『春よ、君を守りたし ―中華恋絵巻―』前日譚

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第五十三章

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天泉郷への道

朝靄(あさもや)が山道を包み、白く煙る木々の間を静かな風が吹き抜けていく。
杜若と来靖は、声の庁を旅立ち、天泉郷を目指して南方の山岳地帯へと足を踏み入れていた。

「……ここまで来ると、都のざわめきがまるで嘘みたいね」

杜若は立ち止まり、山道の先を見上げた。

視界の先には、霞の中にうっすらと浮かび上がる巨大な石門がある。
その門には、筆太くこう刻まれていた。

『泉より天を仰げ。声、そこに宿る』

「この門……まるで誰かの声が残ってるみたいだ」

来靖が門に近づき、手を添えた瞬間――

「ようやく来たか、“継ぐ者たち”よ」

どこからともなく声が響いた。
男でも女でもない、齢を重ねた声。

ふたりは身構えたが、目の前に現れたのは一人の盲目の翁だった。
手には一本の木の杖。目は閉じられているが、その顔には静かな微笑が浮かんでいる。

「名を名乗れ」と、翁は言った。

杜若は胸に手を当て、一礼した。

「私は杜若。“声を記す者”としてここへ来ました」

「来靖。“声を奪われた者”……ですが、今は“名を取り戻した者”です」

翁は頷く。

「その名は、此処でも記されている。“来たる平安”。
――君たちは、ただの旅人ではない。“始まりの声”を聞く者たちよ」

そう言って、翁は袖から古い竹簡を取り出した。
その表面には、文字ではなく音の波のような刻みが彫られていた。

「これは“蘭媛の残響”。
お前たちが探している“声の始祖”の、最後の記録だ」

杜若は思わず目を見開いた。

「蘭媛……声の庁よりも前に、声を守っていた“神代の巫女”……?」

翁は静かにうなずいた。

「天泉郷は、もはや幻の地ではない。
だが、“声”を継ぐ者でなければ、その中へは入れぬ」

そう言って、翁はふたりの前に竹簡を差し出す。

「この記録に残された“残響”を再現し、導きの声を呼び起こせ。
それができたとき――天泉郷の門が開く」

「……再現って、どうやって?」

来靖が問うと、翁は小さく笑った。

「“声の巫女”の記録は、音ではなく“心”に刻まれている。
君たち自身の声で、心を重ね、かつての記録を“響かせる”のだ」

杜若は竹簡を胸に抱えた。
まるでそれが、遠い昔の誰かの記憶を今に繋いでいるようだった。

「分かりました。私たちで、声の道を開きます」

「いいか、若き継ぎ手よ。
天泉郷には“声を記すことをやめた者たち”もいる。
彼らはお前たちに問いかけてくるだろう――
“声に未来はあるのか?”と」

杜若と来靖は、言葉もなく頷いた。

そしてふたりは、竹簡を手に、再び歩き出した。

その先に待つのは、声の始まりと、
まだ知らぬ“過去と未来を繋ぐ真実”。

(第五十三章 了)
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