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30年後2
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その日のお昼時、お見舞を受け付ける窓口で女性が、何か問い合わせている様子だった。けして珍しくはない光景だけどわたしの目を引いたのは彼女の身なりがとても上等だったからだ。仕立てのいい着物とコートだけどそれだけじゃなくて、ここいらでは見かけない只者ではないような雰囲気を纏っていて、どんな人だろう、そして誰に会いに来た見舞い客なのだろうと少し気にかかった。そして雑務を済ませていつものように橋本さんの病室に寄ろうと思ったら、来客があったのだ。先程の受け付けの女性だった。彼女と橋本さんは熱心に話し込んでいて、わたしはなんだか見てはいけないものを見てしまったような気持ちがして、そっと後退りしてその場を立ち去った。あれは、いったい誰だったのだろう。
翌日は同僚が休んでいて朝から大忙しで息つく暇もなかった。バケツや雑巾をもって駆け回り、敷布を替え、布巾を運び、おおわらわだった。ようやく時間ができて、橋本さんの病室に寄ることができた。橋本さんの顔色は随分よくて、わたしはこっそりホッとしていた。
「今日はお加減よさそうでよかったです」
橋本さんはにっこりと微笑んだ。
「ええ。そうなの、随分よくて。それにね」
珍しく少し口ごもる。
「友達がね、大事な友達がお見舞いに来てくれてたの。随分前から手を尽くして私の居場所を探してくれていたようで、ほら、私、家出したって前に言ったでしょ?彼女のご主人が昨年お亡くなりになって、お子さんたちもすでに独り立ちされていて彼女は今とても自由なんですって。だから古い友達の私のことをどうしてるか気になっていて定期的に報告をしてもらっていたようなのね。それでこんなことになってるって知って、会いに来てくれたのよ。本当に懐かしかったわ。もう二度と彼女には会うことなんてできないだろうって思っていたから」
彼女はそこで言葉を切る。まだ信じられないような、どこかぼうっとした表情を見せている。
「驚いたわ。とても元気そうで幸せそうで。私は彼女にした仕打ちを後悔し続けていた。家出ってね、たしかに私にとっては自由を得ることだったけどその一方で彼女との一生の別離だったから。それも身勝手で酷い仕打ちだった。私は彼女を裏切って、置き去りにしたのだから、きっと恨まれているのだと思っていたの。だから彼女があんな風にわたしのことを探して、会いに来てくれて、許してくれるなんて思ってもみなかった。それに……」
「それにね、彼女は、一緒に住まないかって提案してくれたの。鎌倉に素敵な別荘があってそこを彼女はご主人に頼んで買い取ってもらってるんですって。そこを今ちょうど手を入れていて水回りを修理したり樹木を入れ替えたりの工事をしているところらしいの。よかったらそこで療養しないかって言ってくれたの。彼女は主治医の山田先生とも話してくれて、話はどんどんトントン拍子に決まっていって、少し怖いくらいなのよ。それに、お店のことはちょっとね、姉の店を手放すのは寂しいわ。それに申し訳ない。でもこの身体ではすぐには元通りにお店を始められないのはその通りだし、身体がよくなってから考えるしかないみたいで。もう二度と彼女にも会えないと思っていたし、鎌倉の別荘を見ることもないと思っていたから、今はもう胸がいっぱい過ぎて、なんて言っていいのかわからないような気持ちなの」
わたしはあまりの急な話に驚いたし、内心衝撃を受けていた。橋本さんが鎌倉に行ってしまうなんて。でもどう考えてもこの話は橋本さんのためにはとてもいい話だった。お子さんなど身寄りがいない橋本さんは誰かに面倒を見てもらう必要があるのだし、古い友達がそう申し出てくれたのは天の配剤のようなものだとわかっていたがやはり寂しかった。なるべくそんな表情を見せないように、わたしは無理に笑顔をつくった。良かったですねと喜んでみせた。それがどこまで橋本さんを欺けていたかはわからない。それから一週間後、橋本さんは退院し、立派な黒塗りの車が病院の正面に橋本さんを迎えに来ていた。あの女性も同乗しているようだった。わたしはどうしても見送る気になれなくて、三階の窓から橋本さんが出立する光景を眺めていた。他人事のような、実感のない、不思議な気持ちだった。誰よりわたしが親しかったのに、先生や看護婦さんなどが橋本さんと大げさに抱擁したり何か渡したりして別れを惜しんでいるのを上から眺めた。みんな橋本さんが好きだったし煮豆屋は病院から近いので顔見知りの人間も多いのだろう。でも彼女のことを一番よく知っているのも、一番この出立を喜んでいるのも悲しんでいるのもわたしなのに。そう思うと、泣きたくないのに涙がとまらない。こんなにあっさり切れていく縁と、絆に、なんだかもうどうでもいいような気持ちになって、ただ、ただ、悲しかった。喜ぶべきなのに喜べない自分のことも嫌だった。苦しかった。
翌日は同僚が休んでいて朝から大忙しで息つく暇もなかった。バケツや雑巾をもって駆け回り、敷布を替え、布巾を運び、おおわらわだった。ようやく時間ができて、橋本さんの病室に寄ることができた。橋本さんの顔色は随分よくて、わたしはこっそりホッとしていた。
「今日はお加減よさそうでよかったです」
橋本さんはにっこりと微笑んだ。
「ええ。そうなの、随分よくて。それにね」
珍しく少し口ごもる。
「友達がね、大事な友達がお見舞いに来てくれてたの。随分前から手を尽くして私の居場所を探してくれていたようで、ほら、私、家出したって前に言ったでしょ?彼女のご主人が昨年お亡くなりになって、お子さんたちもすでに独り立ちされていて彼女は今とても自由なんですって。だから古い友達の私のことをどうしてるか気になっていて定期的に報告をしてもらっていたようなのね。それでこんなことになってるって知って、会いに来てくれたのよ。本当に懐かしかったわ。もう二度と彼女には会うことなんてできないだろうって思っていたから」
彼女はそこで言葉を切る。まだ信じられないような、どこかぼうっとした表情を見せている。
「驚いたわ。とても元気そうで幸せそうで。私は彼女にした仕打ちを後悔し続けていた。家出ってね、たしかに私にとっては自由を得ることだったけどその一方で彼女との一生の別離だったから。それも身勝手で酷い仕打ちだった。私は彼女を裏切って、置き去りにしたのだから、きっと恨まれているのだと思っていたの。だから彼女があんな風にわたしのことを探して、会いに来てくれて、許してくれるなんて思ってもみなかった。それに……」
「それにね、彼女は、一緒に住まないかって提案してくれたの。鎌倉に素敵な別荘があってそこを彼女はご主人に頼んで買い取ってもらってるんですって。そこを今ちょうど手を入れていて水回りを修理したり樹木を入れ替えたりの工事をしているところらしいの。よかったらそこで療養しないかって言ってくれたの。彼女は主治医の山田先生とも話してくれて、話はどんどんトントン拍子に決まっていって、少し怖いくらいなのよ。それに、お店のことはちょっとね、姉の店を手放すのは寂しいわ。それに申し訳ない。でもこの身体ではすぐには元通りにお店を始められないのはその通りだし、身体がよくなってから考えるしかないみたいで。もう二度と彼女にも会えないと思っていたし、鎌倉の別荘を見ることもないと思っていたから、今はもう胸がいっぱい過ぎて、なんて言っていいのかわからないような気持ちなの」
わたしはあまりの急な話に驚いたし、内心衝撃を受けていた。橋本さんが鎌倉に行ってしまうなんて。でもどう考えてもこの話は橋本さんのためにはとてもいい話だった。お子さんなど身寄りがいない橋本さんは誰かに面倒を見てもらう必要があるのだし、古い友達がそう申し出てくれたのは天の配剤のようなものだとわかっていたがやはり寂しかった。なるべくそんな表情を見せないように、わたしは無理に笑顔をつくった。良かったですねと喜んでみせた。それがどこまで橋本さんを欺けていたかはわからない。それから一週間後、橋本さんは退院し、立派な黒塗りの車が病院の正面に橋本さんを迎えに来ていた。あの女性も同乗しているようだった。わたしはどうしても見送る気になれなくて、三階の窓から橋本さんが出立する光景を眺めていた。他人事のような、実感のない、不思議な気持ちだった。誰よりわたしが親しかったのに、先生や看護婦さんなどが橋本さんと大げさに抱擁したり何か渡したりして別れを惜しんでいるのを上から眺めた。みんな橋本さんが好きだったし煮豆屋は病院から近いので顔見知りの人間も多いのだろう。でも彼女のことを一番よく知っているのも、一番この出立を喜んでいるのも悲しんでいるのもわたしなのに。そう思うと、泣きたくないのに涙がとまらない。こんなにあっさり切れていく縁と、絆に、なんだかもうどうでもいいような気持ちになって、ただ、ただ、悲しかった。喜ぶべきなのに喜べない自分のことも嫌だった。苦しかった。
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