スウィートカース(Ⅷ):魔法少女・江藤詩鶴の死点必殺

湯上 日澄(ゆがみ ひずみ)

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第二話「自立」

「自立」(1)

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 ざらついた消防車の無線が混乱しているのは、この薄暗い裏路地からでもよくわかった。

 息をひそめて物陰に隠れ、しばし休憩するふたりがいる。

 シヅルとルリエだ。警告灯の回転にときおり赤く染まりつつ、シヅルは壁にもたれて体力の回復を待つルリエにたずねた。

「救急車やったらそこまで来とるで。診てもろたほうがええんとちゃうの?」

 手をあてて喉の調子を確かめ、ルリエは何度か咳払いした。慎重に吸っては吐く息遣いは、しだいに安定していく。答えたルリエの声は、もとどおり透明の泉のごとく美しい。

「ありがとう、もう大丈夫よ」

 魔法少女の見えない感知器センサーが伝えるルリエの情報に、シヅルは戸惑った顔をした。

久灯くとうはん、あんた……」

「ルリエでいいわ、シヅル」

「ほなルリエ。その再生の呪力……あんた人間とちゃうな?」

「隠しても仕方ないわね。非人間なのは、あたしも魔法少女もお互いさまだし。お察しのとおり、あたしは〝星々のもの〟よ」

「星々のもの……うちの〝蜘蛛の騎士メーディン〟と同じ、宇宙の外から訪れた存在け」

「ええ。人類が栄えるずっと前から、地球を見守ってきた海底の旧支配者よ」

「神様みたいなもんか。にしては」

 あらためて頭頂から爪先までルリエをつぶさに観察し、シヅルはうなった。

「美少女の女子高生の格好とは、神様の趣味もまた不思議やな?」

「人間社会へ溶け込むため、無作為ランダムに選んだ姿よ、これは。でも」

 ルリエは鼻白んだ。

「この外見になってから、不運な目にあうことも少なくない気がする。この際いっそ、地味で目立たない中年のおじさんにでも変身したほうがいいのかしら?」

「いや、あかん! もったいない! せっかくの宝石みたいな可愛らしさが!」

 血相を変えて、シヅルは制止した。

「それにいきなり有名人のアイドルが蒸発してもうたら、学校側も慌てふためくやろ。あんたはそのままでええ。いつもの久灯瑠璃絵くとうるりえでおってや」

「救われた気分だわ、そう言ってもらえると」

「ところで」

 注意深く表通りの騒ぎを探りながら、シヅルは問うた。

「あの筋肉モリモリの半魚人……死魚鬼マーグルとやらは、あのままあそこに放ったらかしでええんか?」

「べつにかまわない。あたしたちがどうこうしなくたって、じきに政府の裏組織が勝手に処理してくれる」

「組織って?」

特殊情報捜査執行局Feature Intelligence Research Enforcement、通称〝Fireファイア〟。超常現象や異世界がらみの案件を専門に対処する闇の特務機関よ。虎視眈々と地球侵略を企てるあたしたち星々のものなんかは、それはもう厳しくマークされてる。ちなみにシヅルや伊捨星歌いすてほしかを魔法少女に改造したのも、あいつらの仕業よ」

「そう、ホシカ!」

 思いきりシヅルは食いついた。

「ルリエ、あんた、ホシカの居場所を知っとるんけ?」

「知ってるもなにも」

 落胆した面持ちで、ルリエは溜息をついた。

「すこし前に異世界で、拳と拳をまじえた仲よ」

「したんか、ケンカ?」

「大喧嘩ね。戦争よ」

「その様子やと、負けたんやな?」

「大敗したわ。甘い言葉にそそのかされて、彼女たちに勝負を挑んだこと自体が間違いだった。ホシカから浴びた会心の一撃のしびれは、自業自得でまだこの手に残ってる。ただ……」

 ルリエは考え込んだ。

「ただ、ホシカの消息はあれっきり途絶えてるの。幻夢境げんむきょうの〝イレク・ヴァド決戦〟のあとあたりから。シャードの回収とともに彼女の消息を追うのも、メネスがあたしに課した任務ミッションのうちのひとつよ」

「ちょっとタンマ。知らん単語がいっぱいや。頭がこんがらがってきた」

「ここまで掴んだ情報によれば、ホシカはこの世界に帰ってくるなり捕らえられたらしいわ。悪意ある何者かの手によって」

「悪者って、どこのどいつや?」

「おそらくは奴、ダムナトスよ」

 静かに壁から背をはがし、ルリエは制服のほこりを払った。

「ほんとに助かったわ、魔法少女の援護。でも残念だけど、ここでお別れよ。あたしは撤収する。すみやかにターゲットを追わなきゃ」

 早足にきびすを返したルリエに、シヅルも急いで並んだ。

「待ってや、ルリエ」

「忠告だけど、あなたもさっさとこの場を離れるべきだわ。どうせ組織ファイアにはとっくに〝蜘蛛の騎士メーディン〟の存在はバレてるでしょうし、本気で捕獲されたらどんな目に遭わされるかわかったものじゃない。ひどい拷問や実験の材料にされたり、解剖されてこっそり内臓を盗まれたり……」

「そんなことより、うちもいっしょにホシカを……」

 メインストリートのざわめきが、にわかに大きくなったのはそのときだった。

「!?」

 振り返った女子高生ふたりの視線の先、轟音とともに亀裂を走らせたのは建物の側壁だ。

「ぎょるるるる……」

 おお。すがりついた壁をとんでもない握力で潰すのは、あの筋肉に鎧われた死魚鬼マーグルの手ではないか。悪夢じみた目、鼻、耳、口等からは絶え間なくダメージの鮮血がこぼれ、いま動いて歩いていることすらが不条理に思われる。生命に対するほんのわずかなシヅルのためらいが、魔針の狙いを半魚人の急所からコンマ数ミリだけ外してしまったらしい。

 すぐさま身構え、舌打ちしたのはルリエだった。

「しつこい男は嫌われるわ」

 野次馬の流れにちらっとジョージの顔を見て、シヅルは皮肉げに笑った。

「積極的なんはええことや」

 ふたたび輝いた魔針と触手を相手に、死魚鬼マーグルは最後の力で飛びかかり……

「もういい」

 いつからだろう。

 ささやいた第四の人影は、ふたりと肉食魚の中間地点に忽然と立っていた。

 青年は身長も高く顔立ちも端正だったが、その無表情だけは鉄仮面のように冷たい。この真夏の猛暑にも関わらず、汗ひとつ流すそぶりもないのは不自然に思われる。

 彼の唯一の持ち物は、片手に提げられた辞書だった。辞書には特徴的な金属質の装丁がほどこされ、ビルの谷間から射す夏陽を黙って照り返している。

 この危険地帯で、一般人がなにをほっつき歩いているのか。いやそもそも、青年の放つこの浮世離れした雰囲気はなんだ。殺気? 妖気? 瘴気? 鬼気?

「危ない!」

 手負いの死魚鬼マーグルが、青年に飛びかかるのはシヅルの悲鳴より早い。

「ぎょッ!?」

 まるで空気そのものが凍結したかのごとく、次の瞬間、死魚鬼マーグルの動きは止まっている。

 青年はただ無駄のない動きで、奇妙な辞書の先端を野獣の肩に置いただけだ。なのにどうだろう。形容しがたい莫大な呪力の発散に、シヅルの探知機は一気に振り切った。発信源はいったいどこに?

 いた。突如として乱入したこの青年だ。逆鱗に覆われた死魚鬼マーグルの顔をじっと見据え、彼は平板な口調でつぶやいた。

「〝断罪の書リブレ・ダムナトス〟……もう十分だ。もうそれ以上、大衆の面前で秘密をさらすな」

 不可視の繰糸にあらがうように、死魚鬼マーグルは小刻みに身を震わせた。やがて命令の呪力に負け、全身を弛緩させてその場に倒れ込む。完全に燃え尽きたらしい。

中嶋豊和なかじまとよかず……」

 謎の辞書をそっと下ろし、青年は眠れる怪物の本名を呼んだ。

「おまえにはたしかに、たぐいまれなる死魚鬼マーグルの素質があった。だからこそ貴重なシャードを授けたのだ。だがさすがに天性の才能も、魔法少女と魔人魚クトゥルフのペアを前には分が悪かったようだな」

 ふとこちらを一瞥した青年を、誰何すいかしたのはシヅルだった。

「だれや、あんた?」

 どこまでも冷淡な表情で、青年は返事した。

「通りすがりの〝魔法少女の売人〟だ」

海の辞書ダムナトス!」

 叫んだのはルリエだった。

「ダムナトス……中嶋豊和なかじまとよかずは、たちの悪い時限爆弾かなにか?」

「我が一族に仲間が加わることを、爆弾呼ばわりとは人聞きの悪い。彼は魔法少女になったのだ。彼は立派に大成した」

 かみしめた奥歯のすきまから、ルリエは狂暴な呻きをこぼした。

「あなたのせいで、関係のない被害者が何人死んだか知ってる? なんでシャードみたいな粗悪な呪物を売り歩いてるわけ?」

「ホーリーと戦うためだ」

「!」

 ダムナトスの回答は簡潔だったが、ルリエの顔は瞬時に石化した。

 彼女は知っているのだ。その固有名詞がはらむ脅威を、恐怖を。

 沈黙したルリエを尻目に、質問したのはシヅルだった。

「あんたが詳しいって聞いたで、ホシカの居場所は?」

「伊捨星歌か……あの最強の魔法少女〝翼ある貴婦人ヴァイアクヘイ〟なら」

 無感動に、ダムナトスはある地名を口にした。

「彼女なら現在、来楽らいら島に保護している。きたるべきホーリーとの戦いにそなえてな」

来楽らいら島!? そこにおるんけ、ホシカは!?」

「決して近づこうとするなよ。無論、我がしもべである特別製のシャードたちの防衛線を突破することなど絶対に不可能だが」

 意味深な警告とともに、ダムナトスは手もとの辞書を開いた。

 開くなり、ぶ厚いページからこぼれ落ちたのは大量の紙片だ。おびただしい国籍不詳の文字が綴られたページたちは、風もないのに独りでに舞い踊った。細部まで呪力を帯びた紙山は、やがて竜巻のごとくダムナトスと死魚鬼マーグルの寝姿を包み込んでいく。

 泳ぎ回る書類のはざまで、ダムナトスは告げた。

「帆先を来楽らいら島に向けた時点で、おまえたちは死ぬ。よく肝に銘じておけ」

「待ちなさい!」

 ルリエが触手を薙ぎ払ったときには、すでに遅い。

 ダムナトスと死魚鬼マーグルは、荒ぶった紙吹雪に包まれて空へ消えている。神秘的な転送の呪力だった。高速で飛来した触手も、くやしげに無人の闇を掻いただけだ。

 政府の特殊車両が急停止する音は、裏通りのあちこちから響いた。

「…………」

 短く目配せしあって、シヅルとルリエはうなずいた。

「逃げるで」

「賛成よ」

 タッチの差で入れ違いになった捜査官の黒野美湖くろのみことエリザベート・クタートは、現場に残された痕跡から本件を〝魔法少女の発生〟として組織ファイアの上層部に報告することになった。
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