スウィートカース(Ⅸ):ファイア・ホーリーナイト

湯上 日澄(ゆがみ ひずみ)

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第三話「雪花」

「雪花」(8)

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「嫌ッ!?」

「痛だッ!」

 なにかを殴った。

 金属のような硬さだ。

 モニカは夢から覚めた。

「……?」

 おのれの鼻先を横切る物体を見て、モニカは寝ぼけ眼をしばたかせた。

 なんだ、じぶんの腕ではないか。傷ついた拳に巻かれた包帯は、だれかが交換したらしく新品だ。寝心地のよい角度に倒された座席の上、頭痛のする頭を押さえて呻く。

「男女くん……ワインを持ってきてくれない? あと痛み止めと向精神剤をボトルで」

「メニュー表をお持ちします。活きのいい点滴剤が入荷してましてね。痛たたた……」

 我に返って、モニカは跳ね起きた。

 ここはどこだ?

 あたりに氷河期の凍気は微塵もなく、温度は暖かい。

 わずかに反響する独特の重低音には聞き覚えがある。政府が所有する航空機のエンジンの鳴動だ。窓を横目にすれば、ぶ厚い雲と雪化粧の山々が下界を流れていた。

 搭乗可能人数二百名、最大飛行速度千五百キロ超というのは、この機体の秘めるスペックのほんの一部にしかすぎない。その外装をハリネズミと化す対空迎撃機構・バリア装置等の充実は、快適で安全な空の旅を力ずくで保証する。

 大型戦闘輸送航空機〝アイホート〟……首都サーコアが誇る世界最高峰の空中要塞だ。

 だだっ広い客室には、モニカを除いて他の人影はない。その沈黙は、バナンの廃墟入りする直前の殺気立った騒がしさを懐かしくも思い起こさせる。

 人影?

 寝ぼけたモニカに殴り倒され、カーペットの通路でぴくぴくするのは何者か。

 被害者の中性的な顔立ちと、見慣れた白衣を認め、モニカは声を裏返らせた。

「へ、ヘリオ?」

「パンチングマシーンにされた歴は、私も長いですがね、くくく。いまのは三本の指に入るハイスコアです」

 痛々しく寝転がったまま、ヘリオは体温計を天井の照明にかざした。モニカのそれを計り終えた途端、強烈な拳に不意打ちされたらしい。モニカが助け起こさねば、きっとサーコアの空港まで大の字の状態だったろう。

 モニカの手を借り、医者は立ち上がった。気を取り直して、彼女の診察結果を口ずさむ。

「細菌その他、重大な感染や寄生の危険はありません。ですがストレスからか、ちょっと熱がありますね。食事と合わせて、十分なビタミンとミネラルを処方します」

「ごまかさないで」

 ヘリオを射抜くモニカの眼差しはきつかった。

「どうして生きてるの、あたしたちは?」

「すべてはロドリゲスさんのおかげです。さすがに今は、隊長も医務室でお休みですが」

「あたしを客席に追い出したからには、医務室のベッドは満員なんでしょうね? 生き残りの怪我人で?」

「それは……」

 しばしためらったのち、ヘリオは首を横に振った。モニカの希望的観測は、あっけなく否定されたのだ。顔色をなくしたモニカの体に、ずれた毛布をそっと掛け直しながら、ヘリオは残酷な事実を告げた。

「残念ですが、当機に霊安室はありません。現在アイホートに乗っているのはパイロットが二名に、私とスチュワートさん、そしてロドリゲスさんだけです」

「全滅……五人だけを残して?」

 顔を覆って深く項垂れ、モニカは手の隙間からたずねた。

「エージェント・シヨの絶対領域ブラックボックスとダリオンの乾眠クリプトピオシスサンプルは?」

「無事に回収済みです。そのために支払った代償はあまりにも多大ですが……この成果は必ずや、ダリオンから人類を守る礎となります。廃墟で犠牲になった方々には、謝罪と感謝しかありません。バナンで失った仲間たちに代わって、生き残った我々には獲得したもので未来に貢献する義務があります」

「計画は結局、組織ファイアの思惑どおりに運んだわけね」

「サーコアへはもうじき着きます。スチュワートさんと私には、帰還するなり対ダリオン研究の仕事の山が待ってますよ。ですので今は、すこしでも体を休めてください」

 落ち込んだモニカの肩を、ヘリオは優しくさすって労った。静かに救急箱を閉じ、席を立つ。立ちかけた白衣の袖を、儚い力で引いて止めたのはモニカの指だ。

「待って」

「はい?」

「本でも読んでくれない? よく眠れる本を?」

「……横になってください」

 ふたたびヘリオは、モニカの隣席に腰掛けた。懐から読みかけの小説を取り出し、しおりを抜く。

 朗読を開始したのは、うっとりするほど透き通って柔らかなソプラノの声だ。

「……火事を起こしていたのは、さびれた安ホテルだった。だが建物の価値は、中に住む人間の質によって決まる。それが我々、警察官の持論だ」

「なんの本? えらく男臭いのが好きなのね、かわいい顔して?」

「あいにく、この一冊しか持ち合わせてません。お気に召しませんか?」

「いいえ。続けて、そのまま」

 客室の無機質な天井を眺めながら、モニカは薄く微笑んだ。メガネはかけたのに、照明がややぼやけるのはなぜだろう。

 悪夢は終わった。

 かけがえのない大勢が命を賭したおかげで、彼女たちは救われたのだ。

 小説のページをめくるヘリオの手に、モニカは涙ぐんだまま質問した。

「あなたは、ずっといてくれる?」

「ええ、あなたが眠るまで」

 窓にはまった闇を、雪の線だけが流れていた。
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