水の都で月下美人は

ささゆき細雪

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Ⅸ 月下美人は商人の花嫁

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 メフメトが死に、ムラトは表向きイデアを弑して玉座についた。兄殺しの少年王の誕生に帝国は沸いた。
 その裏でイデアはザイードとともに追放され、メテオラで修道女となり、マイヤと再会した……かつてルクリエンテで公家に仕えていた一族の末裔で、いまなお復興を夢見ていた愚かな女と。
 暇をもて余したイデアはマイヤと活動するようになり、手始めに姿を消した白銀の姫君を探すようになる。カリーナ、という革命組織の名前に既視感を抱いたザイードだったが、それがアリーズと駆け落ちした男の母親の名前であることなど知るよしもなかった。
 メフメトが欲した砂漠の薔薇の行方もわからないまま、時間ばかりが経過した。
 ユリアーナに捧げられた指輪には、いまも白銀の姫君を守る精霊を喚ぶちからがあるのだろうか。もしあるのならば、イデアとともにオスマンの地に返り咲くことも可能だ。
 いつしか指輪を探すことがザイードの生きる目的になっていく。

 指輪は見つからなかった。けれどもイデアは白銀の姫君をメテオラに連れてきた。尼僧院で匿われたため、ザイードが彼女の姿を見ることは叶わなかった。
 亜麻色の髪という言葉に引っ掛かったものの、銀の瞳を持つ人間はそう滅多にいない。後宮解体後、テッサロニキでユリアーナの娘が銀髪銀眼のリリアンナを産み、髪の色を偽り豪商の娘として育てているとの情報もあったことから、ザイードはイデアが連れてきた白銀の姫君を先祖がえりしたリリアンナだと推測し、計画を練り返した。白銀の姫君とイデアがオスマンの地に戻り、反撃の狼煙をあげられるよう。
 だが、イデアは相変わらず権力に固執することもなく、逆にザイードを諌める始末。
 ザイードは煮え切らないイデアにしびれを切らし、いっそのことムラトの后にすれば自分の本懐を遂げられると気づき、暴走をはじめた。

 なぜなら、師匠アイザッハの孫はイデアだけではない。
 形式上自分の孫にあたるリリアンナを娶らせオスマン帝国を磐石なものにするのに、ぴったりな人物が既に玉座にいるのだ。現スルタン――ムラトにリリアンナを娶らせれば、かつての大賢者、アイザッハと自分の血を引き継ぐ人間がオスマンの地を征服し、発展へと導くことが可能となる。それは一時的な権力ではない、ザイードが死してからもつづく呪いにも似たちからとなって、帝国を支配するのだ。

 ――この寿命が尽きる前に、師匠が描いた夢を見届けることは叶うだろうか……?

 罰だとわかっていたが、リリアンナがムラトに弄ばれる姿を見せられたのには胸が痛んだ。彼女が悪い魔女だというのは誤解だと叫びたかった。それなのに媚薬を飲まされた己の下半身は疼いて、情けないまま小便漏らして逃げ出した。
 禁術を使ってまでダヴィデを逃したのは、自分にできないことをしてもらえると思ったからだ。リリアンナの情人だと思った彼だが、蓋を開けたらアリーズの娘と懇ろだった。亜麻色の髪に月色の瞳を持つ、もうひとりの月下美人と。

 ――エヴァンジェリン妃の血縁の娘……たしかアリーズは義理の兄と駆け落ちをしたと言っていたか……

 キリスト教で兄弟婚は禁忌にあたる。
 だが、イスラームの教義を崇めるオスマン帝国では権力者の近親婚など当たり前のように行われている。気に病むほどのことではない、とザイードも思ったが、実際のところ、真実はどうなのだろう。
 エヴァンジェリン妃の孫娘もまた、テッサロニキで育ったリリアンナのようにヴェネツィア共和国の庇護下にいた。
 謎を解く鍵は水の都ヴェネツィアにあるのだろう。そしてその鍵を開けるのは自分ではない。それだけは確かだ。

「だから――もうすぐ……師匠……あなたに」

 オスマン兵の身体から意識を飛ばしたザイードは、もとの老体に潜り込み、困惑した表情で対峙しているムラトたちを盗み見て、微かに。
 笑った。
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