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第26話 転落阻止

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「どういうつもりだ? 内緒話でもしてえのかよ」

 距離を取りながら継児についていくと、彼はとある場所で足を止めた。この前あたしが掃除していた、校舎奥の人気のない階段だ。日の差さない暗い踊り場で、あたしは彼の小柄な背中に向かって尋ねた。

「せっかちですね」

 自分から呼び出したくせに、彼は勿体つけて本題には入らず、手首を隠す学生服の袖をちょっと捲って、高そうな腕時計を眺めている。暗赤色の文字盤に細い黒革のベルトのついた小洒落た時計だ。変わった形の留金は真紅の石でできていて、アクセサリーのようだった。こいつ、こんなのつけてたっけ。

 あたしは焦れったく思いながら、何で図書室の前からわざわざここまで移動してきたのか考えた。継児は珍しく取り巻きを連れず一人でいて、声を掛けてきたかと思えば開口一番「ご友人のことが知りたいんですか?」と来たものだ。

 思わず頷いてしまったが、どうせまた嘲弄されるのだろう。この前ここで、相手の思う存分に甚振られたことを忘れられるはずがなかった。あたしが友人たちの信頼に足る人間ではないと突きつけて、心底愉快そうに笑っていたことを。 

 あたしは深呼吸をして、眉間に寄った皺を解した。

 継児がどれだけ自分を馬鹿にするつもりだろうと構わない。傷ついているだけではいられない。それでは何も解決しないのだから。

 継児の目的は? こいつは何を考えている?

 思考を渦巻かせながら、こちらに背を向けた少年の、丸みのある後頭部をじっと見つめる。目の前の可愛らしい生き物の正体を見破らなくてはならない。継児は何を仕出かそうというのだろうか。

 あたしは大きく息を吸い込んで、言った。

「お前、何者なんだ?」

 そう言うだけで妙に緊張して、心拍数が上がった。声が変に上擦っている。何者なんだ、って。まるで相手がクラスメイトの男子ではなくて、素性の知れない不審者みたいな言い方だ。自分で口にしておきながら、あたしはその質問のあまりに不躾な響きに戸惑っていた。

 継児が振り返った。その顔には憂えたような表情が浮かんでいる。偶像のようなカリスマではなく、幼子のような天真爛漫さでもなく。彼は本当に悲しそうに、答えにならない嘆きを漏らした。

「さあ、何者なんでしょうか」

 あのときと同じだ。以前に彼が気を失って倒れたときのことを思い出した。あたしには理解できない理由で憤り、理屈の読めない悲しみを表す。今もまた美しい生命体は、どこまでも透き通った瞳を潤ませた。

「それに対してあなたと来たら」

 少年は象牙細工のような人差し指をあたしの鼻先に突きつける。

「勉強ができて、運動ができて、機転も利くし、気味が悪いくらい寛容だ」

 とても褒めているとは思えない鬱々とした面持ちで、彼はあたしの凡庸な長所を並べ挙げた。違う、咎を責め立てられていた。継児にとって、あたしの持つそれらは全て悪徳なのだ。

「それなら、一つくらい僕に譲ってくれたっていいでしょう?」

 継児は両腕を大きく広げた。全身で己の正当性を訴えかけるその姿に、疚しさは欠片も見当たらない。開いた口から言葉が零れた。

「正也も、瑠璃華も……友達は譲るとか、そういうんじゃねえだろ……」

 脈絡なく、みっともなく、そう言ってしまったのは、それが自に恵まれたものの中で、一番価値のあるものだったからだ。一番失いたくないものだったからだ。

「要りませんよ、そんなくだらないもの。僕が欲しいのはもっと別のものです」

 だから、少年が簡単に言ってのけたことに、横っ面をぴしゃりと叩かれた気持ちになった。くだらない、だって? あたしは暫く呆然としていて、気がつくと継児に詰め寄っていた。

「じゃあ何なんだ! 何が欲しくてこんなことをしている? お前が来てから何かがおかしい、説明しろ!」

 感情的になったあまり、主張はまるっきり支離滅裂だった。もう少しで継児に掴みかかりそうだったにもかかわらず、視線は交わらなかった。彼は己の手首の時計に目を落として呟いた。

「時間だ」

 そのとき、階段の下から二人分の足音が近づいてくるのが聞こえてきた。

「けーくん、こんなところに呼び出して、間が何を考えているか教えてくれるって……本当なのかな。姶良、やっぱり俺たち自身がきちんと謝るべきでは……」

「駄目だよ、まさやん。相談したとき、けーくんにも言われたでしょ? ……うちら、サッチのこと裏切ったんだよ。状況も変わってないのに、謝ってもどうにもならない」

「そう、だよな。問題も解決してないのに……未だに親も説得できていないのに、一方的に分かってくれ、だなんて。不誠実だよな……」

 会話の内容は完全には聞き取れなかったが、話し手が誰なのかはすぐにぴんと来た。正也と瑠璃華だ!

 あたしは顎を引いて姿勢を正した。どんなことになっても構わない、二人の本心が知りたい。少年の身体を押し退けて、階段を駆け下りようとした、そのときだった。

「もういい。直接あいつらと話して……」

「行かせません」

 ぐいと腕を引かれて引き止められ、その拍子に立ち位置が入れ替わる。あたしは踊り場に、継児はその縁に。そうして少年は自分の両手を重ねたあたしの手を、彼の胸元にぴとりと這わせた。

「信用を落とすには、こういう古典的な手が効果的ですよね」

 頭が混乱で真っ白になった。この絵面――――訴えられたら負ける!

 というか、これからここにやって来る正也と瑠璃華に変な誤解を与えたくない。今まで掻いたことのない変な汗が噴き出る。

「や、止めろ、離せ! 離れろ! いやもうこっちが離れる! あたしら距離置こうぜ!」

 美人局には断固反対だ! あたしが焦って喚きながら後ろに飛び退こうとすると、継児は清々しい笑みを浮かべた。

「お望み通りに」

 蕩けるほど甘い囁きとともに、手のひらに触れていた華奢な少年の胸部の感触がなくなり、手応えが失われた。継児は階段の一番上から、後ろ向きに倒れ込む。何もない空中に向かって。

 あたしは息を呑んだ。継児の黒い両眼は三日月のように細められている。少年は満足げに笑い、勝ち誇っていた。
 
 その場の動き一つ一つが、スローモーション動画のように強調されて見えた。重力に従って仰向けに落下していく少年の肢体。曲がり角から姿を現した正也と瑠璃華が、驚いたように頭上を見上げている。

 意味が分からなかった。けれども、継児の目的とか意図とか色々考えるよりも前に、あたしの足は床を蹴っていた。なんて馬鹿なんだろう、間に合うはずがないのに。

 でも――――その瞬間、全身に力が漲った。心臓の辺りで蟠っていたエネルギーが破裂して、隅々まで満ち満ちる。あり得ないくらい素早く身体が動いて――――あたしの手は、落ちゆく継児の手に、届いた!

 細い手首を掴むと、無理矢理に彼を引き寄せて身体を捻り、上下を入れ替える。自分の腕の中で愕然と目を見開いた継児の顔が見えたが、もう地面は目前だ。あたしは一際強く少年を抱え込み、自分も頭を庇いながら、襲い来るだろう痛みへの覚悟を決めた。 



 強烈な白い光が、眼窩の奥で閃いた。



 物凄い音を立てながら、あたしたちは廊下に転がり落ちた。辺りに砂埃が舞い散り、正也と瑠璃華が悲鳴のようにあたしの名前を呼んだ。

「間!」「サッチ!」

「いった! ……く、ない? あれ……?」

 あたしは戸惑いながら、上体を起こして自分の背中に手をやった。かなりの勢いで転落したせいで、反射的に痛みを訴えてしまったが、実際には何らの痛痒もなかったのだ。

 衝撃のあまりに神経が死んでしまったのかと不安が過ったが、手も足も不自由なく動かすことができる。どうやらこのアクシデントにおいて、奇跡的に己の受け身を取る才能が開花したらしい。状況の現実味の薄さに、思わずそんなことを考えていると、真っ青になった正也と瑠璃華に、両側から揺さぶられる。

「間、平気か!?」

「サッチ、大丈夫!?」

「ああ……怪我はないみたい、だ!?」

 答え終わるより前に、二人はあたしの肩にそれぞれ腕を回して、強引に引っ張り上げた。

「わっ! おい、何を……」

「抵抗するな! お前を保健室に連れて行く。覚悟しろ!」

「大人しくしなさい。さもないと余計に傷口が開くことになるよ」

「いや怪我してねえって」

 怪我した子どもを攫って病院に届けるすこやか誘拐犯みたいな台詞を口々に述べて、正也と瑠璃華があたしを立ち上がらせようとしてくる。その弾みに、あたしの腹の上で茫然自失していた継児はずり落ちて体勢を崩し、床の上で四つん這いになった。
 
 彼ははっと正気づいたように顔を上げ、取り乱した風に叫んだ。

「ち、違う! 僕のせいじゃない、二人とも見ていましたよね? 僕のせいじゃ……」

 その言葉は、あたしが口を挟むよりも前に、焦った様子の友人たちに突っ撥ねられた。

「けーくん、悪いが後で! 今はとにかく間の一大事だ! 人を呼んできてくれ!」

「けーくんはどこもぶつけてないよね! とりあえず先生に伝えて!」

 正也と瑠璃華に引きずられるようにして、あたしはその場を離れることになった。だから、継児がどんな顔をしていたのか、結局最後まで分からなかった。
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