焔と華 ―信長と帰蝶の恋―

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第6話:修羅の門出

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――永禄十年、初夏。

尾張と美濃の国境、木曽川の水面に、戦の匂いが漂い始めていた。

「美濃攻めを、決行する」

信長が家臣たちの前でそう宣言したのは、ある静かな朝のことだった。
だが、その言葉はまるで雷のように響き渡り、誰もが息を呑んだ。

帰蝶もまた、その報を屋敷で聞いた。

「ついに……あの地に、刃を向けるのですね」

彼女の胸には、かつて過ごした美濃の山々、父の背、城の気配――
幼き日の記憶が次々に甦る。

だが、もう戻ることはない。
彼女はすでに“織田信長の妻”であり、戦に巻き込まれる側ではなく、戦の中枢に立つ者だった。

その夜、帰蝶は信長のいる作戦室を訪れた。

「信長様。私に、何かできることはありますか?」

信長は巻物から目を上げると、しばらく無言で彼女を見つめた。

「……美濃は、お前の故郷だ」

「ええ、けれど今の私は、あなたの隣に立つ者。
 過去に囚われるつもりはありません」

その言葉に、信長の顔に微かな笑みが浮かぶ。

「そうか。ならば、頼みがある」

信長は帰蝶の前に、古い地図を広げた。
それは、かつて斎藤家が使っていた美濃の軍略図だった。

「お前がかつていた屋敷――その周辺の地形や城兵の動き、知っている限りで教えてほしい」

帰蝶の指が、迷いなく地図の一点を指した。

「ここに抜け道があります。
 父が万が一のときのために造った“隠れ廊下”がこの山を越えて伸びているはず。
 使えれば、稲葉山城への奇襲も可能です」

信長の目が輝く。

「……やはり、お前は俺にとって最大の味方だな」

そう言って、信長は帰蝶の手をそっと取った。

「この戦は、俺にとって“国を奪う”戦いではない。
 “過去に勝つ”ための戦いだ」

「過去に?」

「ああ。父の死、兄との確執、うつけと笑われた日々――
 全部、美濃の者たちが俺を侮ってきた歴史だ。
 だから俺は、美濃をもって、“織田信長”という男の真価を示す」

帰蝶は黙ってその言葉を聞き、やがてゆっくりと頷いた。

「ならば、勝ってください。
 そして、美濃の地に、新たな旗を掲げてください――あなたの名で」

信長は強く頷くと、懐から短剣を取り出した。

「これは、父・信秀の形見だ。
 勝利の暁には、この短剣を稲葉山城の天守に掲げる。
 “美濃は織田のもの”――それを知らしめるために」

帰蝶はその刃に目をやり、静かに言った。

「その日が来たら、私はその城にあなたのための華を活けましょう。
 焔に咲く、最も強き花を」

そして出陣の日――

織田の軍勢が木曽川を渡るとき、
信長は馬上から振り返り、遠く離れた屋敷の方を一度だけ見た。

そこには、城の高楼から彼を見送る帰蝶の姿があった。

風にたなびく白い衣、
そして、髪にはあの日贈った金の簪が輝いていた。

「帰蝶。俺は、必ず勝つ。
 お前の華が咲くにふさわしい、強く清き焔になるために――」

風が吹き抜ける。

戦の気配を孕んだ風の中、信長は馬を駆り、美濃への修羅の門へと踏み出していった。

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