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第二章 愛を乞う王子
第二十八話
しおりを挟むなだらかな丘を、30分ほど歩いただろうか。市達は、ようやく丘の上に辿り着いた。そこは見晴らしがよく、下の方に白薔薇宮殿が見える。
「こ、こんなに歩いたのは久しぶりです……」
息も絶え絶えに、市はぐったりと項垂れた。その後ろに、少しやつれた顔をしたラビアと、ピンピンした晧月がいる。
「だから、俺が抱っこして行こうかって言ったのに」
「私一人でも歩けまする!」
ラビアの前で、晧月に抱かれたままだなんて、気恥ずかしくて仕方がない。市は、じんじんと痛むふくらはぎを揉みながら、大きく息を吐き出した。ここに来てから、部屋にいることが多かった為、どうやら運動不足になっていたようだ。
ラビアが、芝生の上に大きなシートを広げて、食事の準備を始めた。シートを広げた場所は、丘の上でも一番高い場所なだけあって、景色が良い。
「……あれは……?」
宮殿とは違う方向を見れば、大きな川を挟んで、遠くに建物のようなものがちらほらと見えた。
「あれは、シュッタイト帝国の村だよ。国境沿いの小さな村さ」
晧月は、村がある方向を指さした。
「あそこが、シュッタイト帝国。その北に位置する国が、俺の国だよ……だから、こっちかな」
村よりもずっと北の方へ指を向ける晧月に、市はそれを目で追った。しかし、ここからでは晧月の国は、見えずらい。
「若君の国は、どんな国なのです?」
「俺の国に興味があるの?」
質問に質問で返されて、市はこくりと頷いた。すると晧月は、途端に嬉しそうに口角を上げる。まるで、自分の宝物自慢でもするように、彼は生き生きとした顔で、話し始めた。
「俺の国はね、暑いだけのシュッタイト帝国や、寒いだけのガラシア王国と違って、四季がある。そして、春の短いブロリンド王国と違って、春が長いのさ……だから沢山の花が、帝国中に美しく咲くんだ」
市は頭の中で、想像を膨らませた。春が長いだなんて、羨ましい国だ。きっと、のどかで自然豊かな美しい国なのだろう。市も、四季の中で春が一番好きだ。沢山の花を咲かせる国だなんて、一度この目で見てみたい。
「きっと、その景色はさぞ素敵なのでしょうね……」
「君が、皇妃になれば……その美しい景色は君のものになるんだよ」
晧月は市の横顔を見つめた。くるんと上を向いた睫毛。桜色の口紅により、愛らしくぷるんとした唇。晧月の視線に気付いた市の瞳が、きょろりと彼の方へと向いた。黒曜石のような瞳は、いつ何度見ても、飽きないほどに見惚れてしまう。
「好きだよ」
思ったことをストレートに口にすれば、市はギョッと目を見開いた。薔薇色の頬が、林檎のように真っ赤に染まる。
「な、い、いきなり何を言うのです」
「え?好きって思ったから言ったんだけど」
首を傾げた晧月は、市の慌て様にクエスチョンマークを浮かべた。何でも思ったことを口にするところは、市にもあるが、彼は更にその上をいく。
「だ、だからといって……なんだか、その……恥ずかしゅうございます……」
恥じらいの表情を浮かべる市は、目元まで赤らめて、見ている者の心臓を打つ。晧月も例外ではなく、ギュッと左胸が鷲掴みにされた。
「天使は、可愛いね」
「な……」
「すっごく可愛い。大好き」
市の瞳を覗き込んで、彼は愛情の篭もった銀色の色彩を、優しく細めた。市の胸が、ドキンと高鳴る。晧月の言葉は、まるで温度を持っているかのように暖かい。その暖かさは、市の胸を、春の日差しのようにポカポカと暖めた。ふいに、晧月が市の肩に触れる。それだけで、市の体は金縛りにでもあってしまったかのように動かなくなる。
ーーいやだ……私、どうしてしまったのだろう……。
晧月が触れた場所が、熱い。その感触を、温度を、何故だかとても……意識してしまう。
「肩に糸くずがついていたよ」
そう言って、彼は手を離した。その指には、糸が摘まれている。市は、消え入りそうな声で呟くように言った。
「ぁ……ありがとう、ございまする……」
この世の全ての輝きを詰め込んだような、彼の銀色の瞳は、太陽の下で魅力的に輝いていた。その眼差しに、市は目を合わせていられなくなる。やっぱり、自分はどこかおかしい。晧月といると、いつも体が変になる。心臓が暴れだして、息が苦しくなる。一体何だというのだろう。
「お二方、お食事の準備が整いました」
ラビアの声に、市はハッとして振り返った。芝生に敷いたシートの上に、お皿やサンドウィッチの入った箱が用意されている。ラビアは、お湯を持ってきていたようで、そこに茶葉を入れ、紅茶を煮出していた。
「さぁ、どうぞイチ様」
市がシートの上に正座すると、ラビアがマグカップに紅茶を注いで、手渡してきた。薄茶色の液体から、ゆらゆらと湯気が立ち昇り、いい香りが鼻先を擽った。市はホッと息をつく。
「晧月皇子も、どうぞ」
「どーも」
晧月も、ラビアから紅茶を受け取った。注ぎたての紅茶は、何ともいい香りを漂わせている。そんな晧月の横顔を、ラビアは暫くじっと見つめていた。
「……何?俺の顔に何かついてる?」
「い、いぇ……何も」
ぱっと視線をそらして、ラビアは市の後ろに下がる。晧月は訝しげに彼女を見つめたが、気にしない事にした。せっかく市と一緒にいるのだ。いちいち侍女の事など、気にしていられない。
「じゃあ、いただこうか」
「はい!」
卵やサラダ、ツナといった三種類のサンドウィッチが並んでいる。晧月は、サラダサンドを食べて、目をパチパチとさせた。市と共に食べるサンドウィッチの味は、いつもと違うように感じた。あっという間に食べきった晧月は、二つ目のサンドウィッチを手に取る。好きな女性といると、景色も違って見えるし、食べ物も特別な味に感じてしまうのだ。彼は、そう考えて、少し照れ臭くなった。きっと、自分はもう……かなり、市に惚れ込んでしまっている。紅茶の味ですら、砂糖なんて入れていないのに、甘く感じるだなんて。
紅茶を飲む晧月の顔を、ラビアは市の影から、ひっそりと見ていた。その顔は少しばかり青ざめて……しかし、唇には笑みが浮かんでいた。
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