智慧の魔女の放浪譚〜活字らぶな黒髪少女は異世界でのんびり旅をする。精霊黒猫を添えて〜

嘉神かろ

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六の浪 ウィッチェル魔導国⑧

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 ……なんて言った?
 この獣は、なんて言った?

「先、生……?」

 ……ああ、嘘だ。

 思わず見開いてしまった目が痛い。開いた口が、塞がらない。

「お母様! 先生! 私、健康になりましたよ!」
「ウ、ル……?」

 魔女王の呟きが、彼女も同じものを知覚しているのだと教える。
 いいえ、まだ、幻覚の類の可能性もある。この畜生が私たちを喰らうために誑かそうとしているのかもしれない。

 魂を観測する魔術を発動する。

「アーテル殿、どうだ……?」

 請うような、縋るような、魔女王らしからぬ声が問いかけてくる。違った、まやかしだった、ウルではなかった。そう言えたなら、どれほど良かったか。

「……ウルです」

 我ながら絞り出した声だったと思う。蚊の鳴くような声で、あまりに残酷な真実を告げる。

「そう、か……。そなたでも、戻せぬのか?」
「無理です。あれは、魂に干渉されています。仮に許されたとしても、私では……」

 杖を握る手に力が籠る。

「どうしたんですか? ほら、見てください! 健康です!」
「うわっと」

 飛び掛かってきたウルの、人の腕を振り下ろす一撃を躱し、吐き出されたエネルギー弾は魔女王が障壁で受け止めた。
 明らかに理性を失っている。言葉とは裏腹に、殺意すら乗った攻撃だった。

 再び合流した魔女王は今起きたことが信じられないのか、酷い顔をしている。

「時間があればどうだ? 私ならば完全に封印出来る。それなら……」

 詰め寄ってきた彼女の顔は苦悶にゆがみ、希望を探すように瞳を揺らしていた。ウルを助けられる未来を探して、気高さをかなぐり捨てて、流れ者に縋りついてくる。
 応えたい。彼女に、応えたい。ウルも、魔女王も、助けたい。

「可能性は、あります」

 深く呼吸をして、魔女王の目を見つめ返す。弱さを見せて不安にさせないように、明るい未来を信じて。
 私たちには無限に等しい時間があるのだから、やってやれない事は無い筈だ。

「やってみせま――」
「残念ですが、あなた方人間では幾億の時をかけようと不可能です」

 その気配は、突然現れた。私と魔女王の魔力を足しても足元にすら届かないような膨大な魔力と、その大きさを測る事すら敵わないような存在感。それなのに、声をかけられるまで、一切気が付けなかった。
 恐ろしいほどの気配を前に、ウルも私たちも動けない。

「彼女は、いにしえの神に魅入られてしまったようですから」

 凛として落ち着いた女声じよせいだ。

 声のした右隣を見ると、クラシカルなメイド服に身を包んだ、美しい金髪碧眼の女性がいた。一見すれば、魔導国の城にいる侍女たちと何ら変わらない普通の人間だ。近接能力でも私では隙を見つけられない程熟達しているように見えるけれど、そんな事は小さな違和感だろう。
 寿命を失う程の魔力量を倍にしても足りない魔力を持った侍女。そんな存在に、一つだけ心当たりがあった。

「ごきげんよう、二人の魔女に幼き眷属よ。私はこの世界で最も偉大なる三柱の女神にお仕えする者。あなた方人間が『女神の侍女』と呼ぶ存在です」

 納得と驚愕の狭間で蟀谷こめかみを濡らす私たちの眼前、女王よりも偉大な侍女は上ってきた月を背に、優美なカーテシーを披露した。

「さて、彼女が何をしてしまったのかについて私の口から伝える事も出来るのですが、それよりもご自分の目で確かめていただくのが良いでしょう。あなたの能力なら可能なはずです」

 薄く開かれた瞳は、私を見ている。
 彼女は、『智慧ちえの館』も知っているみたい。

「アーテル殿、どういうことだ?」
「私には、世界の記録を閲覧する権限があります。限定的にですが」

 ウルに注意を払いつつ、ウルの記録を紐解く。閲覧できたのは、彼女に研究の手伝いを頼むようになってそれほど経たない頃まで。けれど、それで十分だった。

「……魔女王、申し訳ありません。ウルは盗み見た私の研究の一部をもとにして、独自に研究を進めていたようです。そして、彼女の言う古の神を召喚し、願ってしまった」
「っ……!」

 魔女王の目が険しくなった。射殺すような視線が一瞬、私を貫く。でもすぐに背けられて、彼女は深く息を吐いた。

「そなたに、大きな過失はない。それよりも伺いたい」

 魔女王が姿勢を正して『女神の侍女』の方を向いた。魔女王でも神の一柱には緊張するようで、声が固い。

「『女神の侍女』ともあろうお方が、この場に如何なるご用でしょうか」

 声に混じっているのは、期待と、不安。当然だ。最高位に近しい神が突如顕現したのだから、ただならぬ事態で間違いない。それも、状況とタイミングからして、ウルに関わることだ。

「あなたの娘に干渉したのは、旧世界よりも更に古き世界の神です。この世界にとっては既に、異物以外の何ものでもありません。下手をすれば魂のシステムを崩壊させかねない、危険な因子です。管理者として、あまり長く存在させるわけにはいきません」
「それはつまり、ウルを、娘を滅ぼすと?」
「そうなります。魂の一片すら残さずに」

 淡々と、何の感情も見せずに神は言う。
 魂の一片も残さないとなると、転生すら許されない。どの道記憶は引き継がれないにしても、この世界からウルの存在は永久に失われることになる。

「そのような事、許せるはずが無かろう!」
「ええ。そもそも、本当にウルを殺す他に道は無いのですか?」

 正直、こうして言い募るのも賭けだ。記録にある通りの彼女なら大丈夫だと信じたいけれど、問答無用で私たちまで殺される恐れがある。
 それでも、諦められない。

「ありません。魂が完全に変質してしまっています。例え我が主であろうと、どうにも出来ません」

 三女神でも……。
 これが他の神であったならば、伝聞ばかりで知る存在だったならば、食い下がれただろう。
 けれど私は、この目で見て、知っている。三女神の途方もない力を。私が所詮、寿命を失っただけの人間に過ぎないという現実を。

「それはさ、例えば魂に干渉する事を許して貰えたとして、ソフィアの魔法でも不可能ってこと?」

 アストの疑問はわかる。でも、理屈しか知らないが故のモノだ。

「無理です」

 ほら。
 私が捧げられる対価では、古の神の力を塗り替えられない。
 神に願う事がそうであるように、魔法も相応の対価を支払う必要があるのだから。

「『女神の侍女』よ、魂が消滅すると、どうなるのでしょう?」

 振るえないよう押し殺した、しかし威厳を保つ声。さすがは魔女王、なのかしら。
 それとも、母と言うべきなのか。私には分からない。

「その瞬間を持って彼女は世界に存在しなかった事になります。世界の記録を閲覧できる者を除き、年月を経ると共に彼女に関する記憶を失っていく事でしょう。人間の寿命であれば気にするものではありません」

 では、私たち不老の存在なら?
 なんて惨い。
 魔女王の口が、手が震えるのが見える。彼女だけじゃない。私の心臓も、震えている。

「もうよろしいですね? 魂滅を実行します。……大丈夫、ひと時の苦しみです」

 女神が笑った。
 困ったように、悲しそうに、苦しそうに。

 初めて見えた彼女の感情は、きっと私たちを慰めるもの。だって彼女は、元々どこにでもいる、唯の人間の少女だったのだから。紆余曲折あって三女神に仕えるまでは、人より恵まれていて王城の侍女となっただけの、同じ城の騎士に恋しているだけの、普通の人間だったのだから。
 魔女王と同じ元人間の、一人の母として同情しているのだ。

 それは分かる。分かるけれど、それは、自らの生を刻むために死を拒絶し続けた魔女王の受け入れられる結末ではない。

「せめて、魂だけでも救えないのですか?」

 女神が見せた一縷の望みに懸けた問だ。最悪だけでも免れたいと願っただけ。
 この問いに彼女は、私たちへ向き直った。

「願うならば、対価を差し出しなさい。それが、私たちが取り決め以外で現世に干渉できる唯一の条件です」

 再び何の色も見られなくなった瞳が、私たちを圧迫する。神気の類を放っているわけでも、威圧しているわけでもない。ただ私が勝手に感じている威圧感。ごくりと、喉がなった。
 
「何を、望まれる?」
「断罪を。禁忌を破り、古の神を呼び出した咎人を、あなた方人間の手で裁きなさい」

 声が出なかった。『女神の侍女』は私たち自身の手でウルを殺せと言ったのだ。
 道理ではあるのかもしれない。試練なのかもしれない。頭ではそれらしい理屈を考えられるけれど、心は拒絶する。論理的な思考など投げ出してしまえと言う。

 けれど、その心に従えばどうなるか。考えるまでもない。あらゆる智慧が現実と事実を示す。
 最善なんて、今更言葉にするまでもない。

 けれど、この母子はどう?

 ウルは母を悲しませるくらいならと消える事を望むかもしれない。その未来を嘆く母を思って、断罪を望むかもしれない。たかだか二年ばかりを共にしただけの私では、それ以上を推し量ることはできない。

 ただ一つ確かなのは、母親の選択ならば喜んで受け入れるであろう事だけ。

 なら、魔女王の選択に従おう。例えその結果、この手を汚すことになったとしても。
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