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第二話「春夢の果て」
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月明かりは静かに瓦屋根を照らしていた。
夜更けの長屋の一角、ひとり男が燻る煙管(きせる)の火を見つめていた。
その男――新三郎は、かつて奉行所の密偵として吉原に出入りしていた。
仕事のために近づいたはずの花魁、紫乃に本気で心を寄せてしまい、すべてを投げ打って彼女と逃げる決意をした――
……だが彼女は、待ち合わせの朝、忽然と姿を消した。
残された手紙。
見返り柳の下に転がっていた彼女の簪。
それが、彼女の決別のすべてだった。
あれから三十日。
日を追うごとに、花も葉も散り、町は初夏の装いへと移り変わる。
だが新三郎の心には、いまだあの夜の灯火だけが揺れていた。
「……おれは、死に損なったのかもしれねぇな」
部屋の隅、酒瓶がいくつも倒れている。
もう、奉行所に戻る気など毛頭なかった。
密偵としての役目は終わった。
恋人を喪った男に残されたのは、身分も仕事も、生きる意味すらない空虚だけだった。
⸻
ある晩、新三郎はふらりと浅草寺の境内を歩いていた。
千社札の貼られた柱に寄りかかり、行き交う人波を眺めていると、不意に背後から声をかけられる。
「……おい。三郎か?」
声の主は、かつて奉行所で同じ密偵を務めていた男――善助だった。
「お前、今どこに身を置いてる? 三番組がてっきりお前を北に送り込んだと――」
「もう、役は降りた。吉原に関わった時点で、俺は……」
新三郎の声は濁っていた。
善助は黙ったまま、新三郎のやつれた姿を見つめた。
その表情に、かつての仲間としての複雑な情が滲んでいた。
「……紫乃って花魁、死んだと聞いた」
「誰からだ」
「北町筋の聞き込みでな。見返り柳のあたりで見たって者がいる。……あん時、お前が何を選んだのか、わかる気がする」
「……もう、知るな」
善助はそれ以上何も言わず、煙草に火を点け、背を向けた。
⸻
数日後。
新三郎は、北の方――深川の船宿に身を移した。
昼間は舟の荷運びをし、夜は独りで燈明を見つめるだけの毎日。
金も、名前も、過去も捨てて、ただ紫乃の面影だけを胸に抱いていた。
夜風に揺れる川面を見ていると、不意に紫乃の笑顔が浮かぶ。
「三郎様、月がこんなに綺麗な夜は、嘘のない言葉が欲しゅうございますね」
「……すまなかった」
口をついて出たその言葉に、返す声はない。
⸻
ある夜、深川の茶屋でひとつの噂が流れた。
「吉原に、紫乃によう似た花魁が現れたらしいぜ。名前は“椿”ってぇらしいが、あの目元と声色が、まるで……」
新三郎は思わず耳を疑った。
「……紫乃が、生きている?」
その夜、新三郎は身支度を整えると、再び吉原を目指した。
⸻
夜の吉原は、かつてと何も変わらぬ華やかさで、紅殻格子の内から笑い声が響いていた。
新三郎は、灯の下に佇むひとりの女を見つけた。
白粉の下から覗く、憂いを帯びた瞳。
高く結い上げた髪に挿された紅椿の簪。
まるで、紫乃そのものだった。
女は“椿”と名乗った。
声も、所作も、紫乃にそっくり――だが、紫乃ではなかった。
「……あなた、どこかでお会いしましたか?」
「……いや、似ていたものでな」
新三郎は、それ以上何も言わず、その場を去った。
歩きながら、胸の奥で何かが静かに終わる音がした。
紫乃はいない。
もはやどこにも、いないのだ。
だが、紫乃が命を懸けて教えてくれたものがあった。
「想うことは、罪ではない」
「女であっても、男であっても、命を賭けていいほどの恋はある」
その教えだけが、新三郎の魂に残っていた。
⸻
それから、新三郎は旅に出た。
名を変え、顔を変え、人助けをしながら生きる日々。
京の町では、ひとりの娘が夜鷹に攫われそうになっていたところを助け、
大坂では、病人に薬を配る医者の手伝いをした。
「お前、何者なんだ?」
そう問われるたびに、新三郎はただ微笑んで言うのだった。
「ただの、過去に恋をした男です」
彼の旅路は、今もどこかで続いている。
ある晩、宿の縁側で風鈴の音を聞きながら、新三郎はふと、かつての吉原の灯を思い出す。
桜が舞い、紅の着物をまとった紫乃が微笑んでいる。
その幻のような情景は、決して消え去ることはなかった。
それは、春夢――
一度は手にしたが、指の間からこぼれていった、甘く苦い夢。
新三郎の心には、今もその灯が、消えぬまま、揺れていた。
⸻
――第二話・終――
夜更けの長屋の一角、ひとり男が燻る煙管(きせる)の火を見つめていた。
その男――新三郎は、かつて奉行所の密偵として吉原に出入りしていた。
仕事のために近づいたはずの花魁、紫乃に本気で心を寄せてしまい、すべてを投げ打って彼女と逃げる決意をした――
……だが彼女は、待ち合わせの朝、忽然と姿を消した。
残された手紙。
見返り柳の下に転がっていた彼女の簪。
それが、彼女の決別のすべてだった。
あれから三十日。
日を追うごとに、花も葉も散り、町は初夏の装いへと移り変わる。
だが新三郎の心には、いまだあの夜の灯火だけが揺れていた。
「……おれは、死に損なったのかもしれねぇな」
部屋の隅、酒瓶がいくつも倒れている。
もう、奉行所に戻る気など毛頭なかった。
密偵としての役目は終わった。
恋人を喪った男に残されたのは、身分も仕事も、生きる意味すらない空虚だけだった。
⸻
ある晩、新三郎はふらりと浅草寺の境内を歩いていた。
千社札の貼られた柱に寄りかかり、行き交う人波を眺めていると、不意に背後から声をかけられる。
「……おい。三郎か?」
声の主は、かつて奉行所で同じ密偵を務めていた男――善助だった。
「お前、今どこに身を置いてる? 三番組がてっきりお前を北に送り込んだと――」
「もう、役は降りた。吉原に関わった時点で、俺は……」
新三郎の声は濁っていた。
善助は黙ったまま、新三郎のやつれた姿を見つめた。
その表情に、かつての仲間としての複雑な情が滲んでいた。
「……紫乃って花魁、死んだと聞いた」
「誰からだ」
「北町筋の聞き込みでな。見返り柳のあたりで見たって者がいる。……あん時、お前が何を選んだのか、わかる気がする」
「……もう、知るな」
善助はそれ以上何も言わず、煙草に火を点け、背を向けた。
⸻
数日後。
新三郎は、北の方――深川の船宿に身を移した。
昼間は舟の荷運びをし、夜は独りで燈明を見つめるだけの毎日。
金も、名前も、過去も捨てて、ただ紫乃の面影だけを胸に抱いていた。
夜風に揺れる川面を見ていると、不意に紫乃の笑顔が浮かぶ。
「三郎様、月がこんなに綺麗な夜は、嘘のない言葉が欲しゅうございますね」
「……すまなかった」
口をついて出たその言葉に、返す声はない。
⸻
ある夜、深川の茶屋でひとつの噂が流れた。
「吉原に、紫乃によう似た花魁が現れたらしいぜ。名前は“椿”ってぇらしいが、あの目元と声色が、まるで……」
新三郎は思わず耳を疑った。
「……紫乃が、生きている?」
その夜、新三郎は身支度を整えると、再び吉原を目指した。
⸻
夜の吉原は、かつてと何も変わらぬ華やかさで、紅殻格子の内から笑い声が響いていた。
新三郎は、灯の下に佇むひとりの女を見つけた。
白粉の下から覗く、憂いを帯びた瞳。
高く結い上げた髪に挿された紅椿の簪。
まるで、紫乃そのものだった。
女は“椿”と名乗った。
声も、所作も、紫乃にそっくり――だが、紫乃ではなかった。
「……あなた、どこかでお会いしましたか?」
「……いや、似ていたものでな」
新三郎は、それ以上何も言わず、その場を去った。
歩きながら、胸の奥で何かが静かに終わる音がした。
紫乃はいない。
もはやどこにも、いないのだ。
だが、紫乃が命を懸けて教えてくれたものがあった。
「想うことは、罪ではない」
「女であっても、男であっても、命を賭けていいほどの恋はある」
その教えだけが、新三郎の魂に残っていた。
⸻
それから、新三郎は旅に出た。
名を変え、顔を変え、人助けをしながら生きる日々。
京の町では、ひとりの娘が夜鷹に攫われそうになっていたところを助け、
大坂では、病人に薬を配る医者の手伝いをした。
「お前、何者なんだ?」
そう問われるたびに、新三郎はただ微笑んで言うのだった。
「ただの、過去に恋をした男です」
彼の旅路は、今もどこかで続いている。
ある晩、宿の縁側で風鈴の音を聞きながら、新三郎はふと、かつての吉原の灯を思い出す。
桜が舞い、紅の着物をまとった紫乃が微笑んでいる。
その幻のような情景は、決して消え去ることはなかった。
それは、春夢――
一度は手にしたが、指の間からこぼれていった、甘く苦い夢。
新三郎の心には、今もその灯が、消えぬまま、揺れていた。
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――第二話・終――
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