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春雷、偽りの微笑み
しおりを挟む後宮――それは絢爛たる衣と香の薫りに包まれた、美しくも恐ろしい世界。
この地では、愛は力となり、愛されぬ者は名すら残さず消え去る。
瑠璃はその地へ、自らの意思で足を踏み入れた。
ただ一つの目的――十年前、無実の罪で命を奪われた父の真実を明らかにするため。
そして、少年時代の黎翔が約束した「守る」という言葉の真意を、再び問い直すために。
⸻
皇后・秀蓮(しゅうれん)の寝殿「雪嶺宮」。
白檀の香が仄かに漂う広間で、女たちのささやきが交わされていた。
「ご覧になりましたか、昨日のあの女の装い。まるで皇后のように振る舞って……」
「まあ……そもそも蘇家の娘など、よくも堂々と出て来られたものですわ」
女たちの声は、皇后の気を引こうとするように、刺々しく飾られていた。
だが当の秀蓮は、冷ややかに酒を口にしながら、微動だにせず耳を傾けていた。
「……愚か者たち。口先だけでは、この後宮は制せぬ」
彼女の目は鋭い鷹のように細められ、かすかに笑みを浮かべる。
「蘇瑠璃――ただの寵姫では終わらせませんわよ。陛下の“過去”を、あの娘が呼び戻すならば……いずれ私の座さえも危うくなる」
側近の内侍・麗香(れいこう)がすぐに耳打ちした。
「皇后様、蘇瑠璃について裏の調査が進んでおります。近く、動かぬ証拠を……」
「ふふ、楽しみね。お披露目は“花宴”に間に合うかしら?」
⸻
数日後、春の恒例行事「花宴(かえん)」が皇宮内の御花園で催された。
これは后妃や側室たちが、皇帝の前で舞や詩を披露し、才色を競い合う場。
ただし、その裏では「誰が今、最も寵を受けているか」を全宮中が見定める、政治的な戦いの場でもあった。
瑠璃は、静かに簪を挿し直す。
(私の出番……ここが最初の関門)
彼女は薄紅の衣に金糸を織り込んだ舞姫の装いで、庭の中央へと進み出る。
「次なるは、四夫人・蘇瑠璃の舞――」
その声とともに、鼓の音が静かに鳴り響いた。
風がそっと吹き、桃花が舞う。
瑠璃の袖が翻るたび、ひとひら、ふたひらと花が踊るように舞った。
観る者すべてが息を呑む美しさ――
だがその視線の中で、ひときわ鋭かったのが皇后・秀蓮である。
「まるで……“皇后”の舞……ね」
皇帝・黎翔もまた、その姿をじっと見つめていた。
かつて彼女がまだ少女だった頃、山野の桃林で手を取り踊った記憶が、胸に蘇る。
(瑠璃……お前は、変わらぬまま……それでいて、私の届かぬ場所にいる)
舞が終わり、瑠璃が深く頭を垂れると、辺りはしばし静寂に包まれた。
そして――
「美しい。実に見事であった」
皇帝がそう言葉を漏らした瞬間、どよめきが起きた。
皇帝自らが感嘆の声を上げることなど、滅多にない。
その瞬間から、後宮の風向きが変わった。
⸻
宴が終わった夜――
瑠璃が居室に戻ると、桃香が慌ただしく駆け込んできた。
「姫様、大変です。これは……」
差し出されたのは、墨書で書かれた巻物。
“蘇瑠璃、実は蘇元恒の娘に非ず――生まれは謎の妾腹より。忠臣の娘など虚構なり”
「これ……誰が……」
「雪嶺宮の女官が、内密に出したものと……」
瑠璃の手がわずかに震えた。
事実無根。けれど後宮では“噂”が真実を凌駕する。
「狙いは私の立場を揺るがすこと。こんな文だけで……私を葬れると?」
彼女は笑った。
その笑みには、恐れではなく――決意の炎が宿っていた。
「ならば、受けて立ちましょう」
⸻
翌日、瑠璃はひとりで皇帝のもとを訪ねた。
「陛下、お願いがございます」
「なんだ?」
「私の素性について、誹謗中傷が流れております。私は、それに答えねばなりません」
「答える必要はない。私はお前を信じている」
「……そのお気持ちだけで、私は動けません。私がこの後宮にいる限り、“蘇家の名”は常に問われ続ける。ならば……この手で晴らしたいのです」
黎翔は、ゆっくりと席を立つ。
「お前は変わったな。かつては泣き虫だったのに……今は誰よりも強い」
「違います。泣いてなどいられないのです。泣いたら、父も、陛下も、守れないから」
その言葉に、黎翔の胸が揺れた。
「ならば好きにするがいい。ただし――危険な目には遭うな」
「……それは、命じてくださったと解釈してよろしいですか?」
ふっと、ふたりの間にかつての懐かしさが香る。
⸻
同じ頃――
皇后・秀蓮は、宮中の密偵に命じていた調査結果を手にしていた。
「……蘇瑠璃。やはり……面白い女」
密書にはこう記されていた。
“蘇元恒の遺児にして、かつて皇子黎翔と深い仲にあった。
そして今、彼女の兄と思しき男が、各地の文士を巡って密かに何かを探っている――”
「兄……? まだ生きていたの?」
思わぬ情報に、秀蓮の目が細まる。
「ならば、まずは“兄”を炙り出しましょう。後宮を動かせぬなら、外から切り崩せばいい……」
⸻
夜が深まり、後宮に月が昇る。
庭の池にひとり佇む瑠璃の元に、風が吹き抜ける。
「父上……私は、あなたの名を守り抜きます。
あなたの死を、“謀反”では終わらせない――」
彼女の瞳には、もはや少女のあどけなさはない。
あるのは、運命を背負う者の静かな炎。
そして、池の水面には、一羽の白鷺が舞い降りた。
それは、まるで亡き父が娘を見守るかのように――
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