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第三話「夢見草、ふたたび」
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京と大坂を経て、播磨の宿場町・山崎宿に足を留めた新三郎は、ある茶屋で休んでいた。
風はすでに夏の匂いを帯びていたが、山あいのこの町はどこか懐かしさを湛えた静けさがあった。
「――お待たせしました」
茶を運んできたのは、まだ若い娘だった。白粉など塗ってはいないが、目元にどこか見覚えがある。
――いや、似ているのだ。
紫乃に。
新三郎は思わず、湯呑を置いたまま娘を見つめていた。
「……あの、何か?」
「あ、いや……失礼」
娘は小さく頭を下げると、微笑んで立ち去った。その後ろ姿に、あの日の紅の着物と簪が重なる。
「まさかな……」
それでも、心はざわめいた。
⸻
その晩、新三郎は再びその茶屋に立ち寄った。
すると、夕餉時を終えたばかりの娘がひとり、縁台で風を浴びていた。
「あの……」
「またお越しくださったのですね」
娘はにこやかに言った。
「申し遅れました、うちは“千草”と申します」
「千草……いい名だ」
新三郎は自分の名を告げず、ただ「旅の者」とだけ名乗った。
「……変なことを訊くようだが、おまえの家族に、吉原にいた者はいないか」
千草は、驚いたように目を見開いた。
「……お兄さん、どうしてそれを?」
「やはり、そうか」
千草は、ひと息ついてから静かに語り出した。
「……うちには、姉がおりました。“紫乃”といいます」
新三郎の手が、ひときわ強く握られた。
「うちはまだ幼くて、姉が吉原に売られていった日……何もできなかった。
姉はたまに文を寄越してくれました。“ここは、夢のような場所よ”って。
でも、あの文にはいつも、花の香りがして……きっと、夢ではなくて、幻やったんやなぁって」
新三郎は、文の香りまで思い出していた。
紫乃が自分の袖に香を焚きしめていた、あの夜の匂い。
「……姉上は、あの場所で死なはったんですか?」
千草の問いに、新三郎はしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……ああ。お前の姉は……とても強い女だった。誰よりも、自分に正直に生きた」
千草は、静かに目を閉じた。
「……そうですか。やっぱり、逢えへんのですね……」
「すまなかった。おれが……もっと早く、手を引けていたら」
「いいえ。姉上が選んだのなら、悔いはなかったはずです。あの人は、嘘のない人でしたから」
新三郎の胸が締めつけられる。
紫乃と同じように、芯のある言葉。
千草の中には、あの火のような魂が生きていた。
⸻
その晩、新三郎は茶屋の裏手にある古い井戸の傍で、ひとり煙草を燻らせていた。
すると、千草が灯を手にやってきた。
「……こんな時間に、おひとりですか」
「夜は……考えるには、ちょうどいい」
「何を、です?」
「生きているということが、何なのか」
「それは、誰かのことを想って苦しくなること――じゃないですか?」
新三郎は、ふと笑った。
「……紫乃も、そんなことを言っていたよ」
「じゃあ、姉上から聞いたかもしれませんね。うち、昔からそう言ってたんです。
“恋することも、生きるってことや”って。
だから、たとえ叶わなくても、想える人がいるってだけで、人は立てる」
「……お前は、誰かいるのか?」
千草は、静かにかぶりを振った。
「今はおりません。けど、もし……姉上が愛した方と、こんなふうに話せるなら、
それだけで……うちは、姉上と繋がれた気がします」
灯の明かりに照らされた千草の瞳には、紫乃と同じ光が宿っていた。
新三郎は、長く凍っていた胸の奥が、わずかに溶けていくのを感じた。
⸻
それから幾日か、旅を延ばしては茶屋を訪れるようになった新三郎は、千草と幾度も語り合った。
花の話、姉の話、生きるということ――
語り尽くせぬことを、ただ静かに言葉にした。
ある夕暮れ、千草が言った。
「姉上がいた頃は、夜が怖かった。でも今は、夜が少しだけ好きになりました。
誰かが待っていてくれる夜は、あたたかいですね」
新三郎はその言葉を、胸に深く刻んだ。
⸻
やがて旅立ちの日が来た。
千草は何も言わず、ただ一枚の小さな布を新三郎に差し出した。
それは紫乃がつけていた香り袋に似ていた。
「姉上が好きだった香を……うちが再現してみたんです。香りだけでも、覚えていてください」
新三郎は、言葉もなくそれを受け取り、深く頭を下げた。
「ありがとう。……紫乃の想いは、お前が受け継いでくれた」
「姉上の代わりはできません。けれど……あなたの灯火が、消えぬように。
うちが、風除けくらいにはなれたら、ええなと思います」
⸻
新三郎は再び旅に出た。
だが、その心にはもう孤独はなかった。
紫乃の魂は、今も確かに誰かの中に生きている。
そして、自分もまた、誰かの想いに支えられて、生きていくのだと。
――夢見草(ゆめみぐさ)は、またひとつ花を咲かせた。
今度は、散るためではなく、灯火を守るために。
⸻
――第三話・終――
風はすでに夏の匂いを帯びていたが、山あいのこの町はどこか懐かしさを湛えた静けさがあった。
「――お待たせしました」
茶を運んできたのは、まだ若い娘だった。白粉など塗ってはいないが、目元にどこか見覚えがある。
――いや、似ているのだ。
紫乃に。
新三郎は思わず、湯呑を置いたまま娘を見つめていた。
「……あの、何か?」
「あ、いや……失礼」
娘は小さく頭を下げると、微笑んで立ち去った。その後ろ姿に、あの日の紅の着物と簪が重なる。
「まさかな……」
それでも、心はざわめいた。
⸻
その晩、新三郎は再びその茶屋に立ち寄った。
すると、夕餉時を終えたばかりの娘がひとり、縁台で風を浴びていた。
「あの……」
「またお越しくださったのですね」
娘はにこやかに言った。
「申し遅れました、うちは“千草”と申します」
「千草……いい名だ」
新三郎は自分の名を告げず、ただ「旅の者」とだけ名乗った。
「……変なことを訊くようだが、おまえの家族に、吉原にいた者はいないか」
千草は、驚いたように目を見開いた。
「……お兄さん、どうしてそれを?」
「やはり、そうか」
千草は、ひと息ついてから静かに語り出した。
「……うちには、姉がおりました。“紫乃”といいます」
新三郎の手が、ひときわ強く握られた。
「うちはまだ幼くて、姉が吉原に売られていった日……何もできなかった。
姉はたまに文を寄越してくれました。“ここは、夢のような場所よ”って。
でも、あの文にはいつも、花の香りがして……きっと、夢ではなくて、幻やったんやなぁって」
新三郎は、文の香りまで思い出していた。
紫乃が自分の袖に香を焚きしめていた、あの夜の匂い。
「……姉上は、あの場所で死なはったんですか?」
千草の問いに、新三郎はしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……ああ。お前の姉は……とても強い女だった。誰よりも、自分に正直に生きた」
千草は、静かに目を閉じた。
「……そうですか。やっぱり、逢えへんのですね……」
「すまなかった。おれが……もっと早く、手を引けていたら」
「いいえ。姉上が選んだのなら、悔いはなかったはずです。あの人は、嘘のない人でしたから」
新三郎の胸が締めつけられる。
紫乃と同じように、芯のある言葉。
千草の中には、あの火のような魂が生きていた。
⸻
その晩、新三郎は茶屋の裏手にある古い井戸の傍で、ひとり煙草を燻らせていた。
すると、千草が灯を手にやってきた。
「……こんな時間に、おひとりですか」
「夜は……考えるには、ちょうどいい」
「何を、です?」
「生きているということが、何なのか」
「それは、誰かのことを想って苦しくなること――じゃないですか?」
新三郎は、ふと笑った。
「……紫乃も、そんなことを言っていたよ」
「じゃあ、姉上から聞いたかもしれませんね。うち、昔からそう言ってたんです。
“恋することも、生きるってことや”って。
だから、たとえ叶わなくても、想える人がいるってだけで、人は立てる」
「……お前は、誰かいるのか?」
千草は、静かにかぶりを振った。
「今はおりません。けど、もし……姉上が愛した方と、こんなふうに話せるなら、
それだけで……うちは、姉上と繋がれた気がします」
灯の明かりに照らされた千草の瞳には、紫乃と同じ光が宿っていた。
新三郎は、長く凍っていた胸の奥が、わずかに溶けていくのを感じた。
⸻
それから幾日か、旅を延ばしては茶屋を訪れるようになった新三郎は、千草と幾度も語り合った。
花の話、姉の話、生きるということ――
語り尽くせぬことを、ただ静かに言葉にした。
ある夕暮れ、千草が言った。
「姉上がいた頃は、夜が怖かった。でも今は、夜が少しだけ好きになりました。
誰かが待っていてくれる夜は、あたたかいですね」
新三郎はその言葉を、胸に深く刻んだ。
⸻
やがて旅立ちの日が来た。
千草は何も言わず、ただ一枚の小さな布を新三郎に差し出した。
それは紫乃がつけていた香り袋に似ていた。
「姉上が好きだった香を……うちが再現してみたんです。香りだけでも、覚えていてください」
新三郎は、言葉もなくそれを受け取り、深く頭を下げた。
「ありがとう。……紫乃の想いは、お前が受け継いでくれた」
「姉上の代わりはできません。けれど……あなたの灯火が、消えぬように。
うちが、風除けくらいにはなれたら、ええなと思います」
⸻
新三郎は再び旅に出た。
だが、その心にはもう孤独はなかった。
紫乃の魂は、今も確かに誰かの中に生きている。
そして、自分もまた、誰かの想いに支えられて、生きていくのだと。
――夢見草(ゆめみぐさ)は、またひとつ花を咲かせた。
今度は、散るためではなく、灯火を守るために。
⸻
――第三話・終――
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