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ホテルの一室でリクヒトの元恋人と親友夫婦が死んだことを、隣室のふたりは不審がっていた。お前が殺したのかと問いただされそうな鋭い眼差しを向けられた。けれどその先にいたのは熊だった。迸る悲鳴と轟く断末魔。
なぜホテルの敷地内にとつぜん人食い熊が降りてきたのかはわからない。リクヒトはセツナに引っ張られてその場を逃げ出した。ホテルの従業員が持ってきた猟銃が火を噴く。それでも熊は人間を襲うのをやめようとしない。阿鼻叫喚地獄絵図。
人間の血なのか獣の血なのかわからない、赤黒い色彩が視界を遮るように花開く。
「な、なんで、熊っ……!」
「逃げて」
非現実的な状況だというのに、セツナは動じることもなくひとりホテルの裏口からリクヒトを誘導していく。「こっち」とだけ言って、彼女は山道をぐんぐんのぼっていく。リン、リンという場違いな鈴の音がセツナから奏でられている。熊よけの鈴だ。リンリン。
熊出没注意の看板を無視して、慣れた足取りで地面を蹴るセツナに手を引かれ、リクヒトも必死になって足を動かす。熊が目の前で友人たちを襲った姿はまるで悪夢を見ているかのようだった。立っている位置が異なっていたら犠牲になっていたのは自分の方かもしれない。
「あった……」
山道をのぼっていくにつれて霧が濃くなっていく。初雪を観測したばかりの藍屑の山林はまだ深緑色だが、やがて真っ白になるのだろう。青臭い木々の香りが、腥い血の臭いを浄化しているかのようだった。そしてその先に、一軒の山小屋……
「入って」
「え」
「早く!」
勢いよく扉を開けられ、リクヒトは山小屋へ足を踏み入れる。朽ち果てた外観とは裏腹に、小綺麗な内部。ブレーカーをあげ、電気が使えるのを確認したセツナはヒーターのスイッチを入れる。ひんやりしていた室内がほんのりとあたたまりはじめる。
バタン、と扉を閉じてから数刻、バンバン、という叩くような音がリクヒトの耳に届く。
「うそだろ」
あの人食い熊が追いかけてきたのか……?
青褪めた表情のリクヒトを前に「そのまさかよ」とセツナがため息をつく。
「あなたたちは山の神の怒りを買ってしまったの。藍屑の山の神は熊の化身。ふだんは温厚だけど、禁域で罪を犯した者には容赦ないの」
さっきからセツナは意味のわからないことばかり口にしている。山の神? 禁域? 地元の人間であるセツナが口にしていると、リクヒトが聞いていた都市伝説が可愛らしいものに思えてくる。
「入ってはいけない場所に立ち入っただけでも許されないことなのに、山の神が下界へ降りて来るなんて……」
「お、俺はセツナに言われた通りトクノ草を摘んだだけだ! 神様を怒らせるようなことは……」
「あなたにトクノ草を採ってきてもらうように言ったのは間違いだったわね」
彼の言葉を遮って、淋しそうにセツナは呟く――そして。
「神罰だろうが人食い熊だろうが殺人鬼だろうが、死ぬのは怖くないわよ……でも」
「ンっ――……」
セツナにキスされて、リクヒトは猛烈な眠気に襲われる。まるで遭難時に急激に眠くなったかのような唐突な睡魔。
抗うこともできず彼女の腕のなかに倒れこんだリクヒトを見下ろし、セツナは聖女のごとく淡く微笑む。
「せっかく死ぬのなら、あなたと一緒がいいわ」
バンバンと扉を叩きつける音がおおきくなる。
山の神とその御遣いたちがセツナにその罪人を渡せと騒いでいる。
人食い熊の姿になって裁きを与える山の神はまだ怒っているのだろう。五人のうちのふたりを屠ることは叶ったが、獲物である夫婦はリクヒトに殺され、そのリクヒトはセツナの元にいる。山の神はセツナがリクヒトを庇っていると思っているのか、荒々しく山小屋の周りで騒ぐばかり。
「おあいにくさま、彼はあたいのものよ」
ホテルの一室でリクヒトの元恋人と親友夫婦が死んだことを、隣室のふたりは不審がっていた。お前が殺したのかと問いただされそうな鋭い眼差しを向けられた。けれどその先にいたのは熊だった。迸る悲鳴と轟く断末魔。
なぜホテルの敷地内にとつぜん人食い熊が降りてきたのかはわからない。リクヒトはセツナに引っ張られてその場を逃げ出した。ホテルの従業員が持ってきた猟銃が火を噴く。それでも熊は人間を襲うのをやめようとしない。阿鼻叫喚地獄絵図。
人間の血なのか獣の血なのかわからない、赤黒い色彩が視界を遮るように花開く。
「な、なんで、熊っ……!」
「逃げて」
非現実的な状況だというのに、セツナは動じることもなくひとりホテルの裏口からリクヒトを誘導していく。「こっち」とだけ言って、彼女は山道をぐんぐんのぼっていく。リン、リンという場違いな鈴の音がセツナから奏でられている。熊よけの鈴だ。リンリン。
熊出没注意の看板を無視して、慣れた足取りで地面を蹴るセツナに手を引かれ、リクヒトも必死になって足を動かす。熊が目の前で友人たちを襲った姿はまるで悪夢を見ているかのようだった。立っている位置が異なっていたら犠牲になっていたのは自分の方かもしれない。
「あった……」
山道をのぼっていくにつれて霧が濃くなっていく。初雪を観測したばかりの藍屑の山林はまだ深緑色だが、やがて真っ白になるのだろう。青臭い木々の香りが、腥い血の臭いを浄化しているかのようだった。そしてその先に、一軒の山小屋……
「入って」
「え」
「早く!」
勢いよく扉を開けられ、リクヒトは山小屋へ足を踏み入れる。朽ち果てた外観とは裏腹に、小綺麗な内部。ブレーカーをあげ、電気が使えるのを確認したセツナはヒーターのスイッチを入れる。ひんやりしていた室内がほんのりとあたたまりはじめる。
バタン、と扉を閉じてから数刻、バンバン、という叩くような音がリクヒトの耳に届く。
「うそだろ」
あの人食い熊が追いかけてきたのか……?
青褪めた表情のリクヒトを前に「そのまさかよ」とセツナがため息をつく。
「あなたたちは山の神の怒りを買ってしまったの。藍屑の山の神は熊の化身。ふだんは温厚だけど、禁域で罪を犯した者には容赦ないの」
さっきからセツナは意味のわからないことばかり口にしている。山の神? 禁域? 地元の人間であるセツナが口にしていると、リクヒトが聞いていた都市伝説が可愛らしいものに思えてくる。
「入ってはいけない場所に立ち入っただけでも許されないことなのに、山の神が下界へ降りて来るなんて……」
「お、俺はセツナに言われた通りトクノ草を摘んだだけだ! 神様を怒らせるようなことは……」
「あなたにトクノ草を採ってきてもらうように言ったのは間違いだったわね」
彼の言葉を遮って、淋しそうにセツナは呟く――そして。
「神罰だろうが人食い熊だろうが殺人鬼だろうが、死ぬのは怖くないわよ……でも」
「ンっ――……」
セツナにキスされて、リクヒトは猛烈な眠気に襲われる。まるで遭難時に急激に眠くなったかのような唐突な睡魔。
抗うこともできず彼女の腕のなかに倒れこんだリクヒトを見下ろし、セツナは聖女のごとく淡く微笑む。
「せっかく死ぬのなら、あなたと一緒がいいわ」
バンバンと扉を叩きつける音がおおきくなる。
山の神とその御遣いたちがセツナにその罪人を渡せと騒いでいる。
人食い熊の姿になって裁きを与える山の神はまだ怒っているのだろう。五人のうちのふたりを屠ることは叶ったが、獲物である夫婦はリクヒトに殺され、そのリクヒトはセツナの元にいる。山の神はセツナがリクヒトを庇っていると思っているのか、荒々しく山小屋の周りで騒ぐばかり。
「おあいにくさま、彼はあたいのものよ」
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