8 / 8
第八話
しおりを挟む
梨花ちゃんとの一件から数日。
私たちの生活は、驚くほどいつも通りに戻っていた。
平日、二十二時。
残業を終えて帰宅すると、隣の503号室(湊の家)からいい匂いが漂ってくる。
鍵を開けて入ると、湊がキッチンで洗い物をしている背中が見えた。
「おかえり、結衣姉。遅かったね」
「ただいまぁ……。月末だからね、処理が多くて」
私はスーツの上着を脱ぎ捨て、ソファに沈み込んだ。
テーブルには、ラップのかかった私の分の夕食――豚肉の生姜焼きとポテトサラダが用意されている。
電子レンジで温めようと腰を上げかけると、湊が手を拭きながらやってきた。
「座ってて。俺がやるから」
「悪いよ、湊も勉強あるでしょ?」
「休憩がてらだから。……それに、疲れてる結衣姉を動かしたら、俺の気が済まない」
湊は手際よくレンジをセットし、冷蔵庫から麦茶を取り出す。
その一連の動作があまりに自然で、そして完璧すぎて、私はまたしても彼に甘えてしまう。
温かいご飯を食べながら、私はふと、テーブルの隅に置かれた封筒に気づいた。
学習塾の名前が入っている。
「あれ、模試の結果?」
「あ、うん。今日返ってきたんだ」
湊はコーヒーを淹れながら、そっけなく答えた。
私は箸を置いて、封筒の中身を覗き込む。
「……え、すごっ」
思わず声が漏れた。
学年順位『8位』。
湊が通っているのは県内でも有数の進学校だ。部活をやりながらこの順位をキープするのは、並大抵のことじゃない。
英語と数学の偏差値も、前回より確実に上がっている。
「湊、すごいじゃん! 先週あんなに根詰めてたから心配したけど、ちゃんと結果出たんだね」
「……まあね。一桁には入りたかったから、ギリギリ目標達成かな」
湊は私の向かいに座り、湯気の立つマグカップを置いた。
「指定校推薦の枠を狙うにしても、一般で受けるにしても、一年のうちから評定稼いでおかないと選択肢が狭まるから」
「うわぁ、現実的……。高一でそこまで考えてる子、そうそういないよ?」
「そうかな。……俺は、無駄なことしてる暇はないから」
淡々とした口調。
でも、その瞳はまっすぐに私を見ている。
同級生が遊んでいる時間を削って、彼は「将来の選択肢(=経済力や安定)」を手に入れるための地盤を固めている。
その動機が何なのか、私はあえて聞かなかった。聞くのが少し怖かったからだ。
「……そっか。偉いね、湊は」
私は結果表を封筒に戻した。
嬉しいけれど、少しだけ胸がチクリとする。
彼の成長スピードが速すぎて、私が置いていかれるような焦燥感。
「ねえ、結衣姉」
「ん?」
「ご褒美、ちょーだい」
湊がソファの上で体をずらし、自分の太ももをポンと叩いた。
……ん?
自分の太もも?
「え、私が膝枕するんじゃなくて?」
「逆。今日は結衣姉が疲れてるでしょ」
湊は悪戯っぽく笑って、クッションを自分の膝の上にセットした。
「ほら、おいで。たまには甘えさせてあげる」
「いやいや、おかしいでしょ。私、もうすぐ三十だよ? 高校生の膝になんて……」
「家の中なら関係ないよ。……それとも、西園寺さんじゃなきゃダメ?」
その名前を出されると、私は弱い。
湊はそれを分かっていて、わざと意地悪な言い方をする。
「……わかったよ。お言葉に甘えます」
私は観念して、恐る恐る湊の膝に頭を預けた。
ゴツゴツとした骨の感触と、しっかりとした太ももの筋肉。
昔は細くて頼りなかったのに、いつの間にか、ちゃんと男の子の体になっている。
「……あー、楽かも」
「でしょ? 最近、スクワットの負荷増やしたから」
湊の大きな手が、私の髪をゆっくりと梳(す)く。
一定のリズム。温かい指先。
頭皮の凝りがじんわりと解れていくようで、私は自然と目を閉じた。
「……湊」
「ん?」
「早く大人になりたいって言ってたけどさ」
私は目を閉じたまま呟いた。
「そんなに急がなくても、湊はもう十分、頼りになるよ」
「……まだだよ」
湊の手が止まる。
そして、私の頬にそっと掌(てのひら)が触れた。
「膝枕してあげるだけじゃ、足りない。……俺は、結衣姉の全部を支えられるようになりたいんだ」
「全部?」
「うん。仕事の疲れも、将来の不安も、世間の目も。……全部俺が引き受けて、結衣姉がただ笑っていられるようにしたい」
それは、弟分としての発言にしては、あまりにも範囲が広くて、重い。
でも彼は「好きだ」とは言わない。
「付き合って」とも言わない。
ただ、「支えたい」と言うだけだ。
それが彼の優しさなのか、それとも私が断る隙を与えないための計算なのか。
「……生意気」
「年下の特権だね」
湊がくすりと笑い、再び髪を撫で始めた。
柔軟剤の優しい匂いと、彼の体温に包まれて、私の意識は微睡(まどろ)みへと落ちていく。
西園寺さんへの返信は、今日もまだしていない。
明日にはしなきゃいけない。わかってる。
でも、今夜だけは。
この生意気で愛おしい「弟分」の腕の中で、泥のように眠っていたかった。
時計の針は二十三時半を回っていた。
劇的なことなんて何も起きない、ただの火曜日の夜。
けれど私にとっては何より満たされる時間が、そこにはあった。
私たちの生活は、驚くほどいつも通りに戻っていた。
平日、二十二時。
残業を終えて帰宅すると、隣の503号室(湊の家)からいい匂いが漂ってくる。
鍵を開けて入ると、湊がキッチンで洗い物をしている背中が見えた。
「おかえり、結衣姉。遅かったね」
「ただいまぁ……。月末だからね、処理が多くて」
私はスーツの上着を脱ぎ捨て、ソファに沈み込んだ。
テーブルには、ラップのかかった私の分の夕食――豚肉の生姜焼きとポテトサラダが用意されている。
電子レンジで温めようと腰を上げかけると、湊が手を拭きながらやってきた。
「座ってて。俺がやるから」
「悪いよ、湊も勉強あるでしょ?」
「休憩がてらだから。……それに、疲れてる結衣姉を動かしたら、俺の気が済まない」
湊は手際よくレンジをセットし、冷蔵庫から麦茶を取り出す。
その一連の動作があまりに自然で、そして完璧すぎて、私はまたしても彼に甘えてしまう。
温かいご飯を食べながら、私はふと、テーブルの隅に置かれた封筒に気づいた。
学習塾の名前が入っている。
「あれ、模試の結果?」
「あ、うん。今日返ってきたんだ」
湊はコーヒーを淹れながら、そっけなく答えた。
私は箸を置いて、封筒の中身を覗き込む。
「……え、すごっ」
思わず声が漏れた。
学年順位『8位』。
湊が通っているのは県内でも有数の進学校だ。部活をやりながらこの順位をキープするのは、並大抵のことじゃない。
英語と数学の偏差値も、前回より確実に上がっている。
「湊、すごいじゃん! 先週あんなに根詰めてたから心配したけど、ちゃんと結果出たんだね」
「……まあね。一桁には入りたかったから、ギリギリ目標達成かな」
湊は私の向かいに座り、湯気の立つマグカップを置いた。
「指定校推薦の枠を狙うにしても、一般で受けるにしても、一年のうちから評定稼いでおかないと選択肢が狭まるから」
「うわぁ、現実的……。高一でそこまで考えてる子、そうそういないよ?」
「そうかな。……俺は、無駄なことしてる暇はないから」
淡々とした口調。
でも、その瞳はまっすぐに私を見ている。
同級生が遊んでいる時間を削って、彼は「将来の選択肢(=経済力や安定)」を手に入れるための地盤を固めている。
その動機が何なのか、私はあえて聞かなかった。聞くのが少し怖かったからだ。
「……そっか。偉いね、湊は」
私は結果表を封筒に戻した。
嬉しいけれど、少しだけ胸がチクリとする。
彼の成長スピードが速すぎて、私が置いていかれるような焦燥感。
「ねえ、結衣姉」
「ん?」
「ご褒美、ちょーだい」
湊がソファの上で体をずらし、自分の太ももをポンと叩いた。
……ん?
自分の太もも?
「え、私が膝枕するんじゃなくて?」
「逆。今日は結衣姉が疲れてるでしょ」
湊は悪戯っぽく笑って、クッションを自分の膝の上にセットした。
「ほら、おいで。たまには甘えさせてあげる」
「いやいや、おかしいでしょ。私、もうすぐ三十だよ? 高校生の膝になんて……」
「家の中なら関係ないよ。……それとも、西園寺さんじゃなきゃダメ?」
その名前を出されると、私は弱い。
湊はそれを分かっていて、わざと意地悪な言い方をする。
「……わかったよ。お言葉に甘えます」
私は観念して、恐る恐る湊の膝に頭を預けた。
ゴツゴツとした骨の感触と、しっかりとした太ももの筋肉。
昔は細くて頼りなかったのに、いつの間にか、ちゃんと男の子の体になっている。
「……あー、楽かも」
「でしょ? 最近、スクワットの負荷増やしたから」
湊の大きな手が、私の髪をゆっくりと梳(す)く。
一定のリズム。温かい指先。
頭皮の凝りがじんわりと解れていくようで、私は自然と目を閉じた。
「……湊」
「ん?」
「早く大人になりたいって言ってたけどさ」
私は目を閉じたまま呟いた。
「そんなに急がなくても、湊はもう十分、頼りになるよ」
「……まだだよ」
湊の手が止まる。
そして、私の頬にそっと掌(てのひら)が触れた。
「膝枕してあげるだけじゃ、足りない。……俺は、結衣姉の全部を支えられるようになりたいんだ」
「全部?」
「うん。仕事の疲れも、将来の不安も、世間の目も。……全部俺が引き受けて、結衣姉がただ笑っていられるようにしたい」
それは、弟分としての発言にしては、あまりにも範囲が広くて、重い。
でも彼は「好きだ」とは言わない。
「付き合って」とも言わない。
ただ、「支えたい」と言うだけだ。
それが彼の優しさなのか、それとも私が断る隙を与えないための計算なのか。
「……生意気」
「年下の特権だね」
湊がくすりと笑い、再び髪を撫で始めた。
柔軟剤の優しい匂いと、彼の体温に包まれて、私の意識は微睡(まどろ)みへと落ちていく。
西園寺さんへの返信は、今日もまだしていない。
明日にはしなきゃいけない。わかってる。
でも、今夜だけは。
この生意気で愛おしい「弟分」の腕の中で、泥のように眠っていたかった。
時計の針は二十三時半を回っていた。
劇的なことなんて何も起きない、ただの火曜日の夜。
けれど私にとっては何より満たされる時間が、そこにはあった。
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
リトライさせていただきます!〜死に戻り令嬢はイケメン神様とタッグを組んで人生をやり直す事にした〜
ゆずき
恋愛
公爵家の御令嬢クレハは、18歳の誕生日に何者かに殺害されてしまう。そんなクレハを救ったのは、神を自称する青年(長身イケメン)だった。
イケメン神様の力で10年前の世界に戻されてしまったクレハ。そこから運命の軌道修正を図る。犯人を返り討ちにできるくらい、強くなればいいじゃないか!! そう思ったクレハは、神様からは魔法を、クレハに一目惚れした王太子からは武術の手ほどきを受ける。クレハの強化トレーニングが始まった。
8歳の子供の姿に戻ってしまった少女と、お人好しな神様。そんな2人が主人公の異世界恋愛ファンタジー小説です。
※メインではありませんが、ストーリーにBL的要素が含まれます。少しでもそのような描写が苦手な方はご注意下さい。
小さい頃「お嫁さんになる!」と妹系の幼馴染みに言われて、彼女は今もその気でいる!
竜ヶ崎彰
恋愛
「いい加減大人の階段上ってくれ!!」
俺、天道涼太には1つ年下の可愛い幼馴染みがいる。
彼女の名前は下野ルカ。
幼少の頃から俺にベッタリでかつては将来"俺のお嫁さんになる!"なんて事も言っていた。
俺ももう高校生になったと同時にルカは中学3年生。
だけど、ルカはまだ俺のお嫁さんになる!と言っている!
堅物真面目少年と妹系ゆるふわ天然少女による拗らせ系ラブコメ開幕!!
同期に恋して
美希みなみ
恋愛
近藤 千夏 27歳 STI株式会社 国内営業部事務
高遠 涼真 27歳 STI株式会社 国内営業部
同期入社の2人。
千夏はもう何年も同期の涼真に片思いをしている。しかし今の仲の良い同期の関係を壊せずにいて。
平凡な千夏と、いつも女の子に囲まれている涼真。
千夏は同期の関係を壊せるの?
「甘い罠に溺れたら」の登場人物が少しだけでてきます。全くストーリには影響がないのでこちらのお話だけでも読んで頂けるとうれしいです。
年下男子に追いかけられて極甘求婚されています
あさの紅茶
恋愛
◆結婚破棄され憂さ晴らしのために京都一人旅へ出かけた大野なぎさ(25)
「どいつもこいつもイチャイチャしやがって!ムカつくわー!お前ら全員幸せになりやがれ!」
◆年下幼なじみで今は京都の大学にいる富田潤(20)
「京都案内しようか?今どこ?」
再会した幼なじみである潤は実は子どもの頃からなぎさのことが好きで、このチャンスを逃すまいと猛アプローチをかける。
「俺はもう子供じゃない。俺についてきて、なぎ」
「そんなこと言って、後悔しても知らないよ?」
【完結】好きって言ってないのに、なぜか学園中にバレてる件。
東野あさひ
恋愛
「好きって言ってないのに、なんでバレてるんだよ!?」
──平凡な男子高校生・真嶋蒼汰の一言から、すべての誤解が始まった。
購買で「好きなパンは?」と聞かれ、「好きです!」と答えただけ。
それなのにStarChat(学園SNS)では“告白事件”として炎上、
いつの間にか“七瀬ひよりと両想い”扱いに!?
否定しても、弁解しても、誤解はどんどん拡散。
気づけば――“誤解”が、少しずつ“恋”に変わっていく。
ツンデレ男子×天然ヒロインが織りなす、SNS時代の爆笑すれ違いラブコメ!
最後は笑って、ちょっと泣ける。
#誤解が本当の恋になる瞬間、あなたもきっとトレンド入り。
エリート警察官の溺愛は甘く切ない
日下奈緒
恋愛
親が警察官の紗良は、30歳にもなって独身なんてと親に責められる。
両親の勧めで、警察官とお見合いする事になったのだが、それは跡継ぎを産んで欲しいという、政略結婚で⁉
【完結】育てた後輩を送り出したらハイスペになって戻ってきました
藤浪保
恋愛
大手IT会社に勤める早苗は会社の歓迎会でかつての後輩の桜木と再会した。酔っ払った桜木を家に送った早苗は押し倒され、キスに翻弄されてそのまま関係を持ってしまう。
次の朝目覚めた早苗は前夜の記憶をなくし、関係を持った事しか覚えていなかった。
ワケあり上司とヒミツの共有
咲良緋芽
恋愛
部署も違う、顔見知りでもない。
でも、社内で有名な津田部長。
ハンサム&クールな出で立ちが、
女子社員のハートを鷲掴みにしている。
接点なんて、何もない。
社内の廊下で、2、3度すれ違った位。
だから、
私が津田部長のヒミツを知ったのは、
偶然。
社内の誰も気が付いていないヒミツを
私は知ってしまった。
「どどど、どうしよう……!!」
私、美園江奈は、このヒミツを守れるの…?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる