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第三部 溺愛狂詩 大正十二年神無月〜 《 未来 》
巻き戻された未来が示すもの 01
しおりを挟む大正十二年神無月廿日。
女学校に通いながら家業を手伝う十八歳の少女は今日も茶摘み着物を着て茶畑を動き回っていた。
静岡牧埜原の桂木農園の分家の養女として引き取られて七年、異能持ちの時宮一族のなかで無能と呼ばれ蔑まれていた音寧のことを知る人間はかつて時宮邸で働いていた養親しかいない。
静岡にいた音寧は一月前に帝都で起きた大地震の被害状況を知らされても実感がわかなかった。こちらもすこし揺れたが、棚の上の食器が割れた程度で、音寧は怪我ひとつしていない。
けれど実際にその場にいたという彼女がそのときのことを教えてくれた。過去から未来へ召喚され、時空を越えて現在の彼女に融合したという、音寧にとっての半分の女神が。
茶摘みを終えた音寧が茶畑から作業場へ戻る途中で、割烹着を来た同じ顔の女性が「お疲れ様」と笑顔で労う。
「お疲れ様です! あやねえさま!」
「いい加減、その呼び方どうにかしなさいよ。ここでのあたしはあやねじゃなくて、あかねよ」
「……あ」
「とねだって、おとねって呼ばれると嫌がるくせに」
「ごめんなさい、あかね、おねえさま」
桂木農園に通いで働く家政婦として、彼女――古河あかねは雇われた。古河は双子の亡き母の名字である。音寧と同じ顔立ちのあかねを見て、かつて時宮一族に仕えていた音寧の養父は事情を察したのか、はなればなれになっていたわけありな双子をこっそり邂逅させたのだ。
そこで音寧が知ったのは、時を翔るちからで未来の自分が過去に舞い戻り、時空の歪みを糺したこと、軍と協力して魔物を討伐し、震災で死ぬはずだった綾音と傑の運命を覆したという信じられない話だった。たしかに綾音と音寧の双子の姉妹には時宮一族だけが持つ破魔のちからがあって、そのちからを音寧が持っていなかったせいで時宮の家を出されたのだけれど……
綾音はそれぞれの過去と未来の自分がその破魔のちからで歴史を変革させたのだと音寧に告げ、帝都から忽然と消えた時宮の姫君の所在を彼女に問うた。過去から未来へ翔んだ綾音はすぐに召喚された過去の自分を取り込めたが、未来から過去へ翔んだ音寧は未来の自分の残滓がこの世界に漂っていると知らされても未来に何が起きたのか知るすべがないのだから、所在などわかるわけがないというのに。
「だけど、おとね、って呼ばれるのはなんだかむずむずするんです。自分のほんとうの名前のはずなのに」
「きっと、逢えればそのむずむずは解消するはずよ。未来の貴女は、五代目岩波有弦の花嫁として、それはそれは大切にされるのだから」
まるで見てきたことのように綾音は言う。
五代目有弦になるはずだった男と駆け落ちした彼女は、なぜ茶農家の養女になった音寧が豪商の花嫁になる未来を口にするのだろう。
音寧はまたおねえさまの法螺話がはじまりましたねと話半分に頷いて、話題を変える。
「今日は、英傑さまは」
「夫なら名古屋まで商談に行っているわ。あたしがとねのところにいるってわかっているから安心しているみたい」
「そうですか」
帝都東京で破魔の姫君としてもてはやされた時宮綾音として生きた彼女はここにはいない。いるのは日本橋本町の茶豪商次期岩波有弦と噂された男――岩波傑と駆け落ちしたあかねという無能の女。傑も次期有弦の座を捨て、彼女の手を取り、いまは古河英傑という名で東海地方を拠点にした商売をはじめている。結納まで済ませていたというのに、身分も名前も帝都での華やかな暮らしも捨ててふたりだけで生きることを決めた理由をここにいる音寧はまだ知らない。
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