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第一話
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「……はあ。もう、無理かもしれない」
ため息というのは、幸せを逃がすためにあるんじゃない。体の中に溜まった泥のような疲労を、これ以上溜め込まないように吐き出すための防衛本能だ。
そう自分に言い聞かせても、一度口から出てしまった重たい空気は、私の心にまた一つ影を落とすだけだった。
駅前のロータリー。金曜日の夜二十一時。
私はヒールの踵(かかと)でアスファルトをコツコツと鳴らしながら、重い足を引きずって歩いていた。
今日参加したのは、都内某所で開催された『年収600万以上限定・安定男性との出会いパーティ』。
参加費は女性三千円。決して安くはないが、将来への投資だと思って捻出した。
結果は、惨敗。
いや、マッチングしなかっただけならまだいい。
『え、早川さん二十九歳? 来年三十路(みそじ)じゃん。俺、子供二人欲しいからさー、やっぱ二十五歳くらいまでが理想なんだよね』
対面に座った、腹の出た三十五歳の男の言葉が、脳内でリフレインする。
初対面の、しかも自分より年上の男に「年齢」という数字だけで値踏みされ、足切りされる屈辱。
言い返してやりたかった。「鏡を見てから言え」と叫びたかった。
けれど私は、ひきつった愛想笑いを浮かべて「そうですよね、ごめんなさい」と謝ることしかできなかったのだ。
だって、彼が言っていることは、この婚活市場における残酷な「真実」だったから。
「……お腹、すいたな」
気を使ってロクに喉を通らなかったウーロン茶の味を思い出しながら、私はふらふらと自分の住むマンションのエントランスをくぐった。
築十五年。オートロック付きの2LDK。
本来はファミリー向けのこの物件に、私は一人で住んでいる。
正確には、三年前までは姉と二人で住んでいたのだが、姉がさっさと結婚して出て行ってしまったため、広い部屋に取り残されてしまったのだ。
エレベーターで五階へ。
廊下の突き当たり、502号室が私の城だ。
鍵を取り出そうとバッグを漁る。
その時だった。
ガチャリ。
私の部屋ではなく、隣の503号室のドアが、絶妙なタイミングで開いたのは。
「――おかえり、結衣姉(ゆいねえ)」
開いた扉の隙間から、ふわりと出汁(だし)の優しい香りが漂ってくる。
そして、その香りよりもずっと温かい声が、私を出迎えた。
瀬戸(せと)湊(みなと)。
私の隣に住んでいる、幼馴染の男の子だ。
「……ただいま、湊。また、タイミング良すぎじゃない?」
「足音でわかったから。今日のヒールの音、いつもより元気なかったし」
さらりと言ってのける彼は、まだあどけなさが残る顔立ちを、少しだけ大人びた苦笑に歪めた。
身長は百七十五センチ。私よりずっと高い目線。
着崩したブレザーの制服。緩めたネクタイ。
地元の進学校に通う、高校一年生。十六歳。
三歳の頃から知っている、弟のような存在。
……そして、今の私にとって、唯一の「避難所」でもあった。
「ご飯、まだでしょ? 今日は胃に優しいもの作ったから。こっちおいで」
「え、でも悪いよ。湊もテスト期間中でしょ?」
「俺はもう食ったし、勉強も終わった。結衣姉の顔色が悪いのは見ればわかる。……ほら、鞄(かばん)貸して」
有無を言わせない強引さで、湊は私の手から重たいブランドバッグをひょいと取り上げる。
その自然な仕草に、私の胸の奥がキュン、と音を立てる。
いや、違う。これはときめきじゃない。
あまりにも疲弊した心に、人の優しさが染みただけだ。相手は高校生。犯罪だぞ、早川結衣。
抵抗する気力もなく、私は促されるままに503号室――瀬戸家へと足を踏み入れた。
瀬戸家のご両親は共働きで、夜は遅いことが多い。だから昔から、こうして湊と二人で過ごす時間は日常の一部だった。
ダイニングテーブルには、湯気を立てる鍋焼きうどんが用意されていた。
卵、鶏肉、長ネギ、そして私の大好きなかまぼこ。
彩りも完璧なそれは、高級レストランのディナーなんかより、ずっと私の食欲を刺激した。
「……いただきます」
一口すすると、優しい出汁の味が五臓六腑に染み渡る。
張り詰めていた緊張の糸が、ぷつりと切れた。
「……おいしい」
「よかった。大盛りじゃなくてよかった?」
「うん、ちょうどいい。……ほんと、湊はお嫁に行けるよ」
「俺は男だっての」
向かいの席に座った湊は、頬杖をつきながら、うどんを啜(すす)る私をじっと見つめている。
その視線がなんだか恥ずかしくて、私は誤魔化すように口を開いた。
「今日ね、また言われちゃった。年齢のこと」
「……また?」
「うん。子供産むなら二十五歳までがいいとか、なんとか。……私だってわかってるよ。もう二十九だし、肌だって曲がり角だし、可愛げもないし」
愚痴だ。最悪だ。
疲れているとはいえ、十六歳の男の子に、三十路手前の女が婚活の愚痴をこぼすなんて。
私は自己嫌悪で箸を止めそうになる。
けれど、湊は怒らなかった。
呆れもしなかった。
ただ、少しだけ目を細めて、静かに言った。
「その男、見る目ないね」
「え?」
「二十五歳がどうとか知らないけど。今の結衣姉が一番綺麗だよ。俺はそう思う」
真顔だった。
お世辞を言う時の、へらっとした笑顔じゃない。
射抜くような、真っ直ぐな瞳。
ドキリ、と心臓が跳ねる。
高校生のくせに。弟分のくせに。
時々、彼はこういう顔をする。私を「姉」ではなく、一人の「女」として見ているような、そんな熱を孕(はら)んだ目を。
「……ありがと。湊にそう言ってもらえると、元気出るよ」
私は動揺を悟られないように、あえておどけた調子で笑って見せた。
そうだ。これは慰めだ。身内の欲目だ。
真に受けちゃいけない。
「さ、食べちゃおっと。明日も仕事だしね」
私は再びうどんに向き直る。
だから、気づかなかった。
私のつむじを見つめながら、湊が小さく、誰にも聞こえない声で呟いた言葉に。
「……早く、誰も手出しできない『おばさん』になってくれればいいのに」
その独占欲に満ちた呟きを知るのは、もう少し先の話だ。
ため息というのは、幸せを逃がすためにあるんじゃない。体の中に溜まった泥のような疲労を、これ以上溜め込まないように吐き出すための防衛本能だ。
そう自分に言い聞かせても、一度口から出てしまった重たい空気は、私の心にまた一つ影を落とすだけだった。
駅前のロータリー。金曜日の夜二十一時。
私はヒールの踵(かかと)でアスファルトをコツコツと鳴らしながら、重い足を引きずって歩いていた。
今日参加したのは、都内某所で開催された『年収600万以上限定・安定男性との出会いパーティ』。
参加費は女性三千円。決して安くはないが、将来への投資だと思って捻出した。
結果は、惨敗。
いや、マッチングしなかっただけならまだいい。
『え、早川さん二十九歳? 来年三十路(みそじ)じゃん。俺、子供二人欲しいからさー、やっぱ二十五歳くらいまでが理想なんだよね』
対面に座った、腹の出た三十五歳の男の言葉が、脳内でリフレインする。
初対面の、しかも自分より年上の男に「年齢」という数字だけで値踏みされ、足切りされる屈辱。
言い返してやりたかった。「鏡を見てから言え」と叫びたかった。
けれど私は、ひきつった愛想笑いを浮かべて「そうですよね、ごめんなさい」と謝ることしかできなかったのだ。
だって、彼が言っていることは、この婚活市場における残酷な「真実」だったから。
「……お腹、すいたな」
気を使ってロクに喉を通らなかったウーロン茶の味を思い出しながら、私はふらふらと自分の住むマンションのエントランスをくぐった。
築十五年。オートロック付きの2LDK。
本来はファミリー向けのこの物件に、私は一人で住んでいる。
正確には、三年前までは姉と二人で住んでいたのだが、姉がさっさと結婚して出て行ってしまったため、広い部屋に取り残されてしまったのだ。
エレベーターで五階へ。
廊下の突き当たり、502号室が私の城だ。
鍵を取り出そうとバッグを漁る。
その時だった。
ガチャリ。
私の部屋ではなく、隣の503号室のドアが、絶妙なタイミングで開いたのは。
「――おかえり、結衣姉(ゆいねえ)」
開いた扉の隙間から、ふわりと出汁(だし)の優しい香りが漂ってくる。
そして、その香りよりもずっと温かい声が、私を出迎えた。
瀬戸(せと)湊(みなと)。
私の隣に住んでいる、幼馴染の男の子だ。
「……ただいま、湊。また、タイミング良すぎじゃない?」
「足音でわかったから。今日のヒールの音、いつもより元気なかったし」
さらりと言ってのける彼は、まだあどけなさが残る顔立ちを、少しだけ大人びた苦笑に歪めた。
身長は百七十五センチ。私よりずっと高い目線。
着崩したブレザーの制服。緩めたネクタイ。
地元の進学校に通う、高校一年生。十六歳。
三歳の頃から知っている、弟のような存在。
……そして、今の私にとって、唯一の「避難所」でもあった。
「ご飯、まだでしょ? 今日は胃に優しいもの作ったから。こっちおいで」
「え、でも悪いよ。湊もテスト期間中でしょ?」
「俺はもう食ったし、勉強も終わった。結衣姉の顔色が悪いのは見ればわかる。……ほら、鞄(かばん)貸して」
有無を言わせない強引さで、湊は私の手から重たいブランドバッグをひょいと取り上げる。
その自然な仕草に、私の胸の奥がキュン、と音を立てる。
いや、違う。これはときめきじゃない。
あまりにも疲弊した心に、人の優しさが染みただけだ。相手は高校生。犯罪だぞ、早川結衣。
抵抗する気力もなく、私は促されるままに503号室――瀬戸家へと足を踏み入れた。
瀬戸家のご両親は共働きで、夜は遅いことが多い。だから昔から、こうして湊と二人で過ごす時間は日常の一部だった。
ダイニングテーブルには、湯気を立てる鍋焼きうどんが用意されていた。
卵、鶏肉、長ネギ、そして私の大好きなかまぼこ。
彩りも完璧なそれは、高級レストランのディナーなんかより、ずっと私の食欲を刺激した。
「……いただきます」
一口すすると、優しい出汁の味が五臓六腑に染み渡る。
張り詰めていた緊張の糸が、ぷつりと切れた。
「……おいしい」
「よかった。大盛りじゃなくてよかった?」
「うん、ちょうどいい。……ほんと、湊はお嫁に行けるよ」
「俺は男だっての」
向かいの席に座った湊は、頬杖をつきながら、うどんを啜(すす)る私をじっと見つめている。
その視線がなんだか恥ずかしくて、私は誤魔化すように口を開いた。
「今日ね、また言われちゃった。年齢のこと」
「……また?」
「うん。子供産むなら二十五歳までがいいとか、なんとか。……私だってわかってるよ。もう二十九だし、肌だって曲がり角だし、可愛げもないし」
愚痴だ。最悪だ。
疲れているとはいえ、十六歳の男の子に、三十路手前の女が婚活の愚痴をこぼすなんて。
私は自己嫌悪で箸を止めそうになる。
けれど、湊は怒らなかった。
呆れもしなかった。
ただ、少しだけ目を細めて、静かに言った。
「その男、見る目ないね」
「え?」
「二十五歳がどうとか知らないけど。今の結衣姉が一番綺麗だよ。俺はそう思う」
真顔だった。
お世辞を言う時の、へらっとした笑顔じゃない。
射抜くような、真っ直ぐな瞳。
ドキリ、と心臓が跳ねる。
高校生のくせに。弟分のくせに。
時々、彼はこういう顔をする。私を「姉」ではなく、一人の「女」として見ているような、そんな熱を孕(はら)んだ目を。
「……ありがと。湊にそう言ってもらえると、元気出るよ」
私は動揺を悟られないように、あえておどけた調子で笑って見せた。
そうだ。これは慰めだ。身内の欲目だ。
真に受けちゃいけない。
「さ、食べちゃおっと。明日も仕事だしね」
私は再びうどんに向き直る。
だから、気づかなかった。
私のつむじを見つめながら、湊が小さく、誰にも聞こえない声で呟いた言葉に。
「……早く、誰も手出しできない『おばさん』になってくれればいいのに」
その独占欲に満ちた呟きを知るのは、もう少し先の話だ。
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