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chapter,6

~神謡に舞姫は開花を願う~ 3

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   * * *


 意識を失ったのはほんの一瞬のことだったらしい。右も左もわからない誰もいない暗闇に、道花はひとりぼっちになったような錯覚を覚える。

「……あれ、あたし」

 何か大切なことを忘れてしまったような気がする。自分はこれからなさねばならないことがあったはずなのに、どうしてだろう、もうそんなことどうでもいいではないかと投げやりな気持ちになっている。

 すべてを無にしたら楽になれるだろうか。そう思ったことは一度や二度ではない。けれど根が楽観的な道花はそうなるための苦しみを想像するのが厭で、結局生きることを選びつづけた。母親に生命を狙われつづけていたと知らされたいまだって……

 こんなところでじっとしてなどいられない、早く彼と合流しなくちゃ!

「彼って誰だっけ?」

 こめかみがずきずきする。時折走るこの痛みはなんだろう、また女王が呪詛でもしかけたのだろうか。けれど、浄化をしようにも原因がわからないから、いまの道花にはどうすることもできない。
 ふと、視界が拡がり、道花の前におおきな火柱が立つ。これは、どこだろう。まさか、帝都……?

 また、ズキリと頭が痛む。考えることをやめさせようとする頭痛に、道花は顔を顰めたまま、火柱を睨みつける。神皇帝と対立する何者かが帝都に火をつけたのだろうか。それともこれは道花に見せている幻覚か……

「って、現実だろうが幻覚だろうがどっちでも消さなきゃダメでしょ」

 見過ごすなんて許されることではない。道花を焦らせるための幻覚であったとしても、彼女はそれを止めさせるために動くことをやめられない。
 頭痛を無視して神謡を紡ぐ。暗闇に銀色の閃光が迸る。悪しきものをすべて浄化する珊瑚蓮の精霊のちから。道花はうたうように詠唱しながら火柱を睨みつける。
 けれどその先に、紫の衣をまとった少年がいる。道花の行為をやめさせようと必死になって、こっちに向かっている。どうして?

「っ!」

 焼けるような痛みが全身を貫く。悪しきモノを滅ぼす閃光が、自分を敵だとみなしている。なぜ? 道花は短い悲鳴をあげ、その場へ突っ伏す。まるで透明な壁に遮られているみたい。
 それよりも自分を攻撃した閃光に、道花は愕然としていた。着ていたものが焼失し、素っ裸の状態に陥ってしまったのだ。
 暗闇のなかに浮かび上がる自らの裸体を確認し、ふるふる身体を震わせた道花は、いまになって得たいの知れない恐怖を感じ、おそるおそる周囲を見回す。人影はない、けれど――……

 しゅるしゅると、待ち伏せをしていたかのように道花を囚えた檻から茶色い蔦のような手が伸びてくる。逃げ出そうにも狭い檻の中の道花は、あっさり捕獲されてしまった――そうだ、自分の体内にはいま、闇鬼が潜んでいる。このまま、闇鬼を操る鬼神の囁きに身を委ねて悪しきモノに喰われたら……珊瑚蓮は絶望の黒い花を咲かせてしまう。


「……そっか、そういうこと」

 浄化しようにも自分まで浄化しかねないいまの状況に気づき、道花は溜め息をつく。おまけに記憶の一部を損なっている。女王陛下が自分の母親で自分を殺そうとしたことは覚えているのにいまの神皇帝が誰でどういうひとなのかすっかり忘れている。
 これはいけない、きっと那沙に莫迦にされる。
 上空で囚われた道花の姿は丸見えだったのだろう。紫の衣の少年が心配そうに道花を見つめている。なぜ彼は自分をあんな風に見つめているのだろう。まるで恋人を案ずるような……
 ズキッと頭が痛み、これ以上思い出すことをやめろと訴える。けれど道花は諦めない。
 そして直感する。海に誓った蓮が求める愛を、彼が持っていると。


「――あなたが、珊瑚蓮に愛を注ぐ主なのね……」


 自分とともに。
 それだから彼は自分を救おうと必死になってこっちに向かっている。あの、火柱のなかを。けれど、道花は黙って助けられるお姫様なんかじゃない。こんな状況で、愛するひとに自分がこのまま人外のモノに好き勝手される場面を見せるわけにはいかない……!


「そうとわかれば、容赦しないわ」


 海のちからを暴発させても、きっと彼が止めてくれる。なぜだか、そんな気がする。


 ――海神よ、ちからを貸して。


 全身を鋭い痛みが貫く。それでも道花は、もう、止まらない。
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