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第25話 迷走

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 母さんと約束した通り、あたしは友人たちと話し合おうと、二人に声を掛けた。

「正也」

 少年が振り返った。面白そうなものを探してすばしっこく動く銀縁眼鏡の奥の丸っこい目は、ばつが悪そうに視線を揺らがせた。

「瑠璃華」

 少女が振り返った。常に荒唐無稽な法螺話を生み出しているはずの、よく回る口は、固く真一文字の形を保ったままだ。

 名前を呼んだあと、あたしは二の句を継げずに彼らと見つめ合っていた。滾々と湧き上がってくる感情に対して、何と言えばいいのか、何を尋ねればいいのか、最適解を導き出せずに手をこまねいていると――――。

「えっと……」

「幸さん、今は珍しくお勉強をなさっていないんですね? 遊んでいる暇がおありのようで何よりです」

 気まずい空間に、継児がすぐさま割って入ってきた。正也と瑠璃華の腕に手を触れる。何事かを囁かれた二人が、はっとしたような顔をして、引き寄せられるように彼の後ろに下がった。

「すまない、間」

「ごめんね、サッチ」

「お前ら、何に謝って……」

「そうでしたよね。行きましょ?」

 俯いた二人の真意を問い質す間もなく、継児が強引に会話を終わらせようとする。あたしが追い縋ろうとすると、彼は明朗に言い放った。



 たったそれだけの発言が、泣きたくなるくらい衝撃的だったのは、すぐ側で聞いていた正也も瑠璃華も、背中を向けたまま否定しなかったからだった。

「そう、かよ」

 頭を重たい石で殴られたような動揺に襲われる。あたし、どこで間違えてしまったんだろう。何がいけなかったんだろう。

 どうして二人に嫌われてしまったのだろう。

***

 何かで頭を使ってないとおかしくなりそうで、かと言って勉強のモチベーションも湧かず、あたしはふらふらと図書室に入った。物語でも雑学でもいい、とにかく活字を脳で処理して、現実逃避がしたかった。

 室内には本の詰め込まれた書架が並び、閲覧席は混んではいないものの、間を開けて数人が座っている。今だけは一人になりたくて、あたしは人気のない奥の棚の方へ進んでいった。

 『友情を維持するために、あなたがすべきこと』『これで解決! 人間関係の手帳』『コミュニケーションが一方的になっていませんか?』

 そんなタイトルばかりが目について、余計に悲しくなってくる。辛気臭い顔を晒していても、ますますつまらない奴になるだけなのに。

 せめてもの欠点の補いになるかどうかは知れないが、あたしは辞書みたいな分厚さの『世界ジョーク大全』を引っ掴んだ。掲載されているジョークを全て覚えれば、今より多少は面白い女になれるだろうか。落ち着いて暗記に取り掛かるため、腰掛けられる場所がないかと辺りを見回した。

 すると、どこからか押し殺した話し声が聞こえてくる。内容までは分からなかったが、近くに誰かいるらしい。

 どん、と音がして、書架が僅かに揺れた。向こう側で自分が今抱えているような鈍器が落ちでもしたのだろうか。万一怪我人が出ていたら、と不安になったあたしは、細い通路を回って、棚の向こうを覗き込んだ。

「ん、元気……人が来たらどうすんの」

「ここにある『何とか大全』なんて誰も読みたがらないって……それより彩乃、図書室では静かにしないと」

 そこでは男子生徒が女子生徒を書棚に追い詰め、覆い被さってキスをしていた。

「うわああああ!?!?!?!?」

 あたしは混乱のあまり、『世界ジョーク大全』を取り落として叫んだ。それまでこれ以上なく落ち込んでいたところに、突如として他人のラブシーンをぶつけられてパニックになったのだ。

「え!? ……ええっ!?!?!?」

「きゃああああ!?!?!?!?」

 当然恋人たちも、二人だけの世界にいきなり乱入してきた他人に驚いて顔を上げた。

 それが互いに見覚えのある相手だったのは、もう不運としか言いようがない。
 
***

 図書室で騒いだことを咎められ、あたしと森永と目黒は、三人揃って司書の先生に部屋を追い出されてしまった。結局『世界ジョーク大全』も、貸出手続きが出来ていない。

 あたしは脱力して廊下にしゃがみ込み、頭を抱えていた。
 
「このバカップルが……学園ラブコメしてんじゃねえよ…………学園外でラブコメしろよ……」

「す、すみません。またもやその、お見苦しいところを」

 森永がおどおどと落ち着きなく手を擦り合わせる。いかにも自信なさげなその様子は、先程の情熱的な振る舞いと一切結びつかない。ていうか「図書室では静かにしないと」って何だよ。そもそも図書室でキスするんじゃねえよ。

 目黒の方も彼氏を止めろ。恨めしく思って睨むと、彼女はこつんと頭に拳を当てて、舌を出してみせた。反省の色が欠片も見当たらない。

「ごめーん。でもぉ、何か盛り上がっちゃって」

「弁えろ、公共空間だぞ。そもそも何であんなところで」

 あたしは未だにクラスメイトの生々しい場面を目の当たりにしてしまったことに動揺していて、半ば八つ当たりのように問い詰めた。森永が視線を逸しながら答える。

「教室は最近ちょっと居心地悪くて。図書室の奥なら、人目に触れずに二人でいられるから」

 生々しい答え方すんな。あたしは黙っていられずに言い返した。

「皆まで言うな! 教室が居心地悪いからって……居心地悪いからって?」

 反射的に鸚鵡返しをして、ふと気づく。あたしの目の前でいちゃこらついていた二人は、他のクラスメイトたちのようにぼんやりと熱に浮かされたような表情はしていない。いや、ある意味一番浮かれてはいるけれど、森永と目黒の場合、これが平常運転だから。

「ん? そうじゃん。会田最高! みたいな。確かに可愛いけどぉ、あそこまでいくとちょっと、異様?」

「会田くんをおいて他に神はなしって感じの盛り上がりだし……怖いですよ、普通に」

 語尾を上げて疑問形を作ると、二人は顔を見合わせて言った。その語り口からは、継児を盲目的に信じている同級生たちに違和感を抱いていることが感じられた。

 それが分かって、物凄くほっとした。少なくとも自分以外にも狂信者でない同級生がいるというだけで、四面楚歌から救われた気分だ。

 しかし、なぜ? 少し冷静になって考える。誘惑する気も起きないほど嫌われているらしい自分は例外として、継児に一定以上の好意を持つかどうかに、どんな条件があるというのか。あたしは彼らを改めて観察した。

「どうしました?」 「どしたん?」

 ちょっと目を離した隙に、二人はいつの間にやら指を絡めて手を繋いでいる。さも当然といった姿に注意する気もなくなり、あたしは大きく溜息を吐いた。目黒はともかく、森永も感覚が麻痺しているのではないだろうか。揶揄われるのは嫌がるくせに……。

「いや、何でもない。……悪かったな、ぐちぐち言って」

「いやいやいや! 流石に俺たちがまずかったですから。その……どうかご内密に」

「分かってるっつの」

「別にアタシは気にしないのに」

「お前はちったあ気にしろや」

***

 恋人繋ぎで去って行く凸凹カップルの後ろ姿を薄目に見守りながら、あたしは腕組みをして廊下の壁に背を凭れた。頭の中で一つの仮説を組み立てる。

 バカップル、もとい、強く想い合う恋人がいる場合、継児のの効果が薄い。

 そのアイディアには奇妙な説得力があった。あたしはふむ、と納得して、次にどうしようもなさにげんなりした。

 じゃあなんだ、正気に戻るにはバカップルになれと? まず彼がおかしなマインドコントロールに手を染めているという前提からして定かではないし、あまりにとち狂った理論だ。正気じゃないのはあたし自身じゃないのか。

 まず、バカップルの定義も曖昧だ。例えば恋愛の刺激によって血液中に特定のホルモンが一定量以上分泌されているとか? じゃあおかしくなっていると思う奴らに片っ端から薬剤を注射して回れば万事解決ってこと? どこのマッドサイエンティストだよ。

 自分と同様に森永たちも現状をおかしいと感じていることを知って気が紛れたかと思いきや、あたしは既に狂気の深みに両足を突っ込んでしまっているらしい。迷走した発想しか浮かんでこなくて、己に対する恐怖が湧き上がる。やっぱりまともじゃないのは自分の方なのではないか。

 あたしは額にかかる髪を掻き上げて目を閉じた。そもそも恋愛がどんなものか分かっていないのに、こんなこと考えるんじゃなかった。

 ぼんやりと母さんとの会話を思い出す。今まで恋人が欲しいと思ったことはなかった。相手もだけれど、自分自身がずっと誠実でいられるか分からない。

 そう考えると、あたしは随分長いこと付き合っている森永と目黒が少し羨ましくなった。

 ……友達さえ禄に大事にできないのに、何を現実逃避しているのだろう。

 嘆息して、自分に言い聞かせるように呟く。

「とにかくもっと情報を集めねえと……やっぱり正也と瑠璃華と話さなきゃ」

「ご友人のことが知りたいんですか?」

 あたしは甘ったるく鼻にかかった少年の声に驚いて目を開けた。隣には、気づかないうちに悩みの種が佇んでいた。
 
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