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第5話:姫と城の密謀
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五月雨の降る夜。
しとしとと屋根を叩く雨音が、静けさの中でやけに鋭く響いていた。
帰蝶が床に就こうとしたそのときだった。
女中が小さな声で囁くように告げた。
「美濃より、密書にございます」
思わず、帰蝶の指が止まる。
それは父の死後、ほとんど交流のなかった斎藤家からの文だった。
箱に封じられた巻紙をそっと開くと、そこには簡潔だが重い言葉が綴られていた。
「織田家は脆し。
いまこそ、美濃・尾張の再統合を。
そなたの役目、忘るるなかれ」
――密謀だった。
表立っては和睦している美濃と尾張。
だが、実際には不穏な気配が水面下で蠢いていた。
帰蝶の実家・斎藤家にとって、信長の存在はあまりに急進的で、危険だった。
「天下布武」などという理念は、今の世には馴染まず、斎藤家の家臣たちの多くは信長を脅威と見なしていた。
「私に、裏切れと?」
手にした文を握りしめながら、帰蝶は声を絞る。
血縁か、忠義か。
かつて「政略の駒」として嫁がされた自分に、今ふたたび“試練”が与えられていた。
その夜、信長は帰蝶の寝所を訪れた。
「珍しいな。雨の夜に、お前がひとりで庭を眺めているとは」
「……少し、気が重くて」
信長はその様子を見て、何かを察したのか、ふと表情を引き締めた。
「美濃から密書が届いたな?」
「――どうして、それを」
「間者から報せがあった。お前の実家が、そろそろ動き出す頃合いだとな」
淡々と語る信長。
だがその目には、鋭い光が宿っていた。
「俺は、お前がどちらを選ぼうと構わぬ。
ただ……お前自身が、己の誇りに従って選んでほしい」
帰蝶は静かに立ち上がり、密書を信長の前に差し出す。
「私が信じるのは、血ではありません。
私が見てきたのは、あなたの背中。
誰よりも先を見て、誰よりも孤独に歩くあなたの姿です」
信長はそれを受け取り、火鉢に近づくと、文を無言で火にくべた。
炎が一気に紙を焼き、灰となって舞い上がる。
「……これで、迷いはなくなった」
帰蝶の言葉に、信長はそっと目を細めた。
「もしこの先、お前の選択が刃となって俺を刺すとしても、俺は構わん。
だが、いまはその刃が俺のために振るわれるなら、それを誇りに思う」
「信長様……私はあなたを裏切りません。
あなたの夢に、私も命を懸けます」
ふたりの指が重なる。
その夜、帰蝶は信長の胸に顔を預けながら、静かに涙を流した。
それは悲しみではなく、覚悟の涙だった。
――家を捨てても、信じた男のために生きる。
姫としての宿命を超え、
帰蝶は、己の意志で信長の“焔”に身を投じたのだった。
しとしとと屋根を叩く雨音が、静けさの中でやけに鋭く響いていた。
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思わず、帰蝶の指が止まる。
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「私に、裏切れと?」
手にした文を握りしめながら、帰蝶は声を絞る。
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その夜、信長は帰蝶の寝所を訪れた。
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淡々と語る信長。
だがその目には、鋭い光が宿っていた。
「俺は、お前がどちらを選ぼうと構わぬ。
ただ……お前自身が、己の誇りに従って選んでほしい」
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「私が信じるのは、血ではありません。
私が見てきたのは、あなたの背中。
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「もしこの先、お前の選択が刃となって俺を刺すとしても、俺は構わん。
だが、いまはその刃が俺のために振るわれるなら、それを誇りに思う」
「信長様……私はあなたを裏切りません。
あなたの夢に、私も命を懸けます」
ふたりの指が重なる。
その夜、帰蝶は信長の胸に顔を預けながら、静かに涙を流した。
それは悲しみではなく、覚悟の涙だった。
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帰蝶は、己の意志で信長の“焔”に身を投じたのだった。
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