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第四話「紅椿、まどろみの雪」
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冷たい風が、頬を撫でる。
旅装を纏った新三郎は、白雪に覆われた街道をひとり歩いていた。ここは、会津・七日町。
山々の端に冬の陽が沈むと、町は一気に夕闇へと沈み、あちこちの家から焚き火の煙が上がっていた。
「……やっぱり、北国の冬は骨に染みるな」
しばらく旅を重ねた末、新三郎はこの会津に身を寄せていた。かつての自分を知る者などおらぬこの地では、「三吉」と名を変え、小さな薬種商人として町に馴染み始めていた。
だが――
その日、いつものように薬包を届けに行った帰り道、ひとりの娘に呼び止められた。
「すみません。ひとつ、お訊ねしてもよろしいでしょうか」
振り向いた新三郎の目に映ったのは、深紅の椿を髪に挿した娘だった。
……その椿の簪。
――まさしく、紫乃がいつも愛用していた意匠。
目の前の娘は十七、八ほどの年頃。白い息を吐きながら、じっとこちらを見上げていた。
「この椿の簪を、以前どこかで……見かけたことはありませんか?」
その言葉に、新三郎の胸が音を立てて揺れた。
「どうして、それを?」
「……母の形見なんです。ずっと、都の方にいたらしいのですが……その母のことを、知る人を探して、ここまで来たんです」
「お母上の名は?」
娘は、少しだけ躊躇したように唇を結び、静かに答えた。
「“紫乃”と申しました」
新三郎の視界が、ふと滲んだ。
⸻
雪の降る囲炉裏端、新三郎と少女――“沙雪”は、向かい合って座っていた。
沙雪は、紫乃の遺児だった。
紫乃が身を隠すようにして暮らしていた信州の里で生まれ、数年前に病で彼女を亡くしたという。
「母は、決して過去を語りませんでした。でも、ときどき夢の中で泣いていました。
“灯火が揺れてる……三郎様が……ご無事で……”って」
沙雪の目に光る涙を見て、新三郎の胸に、かつて交わした紫乃との夜の言葉がよみがえる。
――「あなたを想うだけで、私は生きていけるのです」
紫乃は生きていた。
あの日、自ら命を絶ったのではなく、彼の元を離れて、密かに母となり、子を守っていた。
「……すまなかった。俺は、紫乃を……お前の母上を、護れなかった男だ」
「……違います。母は、最後まで“愛されていた”と信じていました。
だから私は……あなたに会いに来たんです」
沙雪は懐から、小さな香り袋を取り出した。それは、紫乃が愛用していたものと同じ意匠だった。
「これも、母の遺したものです。“もしこの香りを知っている人がいたら、その人に手渡してほしい”と」
新三郎は、それを両手で受け取った。
わずかに開いた袋から、あの懐かしい香が立ち昇る――紅椿と沈香の、深く温かい香り。
その香に、失われたはずの記憶が、音もなく満ちてくる。
⸻
それから数日、新三郎は沙雪のもとに留まり、紫乃のこと、沙雪の育った里のことを語り合った。
沙雪は、母に似て、賢く、芯が強く、それでいて人の情に敏感だった。
そして別れの日――
新三郎は沙雪に一通の書き付けを託した。
「これから先、お前がどこで生きてもいい。けれど、もし世に絶望しそうになったら、この文を開け。
それが、紫乃とおれの“恋の証”だ」
沙雪はそれを胸に抱き、「ありがとう、三郎様」と、確かに言った。
その声に、新三郎は初めて、紫乃の面影ではなく――未来を見た。
⸻
その夜。
深く積もった雪の上、彼は空を見上げた。
月明かりが雪を照らす中、頬を打つ冷たい風さえ、どこか優しく感じられた。
――紫乃。
お前の灯火は、決して消えてなどいない。
娘がいる。
お前の意思を受け継いだ“命”が、ちゃんと生きていた。
「これからは、俺がその灯を、守っていく」
そう誓った新三郎の声は、夜の静寂に吸い込まれていった。
月は白く、椿は紅く、雪は静かに降り積もっていた。
⸻
――第四話・終――
旅装を纏った新三郎は、白雪に覆われた街道をひとり歩いていた。ここは、会津・七日町。
山々の端に冬の陽が沈むと、町は一気に夕闇へと沈み、あちこちの家から焚き火の煙が上がっていた。
「……やっぱり、北国の冬は骨に染みるな」
しばらく旅を重ねた末、新三郎はこの会津に身を寄せていた。かつての自分を知る者などおらぬこの地では、「三吉」と名を変え、小さな薬種商人として町に馴染み始めていた。
だが――
その日、いつものように薬包を届けに行った帰り道、ひとりの娘に呼び止められた。
「すみません。ひとつ、お訊ねしてもよろしいでしょうか」
振り向いた新三郎の目に映ったのは、深紅の椿を髪に挿した娘だった。
……その椿の簪。
――まさしく、紫乃がいつも愛用していた意匠。
目の前の娘は十七、八ほどの年頃。白い息を吐きながら、じっとこちらを見上げていた。
「この椿の簪を、以前どこかで……見かけたことはありませんか?」
その言葉に、新三郎の胸が音を立てて揺れた。
「どうして、それを?」
「……母の形見なんです。ずっと、都の方にいたらしいのですが……その母のことを、知る人を探して、ここまで来たんです」
「お母上の名は?」
娘は、少しだけ躊躇したように唇を結び、静かに答えた。
「“紫乃”と申しました」
新三郎の視界が、ふと滲んだ。
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雪の降る囲炉裏端、新三郎と少女――“沙雪”は、向かい合って座っていた。
沙雪は、紫乃の遺児だった。
紫乃が身を隠すようにして暮らしていた信州の里で生まれ、数年前に病で彼女を亡くしたという。
「母は、決して過去を語りませんでした。でも、ときどき夢の中で泣いていました。
“灯火が揺れてる……三郎様が……ご無事で……”って」
沙雪の目に光る涙を見て、新三郎の胸に、かつて交わした紫乃との夜の言葉がよみがえる。
――「あなたを想うだけで、私は生きていけるのです」
紫乃は生きていた。
あの日、自ら命を絶ったのではなく、彼の元を離れて、密かに母となり、子を守っていた。
「……すまなかった。俺は、紫乃を……お前の母上を、護れなかった男だ」
「……違います。母は、最後まで“愛されていた”と信じていました。
だから私は……あなたに会いに来たんです」
沙雪は懐から、小さな香り袋を取り出した。それは、紫乃が愛用していたものと同じ意匠だった。
「これも、母の遺したものです。“もしこの香りを知っている人がいたら、その人に手渡してほしい”と」
新三郎は、それを両手で受け取った。
わずかに開いた袋から、あの懐かしい香が立ち昇る――紅椿と沈香の、深く温かい香り。
その香に、失われたはずの記憶が、音もなく満ちてくる。
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それから数日、新三郎は沙雪のもとに留まり、紫乃のこと、沙雪の育った里のことを語り合った。
沙雪は、母に似て、賢く、芯が強く、それでいて人の情に敏感だった。
そして別れの日――
新三郎は沙雪に一通の書き付けを託した。
「これから先、お前がどこで生きてもいい。けれど、もし世に絶望しそうになったら、この文を開け。
それが、紫乃とおれの“恋の証”だ」
沙雪はそれを胸に抱き、「ありがとう、三郎様」と、確かに言った。
その声に、新三郎は初めて、紫乃の面影ではなく――未来を見た。
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その夜。
深く積もった雪の上、彼は空を見上げた。
月明かりが雪を照らす中、頬を打つ冷たい風さえ、どこか優しく感じられた。
――紫乃。
お前の灯火は、決して消えてなどいない。
娘がいる。
お前の意思を受け継いだ“命”が、ちゃんと生きていた。
「これからは、俺がその灯を、守っていく」
そう誓った新三郎の声は、夜の静寂に吸い込まれていった。
月は白く、椿は紅く、雪は静かに降り積もっていた。
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――第四話・終――
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