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第一部 新婚夜想 大正十三年神無月〜大正十四年如月《秋〜初春》
冬薔薇が散るその前に 02
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* * *
敷地内だからめかしこむ必要はないと下着を着ることは許されなかったが、有弦が用意してくれた前開きの小花模様のワンピースに多嘉子が譲ってくれた白いコートを羽織って、音寧は黒いブーツで庭先に躍り出た。有弦も木綿のシャツに藍色のズボンという休日らしいゆったりとした恰好をしている。
当たり前のことのように手をつないで、夫婦として庭園を歩くことに浮かれていた音寧は、履くことを許されなかった下着のことなどすぐに忘れてしまった。はじめのうちはスカートのなかがすうすうするとか、ワンピースのボタンの縫い目が乳首に擦れてへんな感じがするとか思っていたのに、現金なものである。
それに。いまはまだ邸の敷地内しか行動を許されていないけれど、太陽のひかりを浴びながら外の空気を吸うのは、裸に近い夜着一枚の状態で部屋のなかに閉じ込められていることに比べたら、とても健康的だと音寧は痛感していた。
「……もう、春なのですね」
「そうだな」
暦の上ではとっくに春を迎えている帝都は、弥生を前にようやく穏やかな日差しに恵まれるようになっていた。庭先に植えられている花木も、黄色い蝋梅だけでなく、白梅や桃の花が蕾を綻ばせている。
昨日も多嘉子と同じ道を歩いていたにも関わらず、音寧は嬉しそうに有弦の手を握りしめ、ゆっくりとした歩調で四阿に向かっている。
「たぶんあの四阿で鏡を落としてしまったのだと思います。有弦さまのことであたまがいっぱいになってしまって、落としたことに気づかなかったものですから」
「あたまがいっぱいになるくらい、俺のことを想ってくれたの?」
「……だって。岩波山の五代目有弦さまは震災による損害を挽回すべく精力的に復興に携わっていたから、身代わりの花婿だったなんて信じられなくて」
地面に落ちている乙女椿の花を横目に垣根を抜ければ、太陽のひかりを反射した観鏡池がふたりの前に現れる。昨日散歩した時間より早いからか、心持ち池の水の色が明るく見える。
青く煌めく水面には、手をつないだふたりの姿が鏡のように映し出されている。
その先には形見の鏡を落としたであろう白木の西洋風四阿の姿も確認できる。周囲に咲いている冬薔薇の深紅の絨毯が眩しいほどだ。
その、冬薔薇が咲く四阿の前で、有弦は足を止め、音寧に向き直る。
「姉君のことで気落ちしているであろう貴女に気をつかわせたくなかったからなのだが……もっと早く伝えていればよかったかな」
結局苦しめてしまったね、と後悔しながら心底申し訳なさそうに有弦が口に出せば、首を横に振って音寧は言い返す。
「わたしの方こそ、自分を双子の姉の身代わりだと、そればかり気にかけていたから……それに、まだ、有弦さまにお話したいこと、しなければいけないことも、たくさんあります」
「――俺もだよ」
きゅっ、とつないだ手にちからを込められて、音寧は頬を薄紅色にほんのり染める。
手をつないだだけで天にも昇る気持ちになる自分に呆れながらも、音寧は彼の柔らかな声音を内耳に留めて、瞳を輝かせる。
そんな彼女の純粋な姿を前に、有弦も恥ずかしそうに微笑み返す。
そして、彼女の額にちゅっと口づけをする。
「……有弦さまっ!?」
「生娘のような反応をするんだな。何度も俺に抱かれているというのに」
「だ、だって外で……」
「敷地内だから問題ない。それ以前に俺たちは夫婦だ。そうだよな?」
「――はい、有弦さま」
「……可愛い妻が隣にいるのだから、たくさんふれたいと思うのは当然の心理だ」
そういうものなのか、と思わず納得しそうになった音寧だったが、そのまま彼に無防備な唇を重ねられて、驚きで目を白黒させてしまう。
敷地内だからめかしこむ必要はないと下着を着ることは許されなかったが、有弦が用意してくれた前開きの小花模様のワンピースに多嘉子が譲ってくれた白いコートを羽織って、音寧は黒いブーツで庭先に躍り出た。有弦も木綿のシャツに藍色のズボンという休日らしいゆったりとした恰好をしている。
当たり前のことのように手をつないで、夫婦として庭園を歩くことに浮かれていた音寧は、履くことを許されなかった下着のことなどすぐに忘れてしまった。はじめのうちはスカートのなかがすうすうするとか、ワンピースのボタンの縫い目が乳首に擦れてへんな感じがするとか思っていたのに、現金なものである。
それに。いまはまだ邸の敷地内しか行動を許されていないけれど、太陽のひかりを浴びながら外の空気を吸うのは、裸に近い夜着一枚の状態で部屋のなかに閉じ込められていることに比べたら、とても健康的だと音寧は痛感していた。
「……もう、春なのですね」
「そうだな」
暦の上ではとっくに春を迎えている帝都は、弥生を前にようやく穏やかな日差しに恵まれるようになっていた。庭先に植えられている花木も、黄色い蝋梅だけでなく、白梅や桃の花が蕾を綻ばせている。
昨日も多嘉子と同じ道を歩いていたにも関わらず、音寧は嬉しそうに有弦の手を握りしめ、ゆっくりとした歩調で四阿に向かっている。
「たぶんあの四阿で鏡を落としてしまったのだと思います。有弦さまのことであたまがいっぱいになってしまって、落としたことに気づかなかったものですから」
「あたまがいっぱいになるくらい、俺のことを想ってくれたの?」
「……だって。岩波山の五代目有弦さまは震災による損害を挽回すべく精力的に復興に携わっていたから、身代わりの花婿だったなんて信じられなくて」
地面に落ちている乙女椿の花を横目に垣根を抜ければ、太陽のひかりを反射した観鏡池がふたりの前に現れる。昨日散歩した時間より早いからか、心持ち池の水の色が明るく見える。
青く煌めく水面には、手をつないだふたりの姿が鏡のように映し出されている。
その先には形見の鏡を落としたであろう白木の西洋風四阿の姿も確認できる。周囲に咲いている冬薔薇の深紅の絨毯が眩しいほどだ。
その、冬薔薇が咲く四阿の前で、有弦は足を止め、音寧に向き直る。
「姉君のことで気落ちしているであろう貴女に気をつかわせたくなかったからなのだが……もっと早く伝えていればよかったかな」
結局苦しめてしまったね、と後悔しながら心底申し訳なさそうに有弦が口に出せば、首を横に振って音寧は言い返す。
「わたしの方こそ、自分を双子の姉の身代わりだと、そればかり気にかけていたから……それに、まだ、有弦さまにお話したいこと、しなければいけないことも、たくさんあります」
「――俺もだよ」
きゅっ、とつないだ手にちからを込められて、音寧は頬を薄紅色にほんのり染める。
手をつないだだけで天にも昇る気持ちになる自分に呆れながらも、音寧は彼の柔らかな声音を内耳に留めて、瞳を輝かせる。
そんな彼女の純粋な姿を前に、有弦も恥ずかしそうに微笑み返す。
そして、彼女の額にちゅっと口づけをする。
「……有弦さまっ!?」
「生娘のような反応をするんだな。何度も俺に抱かれているというのに」
「だ、だって外で……」
「敷地内だから問題ない。それ以前に俺たちは夫婦だ。そうだよな?」
「――はい、有弦さま」
「……可愛い妻が隣にいるのだから、たくさんふれたいと思うのは当然の心理だ」
そういうものなのか、と思わず納得しそうになった音寧だったが、そのまま彼に無防備な唇を重ねられて、驚きで目を白黒させてしまう。
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