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海亀姫と竜宮の魔女 1
ひっくり返ったまま、起きあがることが叶わずにじたばたしていた生まれたばかりの自分を、あのひとは難なくおおきなてのひらで、掬いあげてくれた。
「かわいそうに、波が引いちまったか。ほら、海にかえりな」
黒い服を着た人間が、砂場で動けなくなっていたちいさな身体を片手で持ち上げて、塩辛い海へと、寄せては返す波の元へとそっと、戻してくれたのだ。
カラカラに干からびていた身体はようやく海の水に触れて、ゆっくりと動きを取り戻す。首を傾け彼の顔を見ようとしても、白波に遮られて、もう、彼の姿を見ることもできない。
――気まぐれな人間に救われたのだね。
遊亀の体験に耳を傾けた主は、そう言って淋しそうに微笑む。彼女がそんな風に遠い目をすることが意外だったから、遊亀は気まぐれでも、嬉しかったことを語った。
もし、もう一度あのひとに出逢えるのならば、今度こそ、お礼を言いたいと、そう心に決めて。
いまなお自分の目の前で幸せそうに語る遊亀を、主である乙姫は眩しそうに見つめ、呟く。
「もし、お前がそれほどまでに願うのならば、深海の魔女に頼むがよい。きっと、命の恩人と逢わせてくれるだろうよ」
その言葉を胸に、遊亀は棲みなれた竜宮を抜け出し、深い海の底へと向かう。
深海の魔女に、願いを叶えてもらうため。
* * *
遊亀、という名前は自分の主である乙姫がつけてくれた。乙姫は人間と同じ姿でありながら、陸の上へ出ることを許されない、この竜宮と呼ばれるちいさな楽園の女王で、この海に生きるすべての生物の母親的存在でもある。
「海に遊ぶ亀の女子よ。お前の名は今日から遊亀じゃ」
砂浜に無数に産卵されたウミガメの卵から孵った兄弟たちのことを、遊亀は知らない。潮の満ち引きの契機を逃してひとり、取り残されてしまったから。
月のない夜に生まれ、数日間地中に潜んで砂の温度が低くなるのを待ち、光さす波打ち際を求めて進んだはずなのに、自分だけ別の方向に進んでいたのだ。歩いても歩いても海に辿りつけず、しまいにはひっくり返って動けなくなって、愕然とした。
甲羅を逆さまにしてじたばたもがくことしかできなかった生まれたばかりのウミガメの子はそのまま干からびて死ぬか、上空を旋回していたトンビの食餌にされるかしか、選択肢が残されていなかった。
けれど、遊亀は生き延びた。そして、乙姫が統治する竜宮で、彼女の傍で生きることになった。なぜかといえば、乙姫が人間の手によって母なる海へ導かれた遊亀のことに興味を持ち、自分の傍に置いておきたいと考えたから。
そして遊亀もまた、美しい人間の姿をした乙姫の傍にいることで、人間に救われたことを忘れないようにしていた。
あれから七年ちかい年月が経ち、遊亀ももう、小亀ではなくなった。性的成熟期が訪れたこともあり、遊亀とともに乙姫に仕えていた牡亀たちは乙姫の傍で悠然と泳いでいる遊亀に惚れ、こぞって求婚をはじめた。子孫を残すため、同族同士で結ばれるのは当り前のこと、そうはわかりきっていても、遊亀はまだ、自分が結婚して子を成すことが想像できずにいる。
目裏に浮かぶのは、いつだって赤子のころの自分。そして、やさしくてごつごつとした手のひらを持つ、人間。
「お前は人間に恋をしたのかえ?」
牡亀たちの求婚に応えることなく悶々と過ごしていた遊亀にしびれを切らせた乙姫に指摘されたのは、ほんの三日前のこと。
「……恋?」
おおきな瞳をまるくして、遊亀は乙姫に向き直る。牡亀たちの求婚を回避するのに一生懸命になっていた遊亀は、乙姫のその言葉に唖然とした。
「お前は小亀のときからことあるごとに妾に自分を救った人間が素晴らしいことを口にしていたではないか」
そう言われて、遊亀は瞳を瞬かせる。命の恩人である人間のことを忘れることはけしてないと、確かに遊亀は、乙姫に告げた。
「このままここにいても、人間に逢うことは叶わぬ」
乙姫はぽつりと零し、呆気にとられている遊亀の前から背を向ける。
「乙姫さま……?」
「もし、お前がそれほどまでに願うのならば、深海の魔女に頼むがよい。きっと、命の恩人と逢わせてくれるだろうよ……もっとも、極悪な魔女のことだから、代償を求められはするけどの」
その言葉を、遊亀にだけ聞こえるように囁いて。
「かわいそうに、波が引いちまったか。ほら、海にかえりな」
黒い服を着た人間が、砂場で動けなくなっていたちいさな身体を片手で持ち上げて、塩辛い海へと、寄せては返す波の元へとそっと、戻してくれたのだ。
カラカラに干からびていた身体はようやく海の水に触れて、ゆっくりと動きを取り戻す。首を傾け彼の顔を見ようとしても、白波に遮られて、もう、彼の姿を見ることもできない。
――気まぐれな人間に救われたのだね。
遊亀の体験に耳を傾けた主は、そう言って淋しそうに微笑む。彼女がそんな風に遠い目をすることが意外だったから、遊亀は気まぐれでも、嬉しかったことを語った。
もし、もう一度あのひとに出逢えるのならば、今度こそ、お礼を言いたいと、そう心に決めて。
いまなお自分の目の前で幸せそうに語る遊亀を、主である乙姫は眩しそうに見つめ、呟く。
「もし、お前がそれほどまでに願うのならば、深海の魔女に頼むがよい。きっと、命の恩人と逢わせてくれるだろうよ」
その言葉を胸に、遊亀は棲みなれた竜宮を抜け出し、深い海の底へと向かう。
深海の魔女に、願いを叶えてもらうため。
* * *
遊亀、という名前は自分の主である乙姫がつけてくれた。乙姫は人間と同じ姿でありながら、陸の上へ出ることを許されない、この竜宮と呼ばれるちいさな楽園の女王で、この海に生きるすべての生物の母親的存在でもある。
「海に遊ぶ亀の女子よ。お前の名は今日から遊亀じゃ」
砂浜に無数に産卵されたウミガメの卵から孵った兄弟たちのことを、遊亀は知らない。潮の満ち引きの契機を逃してひとり、取り残されてしまったから。
月のない夜に生まれ、数日間地中に潜んで砂の温度が低くなるのを待ち、光さす波打ち際を求めて進んだはずなのに、自分だけ別の方向に進んでいたのだ。歩いても歩いても海に辿りつけず、しまいにはひっくり返って動けなくなって、愕然とした。
甲羅を逆さまにしてじたばたもがくことしかできなかった生まれたばかりのウミガメの子はそのまま干からびて死ぬか、上空を旋回していたトンビの食餌にされるかしか、選択肢が残されていなかった。
けれど、遊亀は生き延びた。そして、乙姫が統治する竜宮で、彼女の傍で生きることになった。なぜかといえば、乙姫が人間の手によって母なる海へ導かれた遊亀のことに興味を持ち、自分の傍に置いておきたいと考えたから。
そして遊亀もまた、美しい人間の姿をした乙姫の傍にいることで、人間に救われたことを忘れないようにしていた。
あれから七年ちかい年月が経ち、遊亀ももう、小亀ではなくなった。性的成熟期が訪れたこともあり、遊亀とともに乙姫に仕えていた牡亀たちは乙姫の傍で悠然と泳いでいる遊亀に惚れ、こぞって求婚をはじめた。子孫を残すため、同族同士で結ばれるのは当り前のこと、そうはわかりきっていても、遊亀はまだ、自分が結婚して子を成すことが想像できずにいる。
目裏に浮かぶのは、いつだって赤子のころの自分。そして、やさしくてごつごつとした手のひらを持つ、人間。
「お前は人間に恋をしたのかえ?」
牡亀たちの求婚に応えることなく悶々と過ごしていた遊亀にしびれを切らせた乙姫に指摘されたのは、ほんの三日前のこと。
「……恋?」
おおきな瞳をまるくして、遊亀は乙姫に向き直る。牡亀たちの求婚を回避するのに一生懸命になっていた遊亀は、乙姫のその言葉に唖然とした。
「お前は小亀のときからことあるごとに妾に自分を救った人間が素晴らしいことを口にしていたではないか」
そう言われて、遊亀は瞳を瞬かせる。命の恩人である人間のことを忘れることはけしてないと、確かに遊亀は、乙姫に告げた。
「このままここにいても、人間に逢うことは叶わぬ」
乙姫はぽつりと零し、呆気にとられている遊亀の前から背を向ける。
「乙姫さま……?」
「もし、お前がそれほどまでに願うのならば、深海の魔女に頼むがよい。きっと、命の恩人と逢わせてくれるだろうよ……もっとも、極悪な魔女のことだから、代償を求められはするけどの」
その言葉を、遊亀にだけ聞こえるように囁いて。
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