『春よ、君を守りたし ―中華恋絵巻―』前日譚

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第五十章

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忘れられた名

「名前を思い出すのが、怖かった」

神殿を出た後、少年はぽつりとそう呟いた。
夕暮れが瓦礫を紅く染め、空は静寂に包まれている。

「けれど、母さんの声を思い出した今……ようやくわかったんだ。
名前は、奪われるためのものじゃない。――託されるものだった」

彼の瞳に、澄んだ光が差していた。

「俺の名は――」

そのときだった。

空に、澄んだ鐘の音が響いた。
それは、杜若の持つ“声の帳”から生まれた音だった。

「この声は……」

杜若は巻物をそっと広げた。
その紙面に、知らぬ間に一行の文字が記されていた。

『封じられし名、ここに再び響け。――ライ(来)』

少年の目が見開かれる。

「“来”……! そうだ、俺の名は……来(ライ)だ!」

胸に手を当て、彼は力強く続けた。

「来靖(らいせい)。それが、俺の名」

杜若の胸に温かな風が吹き込むようだった。

来靖――それは、「来たる平安」を意味する名。
彼の母が願いをこめて授けた、未来を託す名前。

その名を口にした瞬間、無音の都に小さな音が戻り始めた。

風が草を揺らし、崩れた壁から鳥のさえずりが漏れ聞こえる。
音のない世界が、ゆっくりと、命を取り戻していく。

「声とは、命の痕跡。
記憶され、伝えられ、託されるもの……。
あなたの名が、都に音を戻したのね」

杜若の言葉に、来靖は静かに頷いた。

「ここはもう、“無音”じゃない。
これからは、“再音(さいおん)”と名乗ればいい」

そう言って、彼は遠くを見つめた。

「杜若。お前はこれからも、声を継ぐのか?」

「ええ。私は“声を守る者”。それが私に託された道だから」

風に乗って、杜若の髪が揺れる。
彼女の瞳に映るのは、遥か先の未来――

声の庁、そして景融、そして……誰かに託すべき“声の記録”。

「ありがとう、来靖。あなたのおかげで、大切なことを思い出せたわ」

「こちらこそ、杜若。……母の声が、お前を選んだ理由が分かったよ」

その言葉に、どこか照れたように微笑む杜若。

そして、ふたりはもう一度、都の外へ向かって歩き出す。

音を取り戻した“再音”の都を、背にして――

(第五十章 了)
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