、読んだとも。“兵の叫び、天に届かず”――ってやつだろ。泣けたぜ」
黎花の記録は、命のやりとりをただの勝敗に還元するのではなく、
そこに確かに生きた人間の姿を記し続けた。
それは、戦に心を失いがちな兵たちにとって、ある種の救いだった。
ただ一人を除いて――杜若を、除いて。
⸻
「将軍。昨日の記録を、お目通しいただければ」
黎花が手渡した紙片を、杜若はただ目で追った。
彼は言葉少なに目を通し、やがて言った。
「余計な情が多い」
「事実を、丁寧に記したまでです」
「事実とは、数字と動きだけで十分だ」
「それでは、亡くなった兵士の想いは?」
「想いで戦は動かん」
ふたりの会話は、いつも正面から噛み合わない。
けれど、どちらも譲らない。
それが、いつしか周囲にとっても“日常”になっていた。
「……将軍」
「何だ」
「あなたは、死者を恐れますか?」
杜若の目が一瞬揺れた。だがすぐ、静かに返す。
「恐れはせぬ。ただ、死んだ者の言葉が、生きている者の判断を曇らせるのが怖いだけだ」
「では私は、その“曇り”の役割なのですね」
「……どうだろうな」
⸻
その日の午後、杜若は一通の報告を受けた。
「将軍、前線の森で斥候がひとり消息を絶ちました」
「捜索隊を出せ」
だが、森は危険だった。
雨が降り、ぬかるみに足を取られる。敵兵が潜む可能性も高い。
それでも、杜若は自ら森へ向かった。
――いつものように、黎花が後を追うとは、この時は思ってもみなかった。
⸻
「黎花!」
「斥候が行方不明と聞き、記録のため同行いたします」
「命を賭けてまで書く必要があるのか?」
「将軍、命を賭けずに綴れる“生”など、ありません」
やれやれ、と杜若は息を吐いたが、それ以上は言わなかった。
結局、ふたりはともに森を進んだ。
雨が降り始め、木々の間を冷たい風が吹き抜ける。
やがて、一人の男が倒れているのを見つけた。
足に傷を負い、意識は朦朧としていたが、生きていた。
「よく耐えたな」
杜若が背負い、引き返す。
そのとき、黎花がふと立ち止まった。
「この木……」
桃の花が、一輪だけ咲いていた。
この時期、この地に桃の花があるのは珍しい。
「――この兵士、ここで春を見たのかもしれません」
「春、か」
「人は、最後に見るものを選べません。
けれど、この花が、彼の最後でなければいいと思うのです。
将軍、私はこの木のことも、記します」
「……ならば、それは“花の記録”ではないな」
「“命の記録”です」
その日、黎花は血に染まった兵士の名とともに、一輪の桃花を記した。
⸻
戻って数日後、杜若は黎花に声をかけた。
「……あの花は、もう散った」
「花は散ります。でも、記された言葉は残ります」
杜若はふっと目を細めた。
その瞳に、戦場で見ることのなかった“温度”が宿る。
「黎花、貴女の筆は……剣とは違うが、確かに何かを守っているな」
「はい。私は、名もなき者の魂を、守りたいのです」
ふたりの間に、言葉のいらぬ時間が流れる。
春の終わり、
無言の花が、ふたりの距離をそっと縮めていた。
戦の地には、季節の移ろいさえも遅れてやってくる。
黎花が軍に加わってから三十日。
その名はすでに兵の間でも知られ始めていた。
「記録官さまが書いた話、あれ、読んだか? あの黄砂の日の戦……」
「おお、読んだとも。“兵の叫び、天に届かず”――ってやつだろ。泣けたぜ」
黎花の記録は、命のやりとりをただの勝敗に還元するのではなく、
そこに確かに生きた人間の姿を記し続けた。
それは、戦に心を失いがちな兵たちにとって、ある種の救いだった。
ただ一人を除いて――杜若を、除いて。
⸻
「将軍。昨日の記録を、お目通しいただければ」
黎花が手渡した紙片を、杜若はただ目で追った。
彼は言葉少なに目を通し、やがて言った。
「余計な情が多い」
「事実を、丁寧に記したまでです」
「事実とは、数字と動きだけで十分だ」
「それでは、亡くなった兵士の想いは?」
「想いで戦は動かん」
ふたりの会話は、いつも正面から噛み合わない。
けれど、どちらも譲らない。
それが、いつしか周囲にとっても“日常”になっていた。
「……将軍」
「何だ」
「あなたは、死者を恐れますか?」
杜若の目が一瞬揺れた。だがすぐ、静かに返す。
「恐れはせぬ。ただ、死んだ者の言葉が、生きている者の判断を曇らせるのが怖いだけだ」
「では私は、その“曇り”の役割なのですね」
「……どうだろうな」
⸻
その日の午後、杜若は一通の報告を受けた。
「将軍、前線の森で斥候がひとり消息を絶ちました」
「捜索隊を出せ」
だが、森は危険だった。
雨が降り、ぬかるみに足を取られる。敵兵が潜む可能性も高い。
それでも、杜若は自ら森へ向かった。
――いつものように、黎花が後を追うとは、この時は思ってもみなかった。
⸻
「黎花!」
「斥候が行方不明と聞き、記録のため同行いたします」
「命を賭けてまで書く必要があるのか?」
「将軍、命を賭けずに綴れる“生”など、ありません」
やれやれ、と杜若は息を吐いたが、それ以上は言わなかった。
結局、ふたりはともに森を進んだ。
雨が降り始め、木々の間を冷たい風が吹き抜ける。
やがて、一人の男が倒れているのを見つけた。
足に傷を負い、意識は朦朧としていたが、生きていた。
「よく耐えたな」
杜若が背負い、引き返す。
そのとき、黎花がふと立ち止まった。
「この木……」
桃の花が、一輪だけ咲いていた。
この時期、この地に桃の花があるのは珍しい。
「――この兵士、ここで春を見たのかもしれません」
「春、か」
「人は、最後に見るものを選べません。
けれど、この花が、彼の最後でなければいいと思うのです。
将軍、私はこの木のことも、記します」
「……ならば、それは“花の記録”ではないな」
「“命の記録”です」
その日、黎花は血に染まった兵士の名とともに、一輪の桃花を記した。
⸻
戻って数日後、杜若は黎花に声をかけた。
「……あの花は、もう散った」
「花は散ります。でも、記された言葉は残ります」
杜若はふっと目を細めた。
その瞳に、戦場で見ることのなかった“温度”が宿る。
「黎花、貴女の筆は……剣とは違うが、確かに何かを守っているな」
「はい。私は、名もなき者の魂を、守りたいのです」
ふたりの間に、言葉のいらぬ時間が流れる。
春の終わり、
無言の花が、ふたりの距離をそっと縮めていた。
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