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第一章
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白梅の書生娘(はくばいのしょせいむすめ)
北方の寒村、潯陽(じんよう)の冬は厳しい。
雪が屋根を押し、風が戸を叩く頃、人々は早々に灯を落とし、藁布団の中で春を待つのが常であった。だが、村はずれの廃祠(はいし)から、今宵も筆の音が聞こえる。
「『天道は人を選ばず、志を抱く者にのみ、扉を開く』……と。」
少女は、煤けた灯籠の光を頼りに、古びた書を読み進めていた。
名は杜若(とじゃく)。齢は十四。
色白で線の細い体躯に、黒髪を布で結わえた慎ましい姿。父は早くに亡くなり、母と病の弟を抱えて生きる、極貧の書生の娘である。
読み終えると、彼女は筆を取り、紙の端にこう書き添えた。
「文こそ剣なり」
それが彼女の信条だった。力なき者にとって、唯一の武器は知であると、誰に教えられたでもなくそう思い込んできた。
彼女の家は、村人の施しと、彼女が代筆する手紙や文の報酬でなんとか生きている。だが、時には「女が学問など」と叱責されることもあった。
その日もそうだった。
「おぬしがまた祠で筆を取っていたと、村の子が言うておったぞ!」
母の声は怒りと不安に震えていた。
「人目を避けてまで学ぶ必要があるのか? 女に学問など、誰が嫁にもらう!」
「……嫁になることだけが、生きる道ではありません。」
静かながらもはっきりと、杜若は答えた。
母は絶句した。しばらくして、小さくつぶやく。
「おまえは父親に似た……強すぎる。」
***
数日後。村を騒がす一報が届いた。
「役人様が潯陽までおいでになるそうだぞ。南都の巡察使(じゅんさつし)様のお供じゃ!」
役人。巡察使。彼らは地方の不正や治安を見回る、都の官人である。村人にとっては、天の上の存在のようなものだった。
「……巡察使殿がおいでに?」
その報せに杜若の心が動いた。
都から来た者たち――そこには、本物の知があり、筆が国を動かす世界がある。見たい。話を聞きたい。自分のこの筆が、どこまで届くものなのかを、確かめたい。
そうして数日後。村に簡素な幕舎が張られ、南都から来た官人たちが到着した。
杜若は粗末な布を被り、人々の後ろに混じって様子をうかがった。
その中で、目を引いたのは一人の若き書記官だった。官服をまといながらも、どこか気品と優しさを湛えた青年。
(……あの人、何者だろう。)
彼の名は沈翊(しん・よく)。若き俊才と噂される都の官吏であり、巡察使の筆頭補佐であった。
翌日、杜若は意を決して、沈翊のもとに一通の書簡を届けた。
それは、村の現状と訴えを、端正な筆で綴った文であった。
幼い弟が病に苦しみ、村には薬もなく、腐敗した地方役人に収奪され続けていること。民は声を上げるすべもなく、ただ耐えるしかない日々が続いていること――
沈翊はその手紙に、目を見張った。
文は簡潔にして力強く、何より、情があった。
「これを……書いたのは誰だ?」
数日後、杜若は役人の幕舎に招かれることになる。
***
「君が、杜若嬢か。」
沈翊は、微笑みながら彼女を迎えた。
「手紙を読んだ。あのような文を綴れる者が、寒村にいるとは思わなかった。」
杜若は戸惑いながらも、まっすぐに答える。
「私は、学びたいのです。もっと、人を救える言葉を。真実を伝えられる筆を。」
沈翊は静かに頷いた。
「ならば、一つ提案がある。南都に来てはどうだ。」
「えっ……?」
「中央官庁の書記見習いとして、若干名を推挙できる権限が、我々にはある。……君のような才を、埋もれさせるのは惜しい。」
それは、夢が現実になったような言葉だった。
だが――
「母と弟がいます。私だけが都へ行くことなど……」
沈翊は目を伏せ、そして言った。
「一度では、道は開かぬ。だが、最初の一歩がなければ、何も始まらない。……君の筆は、きっと誰かの未来を変える。私はそう信じる。」
その言葉に、杜若の胸の奥で何かが芽吹いた。
白梅のように、厳しい冬の中でも凛と咲く――
それが、自らの使命だと、そう思った。
そして杜若は、ついに決断する。
「……お願いします。私を、南都へ連れて行ってください。」
こうして、一人の少女が、歴史の大河へと踏み出した。
それが、のちに『筆の女官』『白梅の書生娘』と称される杜若の、若き日の始まりであった。
(第一章 了)
北方の寒村、潯陽(じんよう)の冬は厳しい。
雪が屋根を押し、風が戸を叩く頃、人々は早々に灯を落とし、藁布団の中で春を待つのが常であった。だが、村はずれの廃祠(はいし)から、今宵も筆の音が聞こえる。
「『天道は人を選ばず、志を抱く者にのみ、扉を開く』……と。」
少女は、煤けた灯籠の光を頼りに、古びた書を読み進めていた。
名は杜若(とじゃく)。齢は十四。
色白で線の細い体躯に、黒髪を布で結わえた慎ましい姿。父は早くに亡くなり、母と病の弟を抱えて生きる、極貧の書生の娘である。
読み終えると、彼女は筆を取り、紙の端にこう書き添えた。
「文こそ剣なり」
それが彼女の信条だった。力なき者にとって、唯一の武器は知であると、誰に教えられたでもなくそう思い込んできた。
彼女の家は、村人の施しと、彼女が代筆する手紙や文の報酬でなんとか生きている。だが、時には「女が学問など」と叱責されることもあった。
その日もそうだった。
「おぬしがまた祠で筆を取っていたと、村の子が言うておったぞ!」
母の声は怒りと不安に震えていた。
「人目を避けてまで学ぶ必要があるのか? 女に学問など、誰が嫁にもらう!」
「……嫁になることだけが、生きる道ではありません。」
静かながらもはっきりと、杜若は答えた。
母は絶句した。しばらくして、小さくつぶやく。
「おまえは父親に似た……強すぎる。」
***
数日後。村を騒がす一報が届いた。
「役人様が潯陽までおいでになるそうだぞ。南都の巡察使(じゅんさつし)様のお供じゃ!」
役人。巡察使。彼らは地方の不正や治安を見回る、都の官人である。村人にとっては、天の上の存在のようなものだった。
「……巡察使殿がおいでに?」
その報せに杜若の心が動いた。
都から来た者たち――そこには、本物の知があり、筆が国を動かす世界がある。見たい。話を聞きたい。自分のこの筆が、どこまで届くものなのかを、確かめたい。
そうして数日後。村に簡素な幕舎が張られ、南都から来た官人たちが到着した。
杜若は粗末な布を被り、人々の後ろに混じって様子をうかがった。
その中で、目を引いたのは一人の若き書記官だった。官服をまといながらも、どこか気品と優しさを湛えた青年。
(……あの人、何者だろう。)
彼の名は沈翊(しん・よく)。若き俊才と噂される都の官吏であり、巡察使の筆頭補佐であった。
翌日、杜若は意を決して、沈翊のもとに一通の書簡を届けた。
それは、村の現状と訴えを、端正な筆で綴った文であった。
幼い弟が病に苦しみ、村には薬もなく、腐敗した地方役人に収奪され続けていること。民は声を上げるすべもなく、ただ耐えるしかない日々が続いていること――
沈翊はその手紙に、目を見張った。
文は簡潔にして力強く、何より、情があった。
「これを……書いたのは誰だ?」
数日後、杜若は役人の幕舎に招かれることになる。
***
「君が、杜若嬢か。」
沈翊は、微笑みながら彼女を迎えた。
「手紙を読んだ。あのような文を綴れる者が、寒村にいるとは思わなかった。」
杜若は戸惑いながらも、まっすぐに答える。
「私は、学びたいのです。もっと、人を救える言葉を。真実を伝えられる筆を。」
沈翊は静かに頷いた。
「ならば、一つ提案がある。南都に来てはどうだ。」
「えっ……?」
「中央官庁の書記見習いとして、若干名を推挙できる権限が、我々にはある。……君のような才を、埋もれさせるのは惜しい。」
それは、夢が現実になったような言葉だった。
だが――
「母と弟がいます。私だけが都へ行くことなど……」
沈翊は目を伏せ、そして言った。
「一度では、道は開かぬ。だが、最初の一歩がなければ、何も始まらない。……君の筆は、きっと誰かの未来を変える。私はそう信じる。」
その言葉に、杜若の胸の奥で何かが芽吹いた。
白梅のように、厳しい冬の中でも凛と咲く――
それが、自らの使命だと、そう思った。
そして杜若は、ついに決断する。
「……お願いします。私を、南都へ連れて行ってください。」
こうして、一人の少女が、歴史の大河へと踏み出した。
それが、のちに『筆の女官』『白梅の書生娘』と称される杜若の、若き日の始まりであった。
(第一章 了)
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